それからというもの、俺たちは放課後になると当然のように郁真の家へ足を運ぶようになった。
最初の頃は、誰もいない玄関で靴を脱ぐだけでも妙に緊張していたものだ。「お、お邪魔します……」なんて、柄にもなく丁寧にお辞儀をして挨拶をしていたし、玄関の端に揃えて置いた自分の靴を見るだけで心臓がうるさく鳴っていた。
だが、今となっては、
「ただいま」
「はいはい、おかえり。いつも通り、手洗っておいで」
そんなやり取りが、どこか当たり前になりつつあった。
靴を揃える動作1つ取っても余計な力みが抜け、すっかり体に馴染んでいる。不思議と嫌な気はしないし、むしろその手慣れた会話の響きが、どこか特別で温かいもののように感じられていた。
「……いや、よく考えたらここ俺の家じゃないんだよな。いつも居座って悪いな」
「なに言ってるんだよ、今さら気にすんなって」
リビングでソファーに腰かけ、スマホを触っていた郁真が、少し可笑しそうに目を細めた。
「だって、お前に気を使わせてるんじゃないかって思ってさ。冷蔵庫のお茶とかも、勝手にいただいちゃってるし……」
「喉が渇いてるなら遠慮しなくていいって言ってるだろ。それに、唯斗がいてくれた方が俺も心強いから」
「そう言ってもらえると助かるけどさ。もう何日もお邪魔してるだろ?」
「それでも世界から見たら、たったの1日だろ」
「……それもそうか」
顔を見合わせて、2人で静かに微笑み合った。
今日が何回目の『22日』で、こうして同じ時間を何日重ねてきたのか、もう数える意味すら失われていた。カレンダーの数字は決して増えず、俺たちの思い出だけが一方的に積み重なっていく。どれだけ丁寧に時を過ごそうと、どうせ明日になれば、またすべてがリセットされた『22日』が訪れるのだから。
けれど、そんな変わらない世界の中でも、2人だけの小さな変化は確実に刻まれていた。
例えば夕食も、いつの間にか台所に立つ俺が作る側になることが増えていた。
「郁真、醤油取ってくれる?」
「はいよ」
「あと箸も」
「はーい」
迷いなくすらすらと答えた時、ふと郁真と目が合った。
「……お前さ」
「ん?」
「完全に俺の家を自分の家扱いしてない?」
「してないしてない」
「絶対してるだろ」
「ちゃんとお手伝いしてるだから、許してくれって」
最初はこの広いリビングで2人きりで囲む食卓も、どこか落ち着かなかったものだ。
向かいの席に座っているだけで妙に意識してしまい、何を話せばいいのか分からず、沈黙が訪れると気まずくて箸を動かす音や食器の擦れ合う音まで気になっていた。
それが、今ではどうだ。
「これ、味濃くないか?」
「ちょうどいい。俺このくらいの味付け好きだな」
「ほんと?喉乾かない?」
「大丈夫。うん、すごくうまい」
「そっか。よかった」
そんな他愛もない会話を交わしながら、ごく普通にご飯を食べている。
低音量でつけっぱなしにしたテレビのニュースを、なんとなく2人で眺める。もう何周もしたはずなのに、どうにも眺めてしまう。
この空間が今の俺にとってはたまらなく愛おしく、心の底から心地よかった。世界の時が止まっているからこそ、このリビングの中だけに流れる穏やかな時間が、何よりも愛おしく思えて仕方ない。
「ふぅ、ごちそうさま。風呂、先に入るか?」
食後の片付けを2人で並んで終えると、郁真がタオルを準備しながら聞いてくる。
「郁真が先でいいよ」
「そっか。じゃあ、そうさせてもらう」
「あ、着替えはー…またTシャツ勝手に借りるわ」
「もちろん。分かってるかもしれないけど、一応な。引き出しの2段目に入ってるから」
その言葉に強く頷く。
洗面所の場所も、替えのバスタオルの位置も、冷蔵庫のどこに何が入っているかも、全部完璧に知っている。
何度も何十回も同じ1日を繰り返している内に、俺の身体は自然な動作で郁真の家を動けるようになっていた。
…でも…本当に、不思議なものだ。
世界は何も進まない。
毎日が同じ22日。
同じ朝を迎え、同じ通学路を歩き、同じ授業を受け、同じ夕方を繰り返す。
外の世界の人間は、俺たちと交わした会話も、昨日起きた出来事も、朝になれば全部忘れてしまう。
それなのに、このループする世界の中で俺たちの距離だけは1歩ずつ確実に縮まっていた。
脱衣所から聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、俺は自分の左手を見つめた。
人差し指にはめられた鈍い銀色の指輪は相変わらず消えることなく、堂々とその存在感を示しながら部屋の照明を反射して静かに煌めいている。
「……痕跡、か」
指輪に残されたわずかな冷たさに触れながら、俺はぽつりと呟いた。
世界がどれだけ俺たちの時間を拒もうと、郁真と過ごしたこの愛おしい時間の記憶だけは、絶対に消させない。
そう強く心に誓いながら、俺は郁真が戻ってくるのを待つために、ソファーへと深く腰掛けた。
