バターと小倉と、冷えた心がほどけるとき

 
 二十時過ぎ。
 新幹線は名古屋駅のホームに滑り込んだ。改札を出ると、名古屋特有の地下街から流れてくる湿った熱気と人の波に迎えられる。すると人混みの向こうから、甲高い声が響いた。

「茜ちゃん! こっち、こっちー!」
 
 そう言って手を振っていたのは、カジュアルなネイビーのジャケットにワイドパンツを合わせた女性──名古屋支社の先輩デザイナー、矢野葵さんだ。

「葵先輩!? どうしてここに……」
「東京の部長から電話があったよ。『小野寺が全部ひとりで抱え込んで名古屋に行ったから、サポートしてやってくれ』って。相変わらず不器用ねぇ、茜ちゃんは」
 
 名古屋駅のコンコースで出迎えてくれた葵先輩は開口一番そう言うと、私の手に握られていた重そうなビジネスバッグに目線を落とし柔らかく眉を下げた。東京本社でも面倒見がよいことで知られている先輩の目には、私の限界が見透かされているようだ。

「すみません。トラブルのことで、少し気が張っていて……」
「そんなこと、気にしなくていいのよ。でもね。出張の日の夜くらい、自分のペースでご飯を食べて心を整えなきゃね。今夜はひとりになりたいんじゃない?」
 
 打ち合わせの前に、ふたりで食事でも──そう考えていた私は言葉を詰まらせた。なぜなら、ひとりになりたいという本音を、見事までに見抜かれていたからだ。
 葵先輩は私の肩を優しくたたくと、スマートフォン操作して画面を見せてくれた。

「栄の地下街、セントラルパークにあるこの店に行ってみて。味噌煮込みうどんの店なんだけどカウンター席もあるし、ひとりでも気兼ねなく楽しめるから。熱々の味噌煮込みうどんを食べれば、胸に溜まってるモヤモヤなんて、汗と一緒に全部飛んでいくわよ」
 
 そう言ってくれる葵先輩の笑顔に、次第に心が軽くなっていく。

「……はい、ありがとうございます」
 
 葵先輩の思いやりに背中を押された私はその場で彼女と別れ、地下鉄東山線に乗って栄へと向かった。電車を降り葵先輩に言われたセントラルパークに行くと、そこには仕事帰りのサラリーマンや買い物客でにぎわっていて、温かな熱気に包まれる。
 葵先輩に教えてもらった店は渋い木目の格子戸に、短めの暖簾が掛かっている。ガラス越しに見える店内には、カウンター席に座り黙々と箸を動かす人の姿があった。
 普段の私なら「ひとりで外食なんて寂しい人と思われるかも」とか「さっさとホテルに入って資料に目を通さなきゃ」なんて全く気にせず、通り過ぎていたに違いない。けれど今夜は葵先輩の『心を整える』という言葉がそっと後押ししてくれているようで、私は少し緊張しながらも暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ。おひとりさま? こちらのカウンターへどうぞ」
 
 店員の女性の元気な声に導かれ席に着く。周りを見渡せば、スーツの上着を脱いだ男性や、私と同じようにビジネスバッグを足元に置いた女性が、一心不乱に味噌煮込みうどんをすすっていた。
 ここには誰も私のことを『完璧なウェブプロジェクトマネージャー』として見る人はいない。ただの『お腹を空かせた、おひとりさま客』でいられる安心感が、強張っていた身体を少しだけ緩めてくれた。
 それでも、迷わず注文した味噌煮込みうどんを待つ間、私は膝の上に握りこぶしを作っていた。
 脳裏をよぎるのは、東京に残してきた仕事のこと。そして、拓海との冷ややかなメールのことだ。
 
 私って、どうしていつもこうなっちゃうんだろう……。
 
 頼られることは嬉しい。けれど、誰かに頼ることはとてつもなく怖い。「大丈夫_」と聞かれたら、反射的に「大丈夫です」と返してしまう。そうやって周りに壁を作り、強がりという鎧を着こんできた。その結果、仕事ではひとりで抱え込んで破綻寸前。拓海には呆れられて、距離を置かれている状態だ。
 私の心は冷え固まったまま、なにをどうすればいいのかわからなくなっている。
「はい、おまちどうさま。熱いから気をつけて」
 威勢のいいおばちゃんが木製の鍋敷きの上に置いたのは、ふちがほんのり黒ずんだ年季の入った小ぶりの土鍋。パカッと蓋を取った瞬間、閉じ込められていた熱気が勢い良く立ち上がり、濃厚で甘辛い八丁味噌の香ばしい湯気が私の顔を包み込む。一瞬で視界が真っ白に曇り、鼻の奥まで濃密な出汁の香りが突き抜けた。
鍋の中を覗き込むと深い赤褐色のスープが、まるで地獄の釜のようにぐつぐつと激しい音を立てて煮立っている。
 
