船の到着を告げる汽笛が港内に響いた。
見慣れた街が近づいてくる。
船を降り、キャリーケースを引いて浮桟橋を歩いていると、ターミナルの入口あたりに人影が見えた。
「おかえり」
「お父さん?」
そこにいたのは浩輔だった。
迎えにきてくれるのは母とばかり思っていた葵は、思わず立ち止まってしまった。
「…え、仕事は?」
「休みとった。たまにはいいやろ」
ほら、と葵の手からキャリーケースと、その上に重ねたボストンバッグを取ると、立ち止まったままの娘を置いて先に歩き出した。
きっといつも通りの歩幅なのだろう。
葵の歩幅に合わせるわけでもなく、辺りにタイヤの音を響かせながらキャリーケースを引いて、浩輔は足早に歩いていた。
父と二人で歩くのは久しぶりだった。
会話もせず、並んで歩いているわけでも無い状況を、二人で歩いていると言っていいのかわからなかったけれど、同じ時間を二人で共有することが随分久しぶりだったと思う。
少し離れたところから父の背中をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えた。
「島、大丈夫やったか」
荷物をトランクに積み込み、車に乗り込んだ。
立体駐車場を出て、細い路地へ入ったあたりで浩輔が尋ねてきた。
「うん、普通…」
「普通ってなんさ」
浩輔はハンドルを握り、前を向いたまま笑っていた。
二人だと、どんな風に会話をしていたかわからず、少しだけ戸惑った。
何を聞かれるんだろう。
高校に入ってからは生活の時間が合わず、ゆっくり話した記憶はほとんどない。
避けていたわけではないけれど、いつの間にか、自然とそうなっていった。
そんな父が、わざわざ仕事を休んで迎えに来たのだ。
香織とした話が関係ない方が不自然だ。
大通りで信号を待っていると、浩輔がおもむろにラジオをつけた。
そういえば、父の車ではいつもラジオがかかっていた。
若い頃から深夜ラジオが好きで、大学で地元を離れていた頃は、電波を拾うためにアンテナをいっぱいに伸ばしたラジオを手に、狭い部屋の中をうろうろしていたのだという。
夜中に一人、遠い街で電波を探している若い父の姿を想像すると、なんだかおかしかった。
ラジオからは、二人のパーソナリティの楽しそうな声が流れていた。
別に話を聞きたいわけでもなかったけれど、久しぶりにこうしてラジオを聞くのも悪くなかった。
葵は窓の外を眺めながら、なんとなくその声に耳を傾けていた。
「あれっ」
江戸町通りを抜けた後、車が家とは反対方向へ曲がっていった。
慌てて浩輔の方を見ると、一瞬視線をこちらへ向けて
「ちょっと寄り道」
と、何事もなかったかのようにハンドルを切った。
「別に用事とか無いだろ」
「用事は無いけど…」
怪訝な表情を浮かべて窓の外を見た。
昼に向けて徐々に力強さを増す陽光を左肩に感じながら、日差しを避けるように助手席の日除を傾けて少しシートを後ろに下げた。
車は海岸通りから電車通りへと進み、終点の電停を越えてもまだ、走り続けた。
「ね、どこいくの?」
「ちょっとドライブ。たまには付き合ってよ」
窓の外の景色には、全く見覚えがなかった。
普段は乗らない路線のバスが走っていて、見慣れない色のバス停の標識が時折、通りに立っていた。
二人を乗せた車は、ドライブを楽しむような景観ではない、味気ない緩やかな上り坂をくねくねと進んでいく。
街の中心部から離れて、店舗の数も目に見えて少なくなってきた。
随分と高い所まで登ってきたと思った所で、車は止まった。
辿り着いたのは公園の駐車場だった。
駐車場のすぐそばに、展望台に続く階段があり、浩輔に続いて登っていった。
階段を登りきった先に続く回廊を進んでいくと、目の前に長崎港が広がっていた。
「わぁ」
思わず声が漏れた。
目の前には稲佐山の峰が広がり、長崎港が視界いっぱいに広がっていた。
眼下には大きな旅客船の姿もあった。
どこか遠い国からやってきたのだろうか。
埠頭にあるどの建物よりも大きな船体が港の中で一際存在感を放っていた。