最初の頃は、誰もいない玄関で靴を脱ぐだけでも妙に緊張していたものだ。「お、お邪魔します……」なんて、柄にもなく丁寧にお辞儀をして挨拶をしていたし、玄関の端に揃えて置いた自分の靴を見るだけで心臓がうるさく鳴っていた。
だが、今となっては、
「ただいま」
「はいはい、おかえり。いつも通り、手洗っておいで」
そんなやり取りが、どこか当たり前になりつつあった。
靴を揃える動作1つ取っても余計な力みが抜け、すっかり体に馴染んでいる。不思議と嫌な気はしないし、むしろその手慣れた会話の響きが、どこか特別で温かいもののように感じられていた。
「……いや、よく考えたらここ俺の家じゃないんだよな。いつも居座って悪いな」
「なに言ってるんだよ、今さら気にすんなって」
リビングでソファーに腰かけ、スマホを触っていた郁真が、少し可笑しそうに目を細めた。
「だって、お前に気を使わせてるんじゃないかって思ってさ。冷蔵庫のお茶とかも、勝手にいただいちゃってるし……」
「喉が渇いてるなら遠慮しなくていいって言ってるだろ。それに、唯斗がいてくれた方が俺も心強いから」
「そう言ってもらえると助かるけどさ。もう何日もお邪魔してるだろ?」
「それでも世界から見たら、たったの1日だろ」
「……それもそうか」
顔を見合わせて、2人で静かに微笑み合った。
今日が何回目の『22日』で、こうして同じ時間を何日重ねてきたのか、もう数える意味すら失われていた。カレンダーの数字は決して増えず、俺たちの思い出だけが一方的に積み重なっていく。どれだけ丁寧に時を過ごそうと、どうせ明日になれば、またすべてがリセットされた『22日』が訪れるのだから。
けれど、そんな変わらない世界の中でも、2人だけの小さな変化は確実に刻まれていた。
例えば夕食も、いつの間にか台所に立つ俺が作る側になることが増えていた。
「郁真、醤油取ってくれる?」
「はいよ」
「あと箸も」
「はーい」
迷いなくすらすらと答えた時、ふと郁真と目が合った。
「……お前さ」
「ん?」
「完全に俺の家を自分の家扱いしてない?」
「してないしてない」
「絶対してるだろ」
「ちゃんとお手伝いしてるだから、許してくれって」
最初はこの広いリビングで2人きりで囲む食卓も、どこか落ち着かなかったものだ。
向かいの席に座っているだけで妙に意識してしまい、何を話せばいいのか分からず、沈黙が訪れると気まずくて箸を動かす音や食器の擦れ合う音まで気になっていた。
それが、今ではどうだ。
「これ、味濃くないか?」
「ちょうどいい。俺このくらいの味付け好きだな」
「ほんと?喉乾かない?」
「大丈夫。うん、すごくうまい」
「そっか。よかった」
そんな他愛もない会話を交わしながら、ごく普通にご飯を食べている。
低音量でつけっぱなしにしたテレビのニュースを、なんとなく2人で眺める。もう何周もしたはずなのに、どうにも眺めてしまう。
この空間が今の俺にとってはたまらなく愛おしく、心の底から心地よかった。世界の時が止まっているからこそ、このリビングの中だけに流れる穏やかな時間が、何よりも愛おしく思えて仕方ない。
「ふぅ、ごちそうさま。風呂、先に入るか?」
食後の片付けを2人で並んで終えると、郁真がタオルを準備しながら聞いてくる。
「郁真が先でいいよ」
「そっか。じゃあ、そうさせてもらう」
「あ、着替えはー…またTシャツ勝手に借りるわ」
「もちろん。分かってるかもしれないけど、一応な。引き出しの2段目に入ってるから」
その言葉に強く頷く。
洗面所の場所も、替えのバスタオルの位置も、冷蔵庫のどこに何が入っているかも、全部完璧に知っている。
何度も何十回も同じ1日を繰り返している内に、俺の身体は自然な動作で郁真の家を動けるようになっていた。
…でも…本当に、不思議なものだ。
世界は何も進まない。
毎日が同じ22日。
同じ朝を迎え、同じ通学路を歩き、同じ授業を受け、同じ夕方を繰り返す。
外の世界の人間は、俺たちと交わした会話も、昨日起きた出来事も、朝になれば全部忘れてしまう。
それなのに、このループする世界の中で俺たちの距離だけは1歩ずつ確実に縮まっていた。
脱衣所から聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、俺は自分の左手を見つめた。
人差し指にはめられた鈍い銀色の指輪は相変わらず消えることなく、堂々とその存在感を示しながら部屋の照明を反射して静かに煌めいている。
「……痕跡、か」
指輪に残されたわずかな冷たさに触れながら、俺はぽつりと呟いた。
世界がどれだけ俺たちの時間を拒もうと、郁真と過ごしたこの愛おしい時間の記憶だけは、絶対に消させない。
そう強く心に誓いながら、俺は郁真が戻ってくるのを待つために、ソファーへと深く腰掛けた。