 すごい。なんだか、生きてるみたい……。
 
 中央には半煮えの卵が熱い湯気の中に浮かんでプルプルと震えていて、その周りに太い麺、油揚げ、かまぼこ、青ネギが乱舞している。私は恐る恐るレンゲでスープをすくい、熱々のそれにふうふうと何度も息をかけてから口に運んだ。

「……熱っ」
 
 ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。
 口の中に広がったのは、濃厚な出汁のうまみに、後から追いかけてくる大豆をじっくり発酵させた八丁味噌特有の渋みと苦み。それらが全部重なり合って深いコクを生み出している。舌に心地よい余韻を残しながら胃の中に熱いスープが落ちていくと、私の冷えきった胃袋にじわじわと熱が染み渡っていった。
 次に、土鍋の底から太くてずっしり重い四角い麵を、息を吹きかけてから一気にすする。

「……!?」
 
 思わず声が出そうになって、慌てて口を閉じた。
 想像していた讃岐うどんや関東のうどんとも違う、麺の中心に驚くほどしっかりとした芯が残っていて硬い。面の表面はつるつるしているのに噛んだ瞬間、モチッではなくゴツッとした強い抵抗感がすごい。
 正直なところ「茹でが足りないのでは?」と思ったが、けっして生煮えなどではない。打ち立ての生のうどんを鍋の中で直接煮込むからこそ生まれる、これが名古屋の味噌煮込みうどんの特徴のようだ。
 もちろんその分、味噌の味わいがうどんに染み入る。噛めば噛むほど小麦の純粋な香りと甘みが溢れ出してくる。そこに八丁味噌の濃縮されたうまみが絡み合い、癖になる美味しさへと変わっていく。
 
 硬いけど、噛むほどに味わい深い……。
 
 私は熱々のうどんを噛みしめながら、土鍋の湯気の向こうに東京での自分の姿を重ね合わせ、封印していた過去の記憶を引きずり出した。

 今から三年前──。
 まだプロジェクトマネージャーになって、間もないころのことだ。
 当時の私は、大きな新規案件の顧客を任されていた。嬉しくて、誇らしくて、自分の力を証明したくてたまらなかった。けれど途中で仕様の確認漏れが見つかり、スケジュールが大幅に遅延しそうになってしまった。
 焦った私は同期の同僚に、「手伝ってもらえないかな」と助けを求めた。しかし急ぎで頼んだその作業ににはいくつかのケアレスミスが見つかり、結局クライアントからの信頼を損ねる事態に発展してしまったのだ。
 その日の打ち合わせの帰り道、当時の上司から言われた冷ややかな言葉が、今でも耳の奥にこびりついて離れない。
『小野寺。人に頼むのはいいが、最終責任は指示を出したお前にあるんだぞ。誰かに任せてミスされるくらいなら、すべて自分でチェックして、手足を動かしたほうが確実だったんじゃないのか?』
──そうか。人に頼るから、期待するから傷つくんだ。
 あの夜、会社の給湯室でひとり泣きながら、私は決心した。
 もう二度と人に甘えない。
『大丈夫、任せてください。私ひとりでやれます』
『誰かに頼むより、自分でやったほうが確実ですから』
 そう笑顔で言い張って完璧なまでの壁を作り、心を固く閉ざしてしまった。
 可愛げもなく、強がってかたくなに心を開こうとしなかった私の態度は、まるでこのうどんの“芯”そのものではないか。誰にも頼れず、頼ろうともせず。ひとりで勝手に硬くなって、ひとりで勝手に傷ついていた。
 けれど葵先輩はそんな私を責めることもしないで、優しく「ひとりになりたいんじゃない?」と心を解きほぐす時間をくれたのだ。
 店内の心地よいざわめきの中で、ひとり土鍋に向き合う時間を……。
 熱いスープを飲むたびに額にじんわりと汗がにじみ、指先の冷たさが消えていく。胸の奥で凝り固まっていた『ひとりぼっちな強がり』が、少しずつ熱いスープに溶けているみたいだ。
 土鍋の真ん中に落とされている半熟になった卵の黄身を箸で割り、麺に絡めてみる。まろやかな黄身のコクが濃厚な味噌のスープに混ざり、味わいが劇的にマイルドへと変化した。その変化を眺めていると、なんだか急に鼻の奥がツンと痛くなり始めた。

「ごちそうさまでした」
 
 小さな声でそう言うと、心の中で『美味しかったです』とつぶやいて店を出た。
 階段を上がって、地下街から地上へと出る。栄の街を吹く風は相変わらず冷たいけれど、さっきまでの身を切るような冷気はもうどこにも感じられない。
 私はポケットからスマートフォンを取り出し、SNSの画面を開いた。
【葵先輩に教えていただいたお店、すごく美味しかっです。身体も心も温まりました。明日の打ち合わせ、よろしくお願いします!】
 送信ボタンを押す私の指先は、もう冷え切ってはいなかった。