左から右へと、ゆっくりと首を動かして視界の中に景色を収めながら、先ほどまでいたターミナルのあたりを探していると、隣で浩輔がオレンジ色の球体を指差した。
「さっきまでおったの、あの辺な」
「あのオレンジのって何?」
「わからん、けどあれはいい目印になるんよな」
「それから…葵の学校は、あの辺かな」
ターミナルの辺りから斜め右に指をずらし、折り重なるようにそびえる山の中腹辺りに見えた、白い建物を指差した。
自分の家はどの辺りだろうか、といつもの通学路を景色の中に探しながら山の稜線を目で追っていると、ほら、あの橋の向こう、と浩輔の声がした。
「あれ、ばあちゃんの島」
「…あれなんだ」
左手の方へ視線を向けると、港の入口に架かる端の向こうに島の姿が見えた。
「父さんはここからの景色が好きなんよな」
「…こんな所あるって知らんかった」
「小さい頃に連れてきたと思うけど…覚えとらんかな」
浩輔は浩輔は大きく伸びをすると、柵に両腕を預けた。
小さな船が白い波の跡を残しながら沖へと進んでいた。
浩輔はしばらく、船のあとに残った波を眺めていた。
「…ごめんな」
「お母さんから、聞いた。話、聞いたんやってな」
「うん…」
「大丈夫やったか、聞いて」
「…うん」
そうか、と小さく呟き、浩輔はしばらく黙って足元を見つめていた。
「…父さんがもっとしっかりしとったら、お前達に辛い思いさせんかったとにな」
浩輔には忘れられない光景があった。
十七年経った今でも、時折、ふいに思い出す。
銀色のトレーの上に横たえられた、小さな身体。
白いガーゼが、その上にそっと掛けられた。
分娩室の奥へと運ばれていくその姿を、ただ見ていることしか出来なかった。
きっと、この先も忘れることはないと思う。
「…本当に、申し訳なかった」
鉄の柵を握る指が、わずかに強張った様に見えた。
「やめてよ、いいよ、そういうのは」
「⋯お父さんも、色々大変やったと思うし」
葵も柵にもたれて、少し視線を落とした。
「それにさ、お母さんにも言ったけど…おばあちゃんの所に預けられとったことは嫌やったわけじゃないよ。元々、そんなこと覚えてもなかったしさ。でもなんか、私にだけ隠されてたみたいで…それが嫌だったけど、でも仕方ないっていうか。…そうするしか無かったんだろうな、ってわかったっていうか…」
そこで葵の言葉は途切れた。
浩輔は何も言わず、柵の向こうに広がる海を見つめていた。
「…すぐじゃなくていいからさ、そのうち聞かせてよ」
「え?」
浩輔は葵を見た。
「色々…これまで色んな事があったとやろ。お父さんも、お母さんも。私もさ、もう子供じゃないしさ。だから、そのうち聞かせてくれたら、もうそれで良いからさ」
何だか急に恥ずかしくなって、葵は遠くに視線を向けた。
浩輔も鼻のあたりを掻きながら山の向こうを眺めていた。
顔を上げたせいで、太陽が随分と高いところまで登っていたことに気がついた。
夏の日差しが海を輝かせていた。
本当に美しい所だな、と感じた。
山も、海も、街も、音も。
この街の景色が好きだ、と思った。
港の上空を、大きく羽を広げてトンビが飛んでいた。
空の高いところから港を見下ろすように、気持ちよさそうに旋回し、やがて山の向こうへと姿を消していった。
「父さんはさ、島が嫌やったんさ」
「え、そうなの?」
「昔は本当に、なんも無かったけんな」
そう言うと浩輔は島の方を見て笑った。
「島がイヤで、長崎も嫌で、外に出たかったんだよな。じいちゃんとばあちゃんが大学で外に出してくれて、しばらく外で仕事もしたけど…結局帰ってきたけどな」
「…なんで戻ってきたの?」
「うーん…そうやなぁ…」
少し考え込むようにして俯いた。
「楽しかったし、帰るつもりもあんまり無かったとけどね。まぁ、それでも、帰りたくなったけん、やろうな」
「…ふぅん」
「…一回選べばそれで上がりってわけじゃないけんな、人生は」
浩輔は黙って葵の頭を撫でた。
葵は笑いながら、首を逸らしてその手から逃げた。
「腹減ったな、帰ろうか」
うん、と頷き、並んで歩き始めた。
