ひまわりと君がいた夏

困ったことに、猫の姿が見当たらない。

部屋の窓をあけてまわったが、気配すら感じないのだ。
突然の訪問者を警戒して隠れているのだろうか。


台所のそばの勝手口を開けると、土間に作業着や帽子、手袋が置いてあった。
洗濯機もここにあった。
なんだか、人の生活をのぞき見ているような気がして、葵は振り返ってあたりを見渡した。
もちろん、誰もいない。
猫からの視線があれば良いものの、ここにもその姿はなかった。

農機具のようなものが置かれている側で、餌と水を入れるお皿が空っぽになって転がっていた。
「あっ」
葵は居間に戻り、荷物の中から、祖母から教えてもらった内容をかいたメモを取り出した。
メモには朝と夕方にカリカリを一掴み半ほど、水は毎日交換、と書かれていた。
さらに続けて、”おやつあげすぎ注意、外で貰ってくることもあるからあげなくても良い”とあった。

朝は恵子が働く漁港のあたりを散歩して、水揚げされてきた小さい魚を貰うことがよくあるらしい。
逞しく生きているようだ。
空になった餌入れを綺麗にして、水を交換した。

「ユキ、お水入れたよ」

家の中に向かって遠慮がちに声をかけるが、応答はなかった。


”縁側の下と押入れが好き”

メモに書かれていたことを思い出し、居間から縁側に出て、その下を覗き込んだ。
冷んやりとした空気と、土埃の匂いがする。
ここにも猫の姿はなかった。

「あとは押入れか」

居間と二間続きになっている和室の奥に押入れがある。
そこか、とそっと襖に手を伸ばし、一枚ずつ襖を開いていくが、押入れの中にも猫の姿はなかった。

ふと、押入れの奥にある缶に目がついた。

手を伸ばして持ち上げてみる。
色褪せたお菓子の缶の入れ物だった。
なんだか懐かしい気がする。
缶を傾けると「カラン」と音がして、少し金属が錆びた香りがした。

蓋を開けると、中にはビーズでできたブレスレットや小さなおもちゃ、小石、シーグラス、それに折り畳まれた紙が入っていた。
そっと紙を開いてみると、クレヨンで描かれた絵だった。
おそらく幼い頃に葵が描いたものだろう、手を繋いだ二人の女の子が描かれていた。
絵の中の少女たちは楽しそうに笑っている。
クレヨンのあとを指でそっとなぞってみた。
それから紙を折り畳み、缶の中へ戻した。



奥の部屋の押入れも覗いてみたが、ユキの姿は見当たらなかった。

「お散歩かなぁ」

葵は畳の上に寝転がってみた。
古い畳だけど、ほんの少し、い草の香りがするような気がした。
板張りの天井を見上げてみて、ふと思い出した。
そういえば、天井の木目が誰かの目のような気がして、子供の頃は少し怖かったんだっけ。
天井からぶら下がる丸い蛍光灯と、側についている豆電球。
オレンジの仄暗い灯りの中で、天井の「目」に怯えている幼い自分を思い出すと、少しおかしくなって、笑った。

開け放った窓から優しい風が吹き込んできて、葵はゆっくりと瞳を閉じた。
七月の風とは思えないほど、やわらかな風だった。

目を閉じると、色んな音が耳に届いてくる。
遠くを走る車の音、鳥のさえずる声。
庭の草が風に揺れて、カサカサと音を鳴らしている。
それらの音に耳を傾けていると、りん、と涼しげな音がひとつ軒先にこぼれ、その音に続いて「にゃぁ」と小さな声がした。

慌てて目を開けて起き上がり、声のする方を探した。
すると、背筋を伸ばした姿の猫が、縁側からじっとこちらを見ていた。

右耳の辺りが黒で、左耳の辺りが茶色。
尻尾は茶と黒の縞模様をしていて体は真っ白な猫。

「ユキ」

声をかけながら立ち上がろうとすると、猫はするりと縁側から庭先へ降りた。

「うそでしょ、ちょっと待ってよ」

鍵のような形に先が曲がった尻尾をぴんと立てて、猫はそのまま敷地の外へと出て行った。
縁側の先に置いてあった恵子のスリッパを足に引っ掛けて、葵はやっと見つけた老猫を見失わないよう慌てて後を追った。

敷地のすぐ外には、細い階段が緩やかな坂の斜面に沿って立ち並ぶ家の間を縫うように伸びている。
その階段を数段登ると、早く登ってこい、と言うように丸い瞳をこちらに向けてちいさく、にゃぁと鳴いている。

ほとんど野良猫だな、と苦笑いした。
恵子からは家猫だと聞いていたけれど、普段もこんなふうに島を歩き回っているのだろう。

船着場でも、猫が気持ちよさそうに昼寝をしていた。
目の前の老猫も、我が物顔で石段を登っていく。

くねくねと曲がりくねりながら伸びていく長い階段を上ると、海が見えてきた。
潮風を頬に受けて少し目を細める。
風に乗って、潮の香りが鼻腔をくすぐった。

あぁ、気持ちいいな。

ここからの景色にも、どことなく懐かしさを感じた。
ふぅ、とひとつ深呼吸をして、重くなった右足を一段上の石段に乗せてゆっくりと登り始めた。