そこで、目が覚めた。
こめかみのあたりが濡れている。
寝ぼけ眼で、そっと手を見てみた。
なんだかまだ、感触が残っているような、不思議な感じがした。
胸の奥が、ざわついていた。
一階へ降りて、リビングのドアを開くと、コーヒーの香りが漂っていた。
ダイニングでマグカップを傾けている父の浩輔と目があった。
「おはよ」
「おはよう。昨日はバタバタしてごめんな」
昨日は結局、様々な手続きや入院の準備で両親は忙しく動き回っており、帰宅したのは夜遅くだった。
リビングの隣にある小さな和室に、祖母のものと思われる着替えがたくさん置いてある。
きっと昨日、祖母の家からこちらへ運んだのだろう。
便数が少ない島との行き来を、病院との間でどのように分担して両親が動いていたのか、想像がつかなかった。
やっぱり何か手伝うべきだったかな、と今さら少し後悔した。
「ううん、おばあちゃん大丈夫そう?」
「うん、多分問題ないよ。早く病院に行けたのが良かったらしい。本当、感謝せんといかんな」
浩輔は食パンをかじりながらそう言った。
漁港で恵子と一緒に働く人が、異変にいち早く気づいてくれたそうだ。
船を出すと言ってくれた知人に、「そんな大げさな、大丈夫」と断る祖母をたしなめて、半ば強引に病院へ送り出してくれたらしい。
「葵、食パンに何か載せる?はちみつもあるよ。これね、この前戴いたんだけど、多分良いやつよ」
「…チーズがいいな、ある?」
冷蔵庫を開き、扉の向こうであったよ、と香織が答えた。
「入院、どれくらいすると?」
「そうね、とりあえず十日位って言っとった。検査の結果が出て、体調次第ではちょっと早く戻れるかもって言っとったけどね」
「そっか…退院したあと、島で一人暮らしって大丈夫なの?」
深く考えずに言った言葉だったが、一瞬、両親の間に微妙な空気が流れるのを感じた。
香織は背を向けてマグカップにコーヒーと牛乳を注いでいる。
浩輔は何も言わないまま、食パンを食べきった。
「あ、そういえば葵。昨日学校から電話がかかってきとったよ。病院にいたからお母さん電話に出れなかったとけど、何かあった?」
渡されたマグカップを落としそうになった。
猶予がある、と思っていたのに。
親に電話をするとは想定外だった。
「…いや、別に」
しらばっくれて視線を逸らしてみたが、香織の視線が葵の顔にじっと張り付いているのを感じた。
これはなんだか、良くない雰囲気だ。
「そう。今日は電話できるけん、夕方にご連絡しますって先生にお伝えしといて」
「…わかった」
三者の間に絶妙な空気が漂っているせいか、皆、言葉少なめに朝の食卓をあとにした。
葵は牛乳がたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、進路調査をどうするか考えた。
夕方には母と担任が電話で話をするだろうと思うと、少し胃が痛かった。
ーーさすがに白紙は不味かったかな。
父も母も声を荒げたりするタイプじゃないけど、さすがに今回は何か言われるだろうな。
むしろ、「なぜ」と穏やかに詰問される方が、こちらとしては苦しいかもしれない。
正直、自分の気持ちがまだしっかり言語化できていないからだ。
大学に行きたくないわけではない。
勉強が嫌いなわけでもない。
なんとなく、それっぽい進路に進めば、その環境に順応してそれなりにやっていける気はしている。
これまでもそうしてきたから、多分、これからもそうして行ける。
母は、口では言わないけど、「ちゃんとした人間」に育てたいと思っている気がする。
健康で朗らかで、グレたりせず、人様に恥じない様な生き方をしてほしい。
言葉では表現し難いけれど、時折、そんな優しい圧を感じることがあるのだ。
でも、時々考える。
人様って誰なんだろう。
どう生きたら恥じない生き方なのだろうか。
これまでは、それなりに上手くやってこれた。
とは言え、まだたかだか高校生だ。
このまま中身のない、情熱のない、こなせるだけの大人になって良いんだろうか。
やりたい事、好きな事、興味があること。
どれにも上手く答えることができない。
周りの子たちはそれぞれの目指すものに向かって歩みを進めている。
葵だって、立ち止まっていたわけではない。
勉強も、学校生活も、自分なりに一生懸命やってきた。
ちゃんと前へ進んでいるつもりだった。
ただ、その先に自分の辿り着きたい場所が見えてこなかった。
そんなことを考えていたら、進路希望を書く手が止まってしまっていた。
