ひまわりと君がいた夏

家に戻って電気をつけると、出かける前に使ったコップが、そのまま流しの中に残っていた。
バッグを置き、居間の掃き出し窓を開けると、カラカラという音が静かな部屋に響いた。
縁側にも、庭にも、誰もいなかった。

どんな顔をして、何から話せばいいんだろう。
ーー今日は少し、疲れた。
しばらく庭を眺めて、窓を閉めた。


布団に体を横たえた。
体はすごく疲れているのに、頭が冴え渡っていて、眠気が襲ってこなかった。

双子だった。
そんなの、想像をしたこともなかった。
自分が一人っ子であることに疑問を持ったことなんて、一度もなかった。
肺に溜まっていた空気をゆっくり吐き出して、寝返りを打った。
枕が合わないような気がして、寝心地が悪く感じたからだ。
静かな部屋の中で目を閉じていると、時計の秒針の音が妙に大きく聞こえてくる気がした。

皆、あの頃、何を思って過ごしていたんだろう。

目を瞑っていられなくて、壁の時計に目をやった。
時計の針は真夜中を少し過ぎた所を指していた。

起き上がり、暗い廊下を抜けて台所へ向かった。
コップに水を注ぎ、しばらくそのまま立ち尽くしていた。

夜が長かった。
真っ暗な闇がどこまでも続くようで、呑み込まれてしまいそうな気がして、胸のざわつきが収まらなかった。
…もう、何も考えたくなかった。
なのに、まとまらない思考が次から次へと浮かんでは、どこかへ消えていった。

コップを口に運び、一口だけ水を飲んだ。
ふと、廊下の奥に何かの気配を感じて目を向けると、暗闇の向こうで二つの瞳が光り、にやぁと小さな声がした。
「ユキ」
じっとこちらを見たかと思うと、近づいてきて葵の足にそっと尻尾を絡ませ、そのまま通り過ぎていった。
「なんだ、水飲みにきたのか」
ふう、と小さく息を吐いた。
残っていた水を飲み干して、部屋へ戻った。

布団に戻り、目を閉じた。
ぎゅっと瞼に力を入れた。

瞼の裏に、幼い頃にしゃぼん玉で遊んだ日の光景が浮かんできた。

大きな輪っかを液に浸して、そっと宙を切る。
すると、自分の顔よりも大きなしゃぼん玉ができた。
「ママ、見て」
嬉しくて、その場でぴょんぴょん跳ねた。
母が吹くと、小さなしゃぼん玉が一度にたくさん飛んだ。
太陽の光を映して、虹色にきらきらと輝いていた。

どうして今、そんな事を思い出すのか。
本当は、分かっている気がした。
だけど、その先を考えたくなかった。

あの頃の母は、何を思ってーー

葵はタオルケットを頭まで引き上げた。
思考の端にヨウの笑顔が浮かんだ。
タオルケットの中で、ぎゅっと膝を抱えた。


どれくらいそうしていただろうか。

遠くで、低く規則的な船のエンジン音が聞こえた。
葵はゆっくりと目を開けた。
部屋は薄暗く、ぼんやりとした頭で布団の上に座った。
カーテンの隙間から外を見ると、深い青色の空の下で、東の地平近くがわずかに明るみ始めていた。
夜明け前の空に視線を投げていると、額の奥に鈍い痛みを感じた。
瞼も重い。

葵は立ち上がると、薄暗い部屋の中をふらふらと洗面所まで向かった。
電気をつけて、鏡を覗き込んだ。
思ったほど酷い顔じゃない。
だけど、やはり少し浮腫んでいる。
冷たい水で顔を洗い、濡れた頬をぎゅっと両手で押さえた。

日が昇るにはまだ時間がかかりそうだった。
居間の掃き出し窓を開けると、カラカラという音とともに、朝の冷たい空気が頬を掠めた。
港の方ではもう、船が動き出している。
もう、一日を始めている人が居る。
そう思うと、少しだけほっとした。
縁側へ一歩足を踏み出し、胸に空気を吸い込んだ。

それから、外へ出た。
港とは反対側の、砂浜のある海辺の方へと向かった。
幼い頃に、よく遊んだ浜だ。

県道沿いの道を歩いて行くと、時折、視界の端を灯台の白い光がかすめていく。
やがて、弓なりに伸びる砂浜に辿り着き、浜へ下りる階段に腰掛けた。

深い青に沈んだ空の下で、海と空を分ける線だけが淡く浮かび上がっていた。

別にこの場所でなくても、どこでも良かった。
家の中に一人でいると、どうにも落ち着かなかった。
胸のざわつきが増していくような気がして、訳もなく不安な気持ちになる。
誰もいないような、この世に一人だけ取り残されてしまったような。
そんな心細さがあった。

外に出て、遠くの窓に明かりが灯っているのを見てほっとした。
知らない誰かの息遣いが感じられた気がして、それだけで少し安心した。
ちゃんと今日も世界が続いていると確かめたかったのかもしれない。