バターと小倉と、冷えた心がほどけるとき

 秋から冬へと向かう、肌寒くなってきた十一月半ばの金曜日。あと十五分で終業時間を迎えようとしていた十七時十五分。
 パソコン画面の右下に、真っ赤な通知ポップアップが躍り出た。

【緊急事項 名古屋支社案件・仕様変更に伴うクライアント怒号の件──】
 
 送信者を見ると名古屋支社の営業担当者からで、マウスを握る指先がわずかに震える。同時に。煩わしい溜息が漏れ出た。
 
 こんな時間に……。
 
 恐る恐るメールを開くと、苛立ちを露わにした文面で「先方の担当の役員が激怒している。明日の十時に現場で直接説明がなければ、今期の億単位の契約はすべて打ち切ると言われた」と書かれていた。
 
 これは、今すぐ名古屋に来い──ということだろう。
 
 キーボードを打つ手を止めて嘆息を吐き出す。そんなことをしても、胸の奥の重苦しい不快感は消えてくれない。
どうしたものかと、周囲の席に視線を向ける。すると週末を迎えた同僚たちが、「今夜はどこ飲みに行く?」とか「渋谷に新しい居酒屋ができたんだよね」などと華やいだ声を弾ませていた。
 定時退社を前にしたオフィスの、どこかウキウキとした解放感。その賑やかな様子が、私の周囲だけ透明なカラス壁で隔てられたかのように遠く感じられた。
 
 私は小野寺茜(おのでらあかね)、二九歳。都内の大手IT企業でウェブプロジェクトマネージャーを務めている。
 手掛けたプロジェクトはどんなに過酷なスケジュールでも必ず納期通りに納品し、クオリティも落とさない。だから社内ではいつしか「鉄の小野寺」とか「彼女に任せておけば怖いものなし」なんて、二つ名で呼ばれるようになっていた。
けれど、その評価の裏に隠されているのは、極度なまでの『人に甘えられない不器用さ』だ。
 
 大丈夫です。それ、私がやりますから──。
 
 それが私の口癖で、自分を縛り付けている呪いの言葉。
 誰かに任せてミスをされたら、結局二度手間になる。だったら最初から、寝る間を惜しんででも自分でやったほうが確実だ。人に頼って『小野寺さんって使えないね』と思われるのがなによりも怖いし、自分の弱みを見せて失望されるくらいなら、完璧な仮面をかぶり続けるほうがずっと楽だ。
 仕方なくデスクの引き出しから出張用のアメニティが入ったポーチを取り出し、ノートパソコンを鞄に詰め込もうとした──そのとき。

「あれ。小野寺さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
 
 隣の席の後輩の柴田君が、心配そうにのぞき込んでくる。私は考えるよりも早く、形状記憶合金のように完璧な営業スマイルを顔に張り付けた。

「うん、大丈夫! ちょっと名古屋支社の案件で、急ぎの確認事項ができちゃってね。今から名古屋に行ってくる。週明けの打ち合わせの資料を柴田君のデスクに置いておいたから、確認しておいて」
「え、今から名古屋ですか!? それなら僕も手伝いますよ。残業もできますし……」
「いいの、いいの。私が直接行ったほうが話が早そうだから、柴田君は自分の仕事を進めてて」
 
 柴田君が差し伸べてくれた手を素直に取ればいいのに、私は反射的にそれを突っぱねてしまう。「大丈夫」と言うたびに、自分の心が少しずつ擦り減っていくのを感じながら……。
 
 
 部長に名古屋に行くことを伝えると、デスクに戻ってジャケットを羽織る。するとオフィスを出る直前、ジャケットのポケットの中でスマートフォンが短い振動を繰り返した。
 画面に表示されたのは、付き合って二年になる恋人の拓海からのメッセージだ。

【明日、予約してたレストランどうする? 十九時に恵比寿で待ち合わせだったよね?】
 
 それを見た途端、またしても深い溜息を吐いた。
 
 拓海との約束のこと、すっかり忘れてたよ……。
 
 エレベーターが来るのを待ちながら、感覚がなくなっていく指先で画面をフリックする。

【拓海ごめん。今から急に名古屋出張になっちゃった。明日の夜までに帰れるかわからないから、予約はキャンセルしてもらえるかな。本当にごめんなさい】
 
 送信ボタンを押すと、数秒で既読の文字がついた。しかし返ってきたのは、呆れを含んだような短い文章だった。

【そっか。仕事なら仕方ないね。無理しないで】

 文字ひとつひとつから漂ってくる、諦めの匂い。
 ここ数か月、拓海との間には冷たい風が吹いていた。
さっかくのデートの最中も無意識にノートパソコンを開いては、仕事のチャットを返してしまう。これでは、そうなるのも仕方がない。
 そんな私に対して拓海は怒るわけでもなく、ただ静かに距離を置くようになっていた。今さら、寂しそうな彼の顔が頭をよぎる。

 今の私って、仕事も恋愛も、なにもかもが空回りしてる……。

 そんなことを考えているうちに、東京駅に到着した。
 金曜夜の東京駅の新幹線のホームは、人ごみの熱気と雑音で溢れ返っている。
 私は出発時間が迫っている十八時十五分発のぞみに乗り込み、窓際の指定席のシートに身を沈めた。その瞬間、張りつめていた緊張の糸が途切れ、猛烈な疲労感が大波のように押し寄せてきた。胃がぎゅっと縮こまり、軽い吐き気すら覚える。
 
 そういえば、今日のお昼はゼリー飲料一本だけだった。なにかお腹に入れないと、途中で倒れちゃうかもしれない……。

 今の私の身体は、悲鳴を上げる一歩手前まで乾ききっていた。
 新幹線に乗る前にホームの売店でなんとなく買った小さな箱を、座席の折りたたみテーブルに置く。そこには『名古屋名物 天むす』の文字が躍っていた。包み紙を破り、箱の蓋を開ける。中には赤ちゃんの拳ほどの小さな一口サイズのおむすびが、お行儀よく並んでいた。そのてっぺんからは、衣をまとった小ぶりの海老の尾がちょこんと覗いている。
 それを添えられたお箸でひとつ掴み、口に運んだ。

「ん……」

 一口食べた瞬間、私は思わず目を見開いた。
 衣にしみ込んだ甘辛いタレの濃厚なコクと、噛んだ瞬間にプリッとはじけたエビの歯ごたえ。そして、冷めてもフワッとふっくらしたご飯の甘み。海苔の風味が鼻から抜けて、噛みしめるたびにタレとご飯が口の中で絶妙なバランスで解けていく。

「うん、美味しい……」

 思わずポロリと、素直な声が漏れる。
 そのときふと、箱のふちに添えられている黒っぽい佃煮──きゃらぶきに目が動く。それをかじると、ふき特有のほろ苦さと佃煮の濃い目の味が、天むすの甘みをギュッと引き締めてくれた。
 空っぽだった私の胃の中が、じわじわと温かくなっていくのがわかる。食べるという行為は、こんなにもダイレクトに“生きている”という実感を私に与えてくれる。
 
 そんな簡単なことすら、わからなくなっていたなんて……。
 
 このとき、ずっと浅かった自分の呼吸が、少しだけ深くなったような気がした。
 新幹線は夜の闇の中を、時速二七〇キロで駆け抜けていく。窓ガラスに映る自分の顔には目の下に濃いクマがあって、ひどく疲れ切っていた。

「うん、大丈夫……」
 
 私は自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、最後の天むすを口に放り込んだ。