昇降口から外を見ると、いつの間にか雨はすっかり上がっていた。
畳んだままの傘を見て、少し考えて教室へと戻った。
静まり返った誰もいない教室の後ろの傘立てに傘を納めると、窓が開いたままになっているのに気がついた。
近づいて窓枠に手を伸ばすと、上の階で授業をする声が風に紛れて聞こえてきた。
三年生の授業はまだ続いているようだった。
そっと窓を閉めて鍵をかけると、再び昇降口へと向かった。
中庭を通り抜けて、校門を出た先で遠くのバス停にちょうど赤い車体が到着しているのが見えた。
走れば間に合うかも、と思ったけれど、葵はそのまま足を止めて、石段の道の方へと歩みを進めていった。
「バス、乗らんの?」
聞き覚えのある声が坂道の上から降ってきた。
「人、多そうやし。涼しいから歩こうかなって」
ふぅん、と呟くと、彼は葵のそばまで歩み寄ってきた。
葵もまた、彼がすぐそばに来るまで足を止めたままでいた。
足音がすぐ隣まできたところで、二人は石段を下り始めた。
「大瀬良君、なんか忘れてない?」
雨に濡れた石段で滑らないように、足元に視線をおきながらゆっくり、降っていく。
「え、なんだけっけ?」
本当に何も心当たりがない様子の朔を見て、葵は呆れたように眉を下げ、仕方ないなというように笑った。
「漫画だよ、貸してくれるって言ったじゃん」
「…あぁ」
「結構楽しみにしてたんだけど」
「ごめんて」
あまり悪びれる様子もなく、こめかみの辺りを軽く掻くと、朔は足を止めた。
二段ほど先へ下った所で、そのことに気がつき、葵は振り返った。
朔は黙ったままで、じっと葵をみていた。
「…ごめん、良いよ、大事な本ならさ。自分で買って読むし」
「あ、いや…」
そう言うと、腰に手をあてて困ったように眉を寄せて、視線を漂わせていた。
「川口さ、学校、辞めんよな?」
「えっ、なんで?」
「いや…なんとなく」
「辞めるわけないじゃん、何言ってんの」
前を向いて、石段を一歩下った。
そこで、足を止めて振り返った。
「やめないよ。受験もする。まぁ、どこ行くかとかは決めてないけど…ちゃんとやるよ」
「勉強嫌いじゃないしさ、私。それに、学校好きだし」
強張っていた頬が、少しだけほっとしたように緩んだように見えた。
ゆっくりと石段を降りてきて、また隣へ並んだ所で足音を並べ始めた。
「…勉強嫌いじゃないってのは、俺からすると、才能やと思うよ。何気にすごいと思うけどな」
「…そう、なのかな」
石段を踏むたびに現れる自分のつま先を見ながら、小さな声でつぶやいた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる気がした。
あたりには石段を降りる二つの足音だけが響いていた。
濡れた石畳からは、じわりと湿気と共に雨上がりの匂いが漂ってきた。
「漫画、明日持ってくるわ」
大通りまできた所で、思い出したようにそう言った。
「…気長に待ってる」
二人は互いの顔を見て、小さく笑った。
「じゃ、また明日」
そう言って、朔が軽く手を上げた。
葵も小さく手を上げて、その背中を見送った。
掲げた指先の向こうに、街並みが広がっていた。
街の先には港が細長く伸び、遠く、橋の向こうに島が見えた。
空は、どこまでも青く、晴れ渡っていた。
それは、不思議な邂逅だった。
長い夢を見ていたのかもしれない、とも思う。
あの島で過ごした日々も、交わした言葉も、手のぬくもりも。
それでもーー
制服のポケットに手を入れると、指先にひんやりとしたものが触れた。
小さな丸い石を、ポケットの中でそっと握った。
港から汽笛の音が聞こえた。
長い音が三度、街に響き渡っていた。
見上げた空には白い入道雲が浮かび、そのずっと高いところを、筆でひと撫でしたような薄い雲が流れていた。
ポケットの中の指をほどき、葵は石段を歩き始めた。
雨上がりの街には、夏の陽射しが戻ってきていた。
ーーりん、と風鈴の音が響いた。
縁側に、涼やかな風が吹き抜けた。
「あら」
風に誘われるように恵子が庭へ目を向けると、花壇に黄色い花が一つ開いていた。
「もう咲かんと思っとったけど…咲いたとやね」
夏の陽射しの下で、ひまわりが揺れていた。