こめかみのあたりが濡れている。
寝ぼけ眼で、そっと手を見てみた。
なんだかまだ、感触が残っているような、不思議な感じがした。
胸の奥が、ざわついていた。
一階へ降りて、リビングのドアを開くと、コーヒーの香りが漂っていた。
ダイニングでマグカップを傾けている父の浩輔と目があった。
「おはよ」
「おはよう。昨日はバタバタしてごめんな」
昨日は結局、様々な手続きや入院の準備で両親は忙しく動き回っており、帰宅したのは夜遅くだった。
リビングの隣にある小さな和室に、祖母のものと思われる着替えがたくさん置いてある。
きっと昨日、祖母の家からこちらへ運んだのだろう。
便数が少ない島との行き来を、病院との間でどのように分担して両親が動いていたのか、想像がつかなかった。
やっぱり何か手伝うべきだったかな、と今さら少し後悔した。
「ううん、おばあちゃん大丈夫そう?」
「うん、多分問題ないよ。早く病院に行けたのが良かったらしい。本当、感謝せんといかんな」
浩輔は食パンをかじりながらそう言った。
漁港で恵子と一緒に働く人が、異変にいち早く気づいてくれたそうだ。
船を出すと言ってくれた知人に、「そんな大げさな、大丈夫」と断る祖母をたしなめて、半ば強引に病院へ送り出してくれたらしい。
「葵、食パンに何か載せる?はちみつもあるよ。これね、この前戴いたんだけど、多分良いやつよ」
「…チーズがいいな、ある?」
冷蔵庫を開き、扉の向こうであったよ、と香織が答えた。
「入院、どれくらいすると?」
「そうね、とりあえず十日位って言っとった。検査の結果が出て、体調次第ではちょっと早く戻れるかもって言っとったけどね」
「そっか…退院したあと、島で一人暮らしって大丈夫なの?」
深く考えずに言った言葉だったが、一瞬、両親の間に微妙な空気が流れるのを感じた。
香織は背を向けてマグカップにコーヒーと牛乳を注いでいる。
浩輔は何も言わないまま、食パンを食べきった。
「あ、そういえば葵。昨日学校から電話がかかってきとったよ。病院にいたからお母さん電話に出れなかったとけど、何かあった?」
渡されたマグカップを落としそうになった。
猶予がある、と思っていたのに。
親に電話をするとは想定外だった。
「…いや、別に」
しらばっくれて視線を逸らしてみたが、香織の視線が葵の顔にじっと張り付いているのを感じた。
これはなんだか、良くない雰囲気だ。
「そう。今日は電話できるけん、夕方にご連絡しますって先生にお伝えしといて」
「…わかった」
三者の間に絶妙な空気が漂っているせいか、皆、言葉少なめに朝の食卓をあとにした。
葵は牛乳がたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、進路調査をどうするか考えた。
夕方には母と担任が電話で話をするだろうと思うと、少し胃が痛かった。
ーーさすがに白紙は不味かったかな。
父も母も声を荒げたりするタイプじゃないけど、さすがに今回は何か言われるだろうな。
むしろ、「なぜ」と穏やかに詰問される方が、こちらとしては苦しいかもしれない。
正直、自分の気持ちがまだしっかり言語化できていないからだ。
大学に行きたくないわけではない。
勉強が嫌いなわけでもない。
なんとなく、それっぽい進路に進めば、その環境に順応してそれなりにやっていける気はしている。
これまでもそうしてきたから、多分、これからもそうして行ける。
母は、口では言わないけど、「ちゃんとした人間」に育てたいと思っている気がする。
健康で朗らかで、グレたりせず、人様に恥じない様な生き方をしてほしい。
言葉では表現し難いけれど、時折、そんな優しい圧を感じることがあるのだ。
でも、時々考える。
人様って誰なんだろう。
どう生きたら恥じない生き方なのだろうか。
これまでは、それなりに上手くやってこれた。
とは言え、まだたかだか高校生だ。
このまま中身のない、情熱のない、こなせるだけの大人になって良いんだろうか。
やりたい事、好きな事、興味があること。
どれにも上手く答えることができない。
周りの子たちはそれぞれの目指すものに向かって歩みを進めている。
葵だって、立ち止まっていたわけではない。
勉強も、学校生活も、自分なりに一生懸命やってきた。
ちゃんと前へ進んでいるつもりだった。
ただ、その先に自分の辿り着きたい場所が見えてこなかった。
そんなことを考えていたら、進路希望を書く手が止まってしまっていた。
