ひまわりと君がいた夏

島から持ち帰ったキャリーケースは、もう部屋の隅からなくなっていた。
あれから何度も朝が来て、今日から夏休みの補習が始まる。

明け方から降り続いていた雨は、随分と弱くなっていた。
カーテンの隙間から見える空はそれほど暗い訳ではない。
しとしとと降り続く雨が庭の木々を濡らしていた。
銀木犀の葉から雨の雫がひとつこぼれた。
ここ最近はずっと晴れが続いていたから、植物にはちょうど良かったのかもしれない。
祖母の畑の野菜たちも、萎れずに済みそうだと思った。

制服に着替えてリビングへ降りていくと、階段の途中でコーヒーの香りが漂ってきた。

「おはよう」
リビングのドアを開けると、ダイニングで浩輔が食パンを齧っていて、香織が朝食の準備をしていた。
「おはよう」

香織がコーヒーメーカーからポットを取り出して、葵のマグカップに注いでいた。
そこに牛乳をたっぷり入れて、こちらへ渡してくれた。

ありがと、と小さく言うと、うん、と答えた。
「食パン、チーズ乗せて焼く?はちみつ塗る?」
「じゃ、チーズで」
既に半分ほど食べ進めている浩輔の皿を見ると、彼もまたチーズが乗った食パンを食べているようだった。
テレビでは天気予報が流れていて、明け方から降っている雨は昼頃には止む、と男性のキャスターが明るく伝えていた。

いつも通りの朝だった。
焼き上がった食パンが乗った皿をテーブルに置く仕草も、牛乳たっぷりのコーヒーも。
浩輔と一緒に帰宅した日から、香織は拍子抜けするほど普段と変わらなかった。
何かを聞いてくることも、妙に気を遣うこともなかった。
葵も、あの日のことを何も話さないでいた。

けれど、ひとつだけ変わった事があった。

リビングの隅にある戸棚の上に、小さな桜色の陶器が置かれていた。
掌に収まるほどの、小さなものだった。
隣には一輪挿しがあり、庭に咲いていた花が一輪、挿してある。
それが何なのか、葵は尋ねなかった。

一度だけ、いつもより早く目が覚めた朝があった。

階段を降りていく途中で、いつもとは違う匂いがした。
知っている匂いだった。

島の祖母の家。
仏壇の前や、祖父の眠る墓で、何度も香っていた。

リビングを覗くと、香織が一人、戸棚の前に立っていた。
細い煙が、朝の光の中をゆっくりと昇っていた。

香織は桜色の陶器にそっと触れた。

「おはよう」

小さな声だった。
葵は声をかけず、しばらくの間、階段に座っていた。


「じゃ、今日は遅くなるから」
両親は業務連絡のような短い会話を少し交わし、浩輔が出かけていった。
葵は食卓に座ったまま「いってらっしゃい」と背中に声をかけて送り出した。

いつの間にか天気予報は終わっていて、街のトレンドを伝える特集に切り替わっていた。
テレビの左上に表示される時間を見て、バスの時間が迫っていることに気が付き、慌てて食パンをコーヒーで流し込んだ。

鞄を持って玄関まで行ったところで、香織が声をかけてきた。
「今日、学校終わるの何時?」
「昼前には終わるよ」
「そっか、帰りどっか寄ってくる?お母さん、夕方まで帰らないけど」
「うーん、どうしよっかな。昼は適当に食べて帰ってくるよ」

靴を履きながら、一度手を止めた。
ずっと、伝えたいと思っていたことが一つだけあった。

靴を履き、鞄を肩に掛けた。
そのまま玄関を出ようとして、振り返った。
今なら言える気がした。

「あのさ」

香織が不思議そうにこちらをみた。

「私、自分の名前、結構好きなんだよね」

「…多分だけど、陽ちゃんも、好きだったと思うよ」


「…えっ?」


「…行ってきます」

香織の顔を見ないまま、玄関の扉を開いた。
雨の匂いが、少しひんやりとした空気に混じっていた。