放課後の教室は、昼間とは少しだけ違う匂いがする。
窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声や廊下を遠ざかっていく足音が、まるでガラス1枚を隔てた別世界のことのように遠かった。
教室に残っているのは、俺たちだけ。黒板には今日の授業で書かれた白い文字が掠れて残っていて、斜めに差し込む橙色の光が静まり返った室内をぼんやりと赤く染めている。
俺は机に頬杖をつきながら、手元のペットボトルを意味もなく転がした。半分ほど残った水が、夕日を浴びてゆらゆらと眩しく揺れる。その脈絡のない光をただ追っていた。
「なあ、唯斗」
「ん?」
「今日の数学の課題、やった?」
「やった」
「げっ、いつの間に」
向かい会って座っている郁真が大袈裟に顔を顰める。
くだらない。心底どうでもいい会話。けれど俺は、この無駄な時間が嫌いじゃなかった。
チャイムが鳴ればさっさと帰ればいいのに、特に用もないまま残って話し込む。習慣と呼ぶには甘く、日常と呼ぶにはどこか特別で。なんとなく席を立てないのは、きっと郁真も同じなのだと信じたかった。
「じゃあ唯斗の課題写そ」
「駄目」
「えー、いいじゃ~ん」
「駄目だって。自分のためにならねぇだろ」
「ケチ」
「ケチで結構」
郁真が屈託なく笑う。その笑顔につられて、俺の頬も自然と緩んだ。
朝、教室に入れば「おはよ」と声をかけられ、昼休みになれば並んで飯を食い、放課後になればこうして二人きりで無駄話をする。それが俺たちの「当たり前」だった。
特別なことなんて、何もない。
俺たちはただの友達で――少なくとも、郁真にとってはそうなのだろう。
「ははっ、好きだなぁ」
不意に落とされたその言葉に、つい先刻まで胸の奥を満たしていた温もりが、一瞬で冷えていくのが分かった。せっかく綺麗に並べたドミノを無造作な指先で雑に倒されたような、理不尽な不快感。
「……なんて?」
掠れた声で問い返すと郁真は冗談めかした顔のまま、どこか熱を孕んだ瞳で俺を見つめていた。
愛なんてものには、いくつも種類がある。
友愛や家族愛、あるいは執着や遊びの恋。数えきれない愛が、この世界には存在している。
「俺、まじで唯斗のこと好きだわ」
だからこそ、コイツの言う『好き』がどれに分類されるのかが分からない。
ただの雑談の延長で、コイツはあまりにも簡単にその言葉を口にする。俺は手にしていたペットボトルを机に少し強めに置き、軽く睨みつけた。
「お前さ……人に軽々しくそういうこと言うのやめろって」
「いいじゃん。別に悪口言ってるわけじゃないんだし」
「そういう問題じゃないだろ」
ため息を吐きながら、郁真の顔を見つめる。
「『好き』は駄目だろ。冗談としても、毎日のように言われるのは違うわ」
そう、コイツはいつだってそうだ。
人が大勢いる昼休みでも今みたいな2人きりの放課後でも、挙句の果てには画面越しのSNSでもあまりにも易々と「好き」を差し出してくる。その度に胸が跳ね、そして冷えていくのがたまらなく苛立たしかった。
「え、嫌?」
ああ、嫌だ。
そうやって突っぱねることができたなら、どれほど楽だろう。
「……っ」
俺は、郁真が好きだ。
友達としてではなく、引き返せないくらいには明確な恋愛感情を持っている。
だからこそ、軽率に投げつけられるその言葉が、一瞬だけ期待させられることが、死ぬほど嬉しくて、死ぬほど苦しかった。
どうせ郁真に深い意味なんてない。ただの親愛の言葉だ。それを本気にして傷つくなんて、バカのすることだ。
「嫌なの?」
もう一度重ねられた問い。その声が思ったよりも低く静かで、俺は息を詰まらせた。
「……嫌っていうか」
どう返せば正解なんだ。
嫌なはずがない。むしろ、その言葉で頭がおかしくなりそうなほど愛おしい。だけど、それを認めてしまえば、この虚しさに飲み込まれてしまう。
「……軽すぎんだよ、お前の『好き』は」
ようやく喉の奥から絞り出した言葉に、郁真は少しだけ丸く目を見開いた。
「軽い?」
「そう。お前、誰にでも言ってんだろ」
「言わないけど」
「嘘つけ」
「ほんとだって」
郁真はふっと眉を下げて、いつものように柔らかく笑った。
「唯斗にだけ」
心臓が、痛いほど強く跳ねた。胸の奥がぎりぎりと軋んで、息がうまく吸えなくなる。
「……そういうとこだよ」
俺は直視できなくなって視線を逸らし、ぬるくなったペットボトルの水を一気に飲み干した。喉を落ちていく水だけが、やけに冷たく感じられた。
窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声や廊下を遠ざかっていく足音が、まるでガラス1枚を隔てた別世界のことのように遠かった。
教室に残っているのは、俺たちだけ。黒板には今日の授業で書かれた白い文字が掠れて残っていて、斜めに差し込む橙色の光が静まり返った室内をぼんやりと赤く染めている。
俺は机に頬杖をつきながら、手元のペットボトルを意味もなく転がした。半分ほど残った水が、夕日を浴びてゆらゆらと眩しく揺れる。その脈絡のない光をただ追っていた。
「なあ、唯斗」
「ん?」
「今日の数学の課題、やった?」
「やった」
「げっ、いつの間に」
向かい会って座っている郁真が大袈裟に顔を顰める。
くだらない。心底どうでもいい会話。けれど俺は、この無駄な時間が嫌いじゃなかった。
チャイムが鳴ればさっさと帰ればいいのに、特に用もないまま残って話し込む。習慣と呼ぶには甘く、日常と呼ぶにはどこか特別で。なんとなく席を立てないのは、きっと郁真も同じなのだと信じたかった。
「じゃあ唯斗の課題写そ」
「駄目」
「えー、いいじゃ~ん」
「駄目だって。自分のためにならねぇだろ」
「ケチ」
「ケチで結構」
郁真が屈託なく笑う。その笑顔につられて、俺の頬も自然と緩んだ。
朝、教室に入れば「おはよ」と声をかけられ、昼休みになれば並んで飯を食い、放課後になればこうして二人きりで無駄話をする。それが俺たちの「当たり前」だった。
特別なことなんて、何もない。
俺たちはただの友達で――少なくとも、郁真にとってはそうなのだろう。
「ははっ、好きだなぁ」
不意に落とされたその言葉に、つい先刻まで胸の奥を満たしていた温もりが、一瞬で冷えていくのが分かった。せっかく綺麗に並べたドミノを無造作な指先で雑に倒されたような、理不尽な不快感。
「……なんて?」
掠れた声で問い返すと郁真は冗談めかした顔のまま、どこか熱を孕んだ瞳で俺を見つめていた。
愛なんてものには、いくつも種類がある。
友愛や家族愛、あるいは執着や遊びの恋。数えきれない愛が、この世界には存在している。
「俺、まじで唯斗のこと好きだわ」
だからこそ、コイツの言う『好き』がどれに分類されるのかが分からない。
ただの雑談の延長で、コイツはあまりにも簡単にその言葉を口にする。俺は手にしていたペットボトルを机に少し強めに置き、軽く睨みつけた。
「お前さ……人に軽々しくそういうこと言うのやめろって」
「いいじゃん。別に悪口言ってるわけじゃないんだし」
「そういう問題じゃないだろ」
ため息を吐きながら、郁真の顔を見つめる。
「『好き』は駄目だろ。冗談としても、毎日のように言われるのは違うわ」
そう、コイツはいつだってそうだ。
人が大勢いる昼休みでも今みたいな2人きりの放課後でも、挙句の果てには画面越しのSNSでもあまりにも易々と「好き」を差し出してくる。その度に胸が跳ね、そして冷えていくのがたまらなく苛立たしかった。
「え、嫌?」
ああ、嫌だ。
そうやって突っぱねることができたなら、どれほど楽だろう。
「……っ」
俺は、郁真が好きだ。
友達としてではなく、引き返せないくらいには明確な恋愛感情を持っている。
だからこそ、軽率に投げつけられるその言葉が、一瞬だけ期待させられることが、死ぬほど嬉しくて、死ぬほど苦しかった。
どうせ郁真に深い意味なんてない。ただの親愛の言葉だ。それを本気にして傷つくなんて、バカのすることだ。
「嫌なの?」
もう一度重ねられた問い。その声が思ったよりも低く静かで、俺は息を詰まらせた。
「……嫌っていうか」
どう返せば正解なんだ。
嫌なはずがない。むしろ、その言葉で頭がおかしくなりそうなほど愛おしい。だけど、それを認めてしまえば、この虚しさに飲み込まれてしまう。
「……軽すぎんだよ、お前の『好き』は」
ようやく喉の奥から絞り出した言葉に、郁真は少しだけ丸く目を見開いた。
「軽い?」
「そう。お前、誰にでも言ってんだろ」
「言わないけど」
「嘘つけ」
「ほんとだって」
郁真はふっと眉を下げて、いつものように柔らかく笑った。
「唯斗にだけ」
心臓が、痛いほど強く跳ねた。胸の奥がぎりぎりと軋んで、息がうまく吸えなくなる。
「……そういうとこだよ」
俺は直視できなくなって視線を逸らし、ぬるくなったペットボトルの水を一気に飲み干した。喉を落ちていく水だけが、やけに冷たく感じられた。



