ひまわりと君がいた夏


「ユキはどうしようかな」

新たな問題が浮上していた。
珍しく夕食前に帰宅した浩輔が、缶ビールのプルタブを押し上げながら呟いた。


ユキ、というのは島の祖母の家で飼っている白い三毛猫だ。
体の大部分が白いけれど、尻尾と耳の一部に色がついているから三毛猫なのだそうだ。

随分前から恵子の家に住んでいる気がする。
おそらく、葵が小学校に上がる前からいたはずだから、十年以上は生きている。
猫の寿命が何年あるのか知らないが、きっとおばあちゃん猫であることは確かだろう。
その猫が、今問題なのだという。

「ペットホテルに預けようと思ったんだけど、高齢猫は預かれないんだと。ストレスもかかるし、そこで死んじゃったらえらい事だからな」
「まぁ、猫って家に居着くっていうけんね」

真夏に家主なしで生活するのは流石に厳しいのだろう。
この家に連れてくるのはどうなのか、と言おうと思ったが、おそらく母はこの家に猫を連れてくる事はあまり歓迎していないと気がついた。
そうでなければ今頃、この場に猫がいるはずだ。
余計な事を不用意にいうものではないと思い、黙って話を聞いていた。

「…昨日ちょっと見たけど、畑の方は草も結構生えとったな」
「そうね、お義母さんが退院しても、しばらくはゆっくりしといてもらわんといけんから、草刈りにも行かなきゃね」
「うん。ばぁちゃんは退院したら自分でやるって良いかねんからな」

明日は終業式で、もう夏休みが始まる。
二年生の夏季補習は8月に入ってから始まるから、しばらくは何もする事がない。
とりあえず、おばあちゃんのお見舞いにでも行こうかな、とぼんやり考えていた。
それよりも、葵には気になっていることがあった。

今朝の夢のことだ。
夢に出てきた少女がいたあの浜辺は知っている。
ずいぶん行ってはいないけれど、あれは島の浜辺のはずだ。
夢の中の女の子は、あそこにいた。
もしかすると、今もまだーー

「ね、葵聞いてる?」

会話に混ざらないよう黙っていたせいで、両親の会話を聞き漏らしていた。

「え、何?」
「もう、あんたって子は。今日先生から電話かかってきたよ。ちょっとお父さん、聞いてよ」

ドキッとした。
まさか猫問題の話が早々に終わって自分の話になっているとは思いもしなかった。
「庭に水撒いてきまーす⋯」
香織が浩輔に事の顛末を説明しはじめたのを横目に、葵はソファから立ち上がった。

玄関を出ると、すぐ脇に銀木犀が植わっている。
毎年、白い小さな花が咲く頃になると、玄関を出るたびにほのかな甘い香りがする。
この香りがすると、そろそろ誕生日だな、と思うのだ。
青々とした葉をつけているだけの木にホースで水をやりながら、早く涼しくならないかな、と考えた。

小さな庭には、一年中何かしらの花が咲いていた。
季節が変わるたび、香織が植木鉢や花壇の花を少しずつ入れ替えているようだった。
こうやって夕暮れに染まる空を見ながら水やりをしていると、ほんの少しだけ心がすっと軽くなる。

ホースの先を斜め上に向けてみた。
水が細かな粒になって、夕暮れの空に降り注いだ。
こんな時間じゃ虹も出来ないか。
蛇口を閉めて、家の中へ戻った。


一度リビングに戻ってしまったのがまずかった。
冷蔵庫の扉を開けようとすると、香織から呼ばれた。
炭酸水を手に取り、両親が座るダイニングから少し離れたソファに腰をおろした。

「白紙、か」
ビールを喉に流し込んで父が呟いた。
改めて言われると、なんだかとても悪い事をしたような気持ちになる。

「期末の結果、そんなに悪くなかったから黙ってたけど、どういう事?」
香織が追い討ちをかけてくる。
「…書くの忘れてただけ」
そんなわけないだろう、と自分でも呆れた。
しん、と静まり返った食卓に、母のため息が漏れた。

「先生は二学期に入ってから提出でいいって言ってくれとるんだろ?夏休みにもなるし、一旦ゆっくり考えてみなさい」
浩輔が助け舟を出してくれた。
その言葉に、香織が何か言おうとして口を開こうとした時だった。

「あのさ、猫の世話って何したらいいの?」

香織を制するように葵が口早に言った。
「…餌とか水あげたり、トイレの片付けしたり、とかかな」
「それならさ、私がやるよ」
「えっ?」
浩輔と香織が顔を見合わせた。
「夏休み入るし、補習もまだ始まらないし。暇だからさ。猫の世話くらいなら私でも出来るよ」
「でも、毎日島に行くのも大変よ?」
「それならおばあちゃんの家に泊まるよ。一人暮らしの練習にもなるし」

香織は何やら言いたげな顔をしているが、猫の世話を考えれば悪い話でもないのだろう。
言葉を探すように思案していた。
浩輔は快諾するかと思いきや、不思議と少し考え込んでいるようだった。

「…一人で大丈夫か?」
普段は楽天的な事が多い浩輔が、珍しく難しい表情を浮かべていた。
「うん、全然平気。一週間くらいでしょ?」
「そうだけど…」
「それなら補習始まる前に帰って来れるし。ね?」
浩輔はテーブルの上に置いたビールの缶をゆっくりと揺らした。

県外の大学に進学したら、一人暮らしをする必要も出てくる。
そもそも大学に行くかわからないという議論もあったが、それはこの際一旦棚上げしておくことにした。

それに、島に行けばーー。

良いとも駄目とも言わない両親を見て、うん、と頷いた。

「決まりね。私、島に行くから」

その夏は、海の向こうで始まることになった。