そっと瞼を閉じてみた。
波の音だけが聞こえる静かな世界だった。
あの日見た夢を思い出した。
波の音だけが聞こえる世界で、砂浜にしゃがみ込んでいる少女
小さな貝殻と、色とりどりのシーグラス
差し伸べられた小さな手
波打ち際へ駆けていく後ろ姿ーー
ふと、隣に誰かが居る気配がして、そっと瞼を開いた。
「今日は早起きだね」
ヨウだった。
「うん、なんか目さめちゃって」
「目、ちょっと腫れとるね」
「本当?大丈夫かなって思ったんだけどな」
指先で瞼を少しこすってみた。
「…泣いちゃった?」
瞼から指をそっと離し、葵は小さく頷いた。
「お母さんからさ、色々聞いちゃった」
ヨウは遠くに視線を向けたまま、そっか、と小さく呟いた。
「何の話してきたか、知ってる?」
「ううん…でも、なんとなく想像はつく」
「…そっか…なんていうかさ」
その先をうまく言葉にできなかった。
「…自分から話してって言ったんだし、ちゃんと教えてもらえたんだからよかったんだけどね」
「…うん」
「でもやっぱり、正直ちょっとキツかったな…」
「…キツかったか…」
へへ、とヨウは小さく笑った。
葵は足元に目をやった。
砂浜に小さな桜色の貝殻が落ちているのを見つけ、つまんで掌に載せた。
「…ヨウちゃんはさ、あの時、どうして私の所に来てくれてたの?」
掌の上の貝殻を見つめたまま、尋ねた。
波の音が聞こえた。
「…私はさ、あおちゃんに会いたかったから」
「なんで…?」
「だってさ、ずっと一緒にいたじゃん」
ヨウは葵の手に自分の手のひらをそっと重ねた。
温かい、体温のある手だった。
なぜか涙が溢れてきた。
ヨウの手が温かい、ただそれだけで、涙が止まらなくなった。
「ヨウちゃん……ごめん」
言葉にした途端、喉の奥が詰まった。
「私……」
その先が、言えなかった。
一度考え始めると、止まらなかった。
怖かった。
自分の命が、誰かの死の隣にあるという事が、とても恐ろしいことのように思えた。
自分がそこにいたことが、何かを変えてしまったのではないか。
…そうじゃなかったとしても。
その先の、葵と過ごした日々が、香織を苦しめたのではないか。
自分がいることで、悲しむ事さえ奪ってしまっていたのだとしたらーー
父は、どうだったのだろう。
船に乗り込んだ浩輔の後ろ姿が蘇ってきた。
置いていかれると思ったあの時の、言葉にもできないほどの恐怖や寂しさが胸の奥からせり上がってきた。
自分だけが生き延びてしまった。
その上、自分が生きていたことで、大切な人たちを苦しめていたのだとしたらーー
押し潰されてしまいそうだった。
自分には、抱えきれないと思った。
自分がここにいていいのかさえ、わからなくなっていた。
「…ごめん」
もう一度呟いた。
ヨウはしばらく黙っていた。
「…謝らんでいいよ」
それから、重ねた手に少しだけ力を込めた。
ーー謝るようなことじゃ、ない。
葵は唇を噛んで、じっと重ねた手を見つめていた。
「あのね、あの時のことも…ずっと謝りたかった。私、ヨウちゃんに酷いこと言った」
「あぁ…あれは、ちょっとへこんだな」
そう言いながら、ヨウは笑った。
その笑顔につられて、葵も少し笑った。
笑っているのに、泣けてきて、やっぱり申し訳なかった。
それからしばらく、二人とも何も言わなかった。
波の音だけが、ゆっくりと浜辺を満たしていた。
いつの間にか、空の蒼がほんの少し薄くなっていた。
ヨウは、海の向こうを見たまま、静かに話し始めた。
「…私はさ、多分、人よりずっと短い人生だったと思うんだよね」
葵は黙って、その横顔を見た。
「生まれてきてない、って言われちゃうかもしれないけどさ。でも、私はちゃんと生きてた。お母さんと、あおちゃんと、一緒に生きてたって思ってる。それと、お父さんもね。ちゃんと声、聞こえてたしさ。たまに、変な歌とか歌っとったし」
「…今も時々歌ってる」
「そうなんだ」
鼻をすすりながら、二人で笑った。
「覚えてること、色々あるんだ。絵本読んでもらったり、たくさん話しかけてもらったり。ツンツン突いてもらって遊んだりしてさ。」
柔らかな陽射しが差し込む部屋の中で、若い男女が優しくお腹を撫でながら笑っている姿が浮かんできた。
優しい声で口ずさむ唄は、子守歌だろうか。
時折動くお腹を撫でる手。
幸せそうに微笑み合っている姿。
その声や、手の温もりは、記憶なのか想像なのか。
それは葵にもわからなかった。
「だからね、私、結構楽しかったんだよね」
ーーおかしいかな。
葵は首を横に振った。
「でもさ、本当はもっと…」
ヨウはそこで言葉を切った。
少しだけ開いた唇が、何も言わないまま閉じた。
「…私は、ヨウちゃんともっと一緒にいたかったよ」
ヨウが、少し驚いたように葵を見た。
誰もいなくなった夏の帰り道を思い出した。
いつの間にか飛行機雲も消えてしまっていた。
妙に鎮まりかえった、あの夏の帰り道。
「だって、寂しかった。会えなくなってから、ずっと寂しかったよ。ヨウちゃんとたくさん話したい事あったし、色んな事したかった。もっと、もっと一緒にさ…」
喉の奥で言葉を飲み込んだ。
「私も」
ヨウの声が、少しだけ掠れた
「…寂しくないわけ、ないじゃん」
「生きたかったよ、一緒に」
一筋の涙がヨウの頬を伝った。
いつだってヨウは笑っていた。
涼しい顔をしていた。
そんな彼女が、底知れぬ悲嘆に顔を歪めるのを、葵は初めて見た。
葵は手を伸ばしてヨウの肩を抱いた。
そっと抱き寄せて、それから、ぎゅっと抱きしめた。
自分から誰かを抱きしめるのも、きっと初めてだった。
抱きしめたヨウの体は、温かかった。
