ひまわりと君がいた夏

 久しぶりに訪れた長崎港は、濃い潮の匂いがした。

夏休みに入った初日、葵はキャリーケースを抱えて、港の待合所で船を待っていた。

朝からターミナルのすぐそばにある商業施設へ出かけて、そこで香織と二人で食料品や洗面用品など、必要になりそうなものを買い込んだ。
修学旅行の準備みたいで、なんだか楽しかった。

船は二、三時間に一本出ているし、島にも小さいながら店はある。
そんなに構える必要はないのに、香織は心配してあれこれ買い物かごに入れていっていた。
そんな母の側で、葵はこっそり猫用のおやつを一緒にかごに入れていた。

パンパンに膨れ上がった買い物袋を、ボストンバッグに入れて、キャリーケースの上に乗せると、まるで海外旅行にでも行くかのような大荷物になった。


島で一人で過ごすことを、両親は最後まで手放しでは賛成しなかった。
それでも真夏の猫問題を放っておくわけにもいかず、勝手に荷造りを始めた葵を見て、最後は渋々折れてくれた。

葵が島に滞在する事を決めた夜、家に泊まらせてほしいと電話をかけると祖母はとても喜んでくれていた。
病気の影響か、電話口でも少し喋り方が辿々しく、呂律が完全に戻っていない事が伝わってきたものの、元気そうな声が聞けてほっとした。

「葵ちゃん、ユキのことよろしくね。それとね、出来たらで良いとけど、畑のお世話もお願いしても良かね?」
「うん、良いよ。畑の世話って何したらいいの?」
「そうね、水やりと…食べられそうな野菜は収穫しといてくれると嬉しかね。あとは…うん、そんだけで良かよ」
「おっけー、ちゃんと草刈りもするつもりだから」
「あら」

おばあちゃんは嬉しそうに、けれど少し申し訳なさそうな声で言った。

「葵ちゃんありがとうね。おばあちゃん、草むしりしようって思ったら具合の悪くなってしまったけん、助かるよ。でも暑いし無理せんで良かけんね」


買い物袋の中には新しい軍手も入っている。
家で草むしりをする事なんてほとんどないけど、今はやる気だ。
誰かに頼りにされるのもなかなか良いものだ。
草刈りを終えて猫の世話をしたら、お見舞いに行こう。
そんなことを考えていると、待合室に乗船開始を告げるアナウンスが流れた。

「じゃ、そろそろ行くね」
「おばあちゃんの家に着いたら連絡してね。何かあったらすぐ連絡するのよ。」
「わかってるって」

香織に手を振り、白い高速船に乗り込んだ。
窓の外を見ると、桟橋から手を振っている人たちがいた。
船を整備する人たちだろうか、乗客に満遍なく手を振っていて、その視線のいくつかが葵の方へ向いた。
少し照れくさくなり、目線をそらして軽く会釈を返した。


船が低く唸るような音を立てて岸壁を離れる。
船尾で白く砕けた波がゆっくりと広がり、港は少しずつ後ろへ遠ざかっていった。

普段見慣れた街も、海の上から見ると少し違って見えるのが、なんだか不思議に思えた。
いつもは高台から見下ろしていた造船所の大きなクレーン群が、今は見上げるように頭上へ伸びていた。
やがて港口に、空を横切るように白い橋が見えてくる。
船はその真下へ吸い込まれるように進み、頭上を橋桁が静かに横切った。
それを境にするように、街はゆっくり背後へ遠ざかっていった。

もっと遠いと思っていた。

船は思いのほか早く、祖母の住む島へ到着した。
あの島は、想像していたよりもずっと近くにあった。


船着場から祖母の家はそう離れていない。
漁港の側を通り抜けて、ガラガラと、舗装の荒いコンクリートの上をキャリーケースが大きな音を立てて進んでいく。
なだらかな登り坂を登ると、額に汗が滲んだ。

「着いた」

瓦葺き屋根の平屋の家が見えた。
最後に来たのはいつだっただろう。
はっきりとは思い出せないけれど、少なくとも高校生になってからは訪れていないはずだ。
それなのに、久しぶりに目の前にすると、なんとも言えない懐かしさがこみ上げてきた。
普段ならば父や母と話をしながら登る坂道を、今日は一人で登ったせいだろうか。
…そんなに懐かしがるほど来てないけどな。
少しむず痒くなって、葵はキャリーケースをぐっと引き寄せた。


敷地の中に足を踏み入れると、玄関の南側に縁側が伸びていて、小さな庭があった。
手入れされた庭ではあるが、夏の草が生い茂っている。
でも思っていたほどではないな、と安堵のため息を1つついて、額の汗を指で拭い、香織から借りた鍵で扉を開いた。

カラカラとガラスの引き戸の玄関を開けると、懐かしい匂いがした。

「…お邪魔します」

黙って入るのも気が引けて、誰もいない家に向かって小さく声をかけた。
誰もいない人の家に上がり込む、というのは初めての経験かもしれない。
少しだけ、悪いことをしているような気持ちと、ワクワクするような気持ちが心のなかに同居していた。

玄関に置いてある小さな踏み台に足を乗せると、ちょうど良い位置に真新しい手すりが設置してあった。
元気な祖母の姿ばかり見ていたけれど、少しずつ歳を重ねているんだな、と思った。

居間へ入ると、空気が篭っている感じがした。
荷物を置いて窓を開ける。
ふわっと舞い込む夏の風が、縁側に括り付けられている風鈴をゆらした。

部屋を見渡すと仏壇の上の長押に、会った事もない曾祖父母の写真が並び、その隣に祖父の遺影が飾られているのを見つけた。

おじいちゃんが亡くなったの、小学生の頃だったかな。

写真の中の祖父は、笑ってはいないけれど、目元は柔らかく、不思議と温かさを感じる表情をしていた。
仏壇の前に座り、蝋燭に火を灯して線香を手向ける。
誰もいない部屋に、チーン、とおりんの音が響いた。

「ちょっとの間だけど、お世話になります」

閉じていた目をそっと開いて、重ねた手を解いた。