ひまわりと君がいた夏

「ただいま」

玄関を開けると、リビングの方から話し声が聞こえてきた。
母の香織の声だ。
足元を見るが、香織の靴しか見当たらない。
話し相手は電話の向こうにいるらしい。
そっとリビングのドアを開けると、香織はせわしなく動き回りながら電話で話をしている。
こちらに気がつくと、口パクで「おかえり」と言い、何やらメモを取りながら丁寧な口調で話をしていた。

ソファの上にカバンを置いて、その隣に腰掛けた。
テレビをつけようかとリモコンに手を伸ばしたが、まだ電話の途中だと気づいてやめた。

スマートフォンを取り出そうとカバンを開くと、クリアファイルに挟まった進路希望調査の紙と目が合った。

慌ててカバンを閉じ、ダイニングテーブルのあたりにいる母親の方を見た。
こちらの事は何も気にしていない様子で、少々むずかしい顔で話を続けている。
進路希望調査の紙をそっと取り出し、印字されている面を内側に折り曲げて、再びクリアファイルに戻してカバンを閉じた。
この件はもうしばらく猶予があるから、とりあえず今はしまっておこう。


「おかえり」
電話を終えた香織が葵の背中に声をかけた。
「ただいま。電話、誰から?」
「島のおばあちゃんがね、入院することになったって」
「えっ」
島のおばあちゃん、というのは父方の祖母、恵子のことだ。
港の向こうに浮かぶ小さな島に住んでいる。

「おばあちゃんどうしたと?」
「うん、軽い脳梗塞だって。呂律がおかしいって近所の人が気づいてすぐ病院に連れて行ってくれたみたいでね。発見が早かったけん、大事にはならなかったみたい」
「え、でも入院なんだよね?」
「手術とか、そういうのは無いみたいなんだけどね。それでも、検査とか色々あるけん、一旦は入院する事になりそうだって」
「…そうなんだ」

恵子の顔が浮かんだ。
島のおばあちゃんと入院、というイメージが結びつかなかった。
七十代半ばではあるけれど、背筋はいつもすっと伸びている。
祖父が亡くなってから一人で暮らすようになっても、漁港の仕事には変わらず出ているらしい。


「とりあえず、お母さんこれから病院行ってくるけん。お父さんにも連絡しとるからあっちで合流すると思う。また色々わかったら連絡するね。」
「うん、わかった。」

ばたばたとバッグに荷物を詰めて、忙しそうに部屋を動き回る母をぼんやり見ていた。
一緒に行こうか、とか、何か出来ることある、といった気の利いた言葉が出てこなかった。
ただ、邪魔にならないように、ソファーの上で膝を抱えて、母の様子を見ているだけだった。

一旦入院、ってどんな感じなんだろう。
何日くらい入院をするものなのか、何が必要なのか。入院をしたことが無い葵には想像がつかなかった。
「あ、庭にお水撒いといてくれる?」
玄関へ向かった香織が、何かを思い出したようにリビングへ顔を覗かせた。
「うん、わかった」
足早に出ていった香織を見送って、葵はようやく立ち上がった。
お腹すいたな、と台所へと向かった。


台所を物色して、手頃なカップ麺を見つけると、お湯を注いで、三分間のタイマーをセットした。
思い返せば、ここ数年、島には行っていなかった。
減っていく数字を眺めながら、最後に島へ行ったのはいつだったかを考えた。

恵子とは時々会っている。
けれど、それは大抵こちらへ来てもらった時だった。
最後に島に行ったのは、祖父の法事だっただろうか。

では、その前はーー

ピピピピピ

葵は顔をあげた。
カップ麺の蓋をキッチンのゴミ箱に入れ、箸を持ってソファーへと向かった。
香織がいる時にこれをやると「ダイニングで食べなさい」と叱られる。
テレビをつけて、ソファーであぐらをかいてカップ麺をすすった。





その晩、夢を見た

波の音が聞こえる

丘の上には白い建物が見えた

砂浜の上を歩いていくと、女の子の姿があった

しゃがみこんで何かをしているその子は、幼稚園児くらいだろうか

薄紅色の小さな貝殻を指につまんで、こちらに見せている


何か言っているようだが、波の音しか聞こえない


掌を広げると、角の取れたシーグラスがいつくか握られていた

青、緑、白、茶色

色とりどりのシーグラスを太陽にかざしてみる

キラキラと輝いていた

女の子が立ち上がって手を繋いだ

暖かくて、柔らかい手

弾けるように笑いながら、波打ち際の方へかけていく

波の音だけが、聞こえる


「待ってよ、ヨウちゃん―――」