ひまわりと君がいた夏


「お母さん?」
香織は我に帰ったような顔で葵を見た。
黙り込んでしまった母親を、心配そうな目で葵が眺めていた。
「…辛い話させちゃってごめんなさい。もう、いいよ」
香織は微笑んで首を横に振った。

「…私、お母さん達がずっと何か隠し事しとるんだと思ってて。なんていうか、自分の事ばっかり考えてた。まさか、そんな事があったなんて、想像もしてなくって…」
「ううん、葵が謝ることじゃないよ。ちゃんと伝えてこなかったお母さんが良くなかった。自分のことをちゃんと知りたいって思うのは当たり前だし、小さい頃の事だからって、なかった事みたいにして誤魔化してたのは、やっぱり間違ってた…葵、ずっと、ごめんね」

葵もまた、首を横に振った。

「なんていうのかな…ずっと誤魔化し続けとったんよね、お母さんは。目の前のことに一生懸命になることで、ずっとあの子が亡くなった悲しみから逃げ続けとった。もっと、ちゃんと受け止めて悲しむべきやった…だから…」

香織はその後の言葉を呑んだ。
あの頃も今も、思いは変わらない。
娘が大きくなったからといって、傷つけていいわけはない。

「おばあちゃんの家にお世話になるようになったのは、そういう理由だった。どうしようもなくて、誰かの手を借りないと、立ち行かないって思ってね。本当はそこまで行くまでにもっと周りを頼るべきだったとよね…結果的に葵に一番辛い思いをさせてしまった…」
母の目には、深い悲しみの色が滲んでいた。


ふと、遠い日の記憶が蘇った。

いつもは幼稚園に迎えに来る母が、その日はいつまで待っても現れなかった。
一人、また一人と園児達が帰っていき、ついには葵一人が教室に残された。
初めての事だった。

給食用のお皿にコアラの形をしたお菓子を入れてもらい、先生と一緒に食べた。
少し寂しさもあったけれど、皆には内緒の特別な時間を過ごせているような気がして、ワクワクしていた。

しばらくすると、父が迎えに来た。
とても慌てた様子で、葵を抱きしめてくれた。
なぜだかはわからないけれど、普段は滅多に迎えに来る事がない父が来てくれて、それも嬉しかった。

しかし、家に帰っても母の姿はなく、食事を済ませても、お風呂を済ませても母は帰って来なかった。

それから、しばらくして葵は島の祖父母の家に行った。
遊びに行くんだと思っていたけれど、違った。
その日の最終船に父が乗り込み、自分だけが島に残された。

「おいていかないで」

船に乗り込む父の背中に向かって叫んだ。
けれど、父は一度振り返ってこちらを見て、それから船へ乗り込んでしまった。

あの日の父も、同じような悲しい目をしていた。


葵は自分の鼓動が早くなるのを感じていた。
掌にはじっとりと汗をかいていた。
胸の奥がざわついて、落ち着かなかった。
何かを言おうとすると、胸の奥が詰まって、うまく声にならないような気がした。

一度、大きく息を吐いた。
胸にそっと手をあてると、掌の下で心臓が強く脈打っていた。

大丈夫、大丈夫。
心の中で繰り返した。

大丈夫。

それから、ゆっくりと口を開いた。

「私ね…お父さんとお母さんに、置いていかれたって思ってた」

指先を見つめながら、声を絞り出した。
情けないほどに小さく、震えた声だった。

「私もさ…自分の気持ち、ちゃんと誤魔化さずに言おうかなって…」
香織は一瞬何か言おうとして、しかし、黙って頷き、葵の言葉に耳を傾けた。

「ずっと考えてた。何か悪いことしちゃったかなって、怒らせるようなことしちゃったかな、って…嫌われちゃうようなことしちゃったのかなって、ずっと、ずっと思ってた。」

「おじいちゃんとおばあちゃん、すっごく優しかった。ずっと忘れちゃってたけど、ちょっとだけ思い出したんだ。おじいちゃん、ちょっと怖いって思ってたけど本当はすごく優しかった。だからね、島は辛くなった。それは本当だよ。思い出すのも、いい思い出ばっかりだった。でもね、でも…やっぱりお母さんに会いたかった。いい子になるから、もう悪いことはしないからって、だからお願い、一人ぼっちにしないで、ってずっと思ってた」

「ずっと怖かった…お母さんに嫌われるのが、怖かった」

小さな子供のように、ぽろぽろと涙をこぼしながら話す娘を見て、胸が張り裂けるような思いがした。
島にいた一年と少しの期間で、幼かった葵は随分と大人になってしまった。
いや、大人にしてしまったのだ。

あれからの葵は、ほとんど手のかからない子になった。
周りをよく見て、困らせるような事も滅多に言わなくなった。
そんな葵を、周りの人達は「良い子」だと褒めてくれた。

実際、葵は本当に良い子だった。
心根が優しい子に育ってくれたことは、親として誇らしかった。
けれど、それは自分たちが奪ってしまった子供らしさ、彼女らしさの上に成り立っている。
香織にはそう思えてならなかった。

「お母さん…私のこと、嫌いじゃない?」

「そんなわけ…」
それ以上は言葉に出来なかった。
目にいっぱいに涙を溜めて懸命に言葉を紡いでいる娘を抱きしめた。

そんな事があるわけがなかった。
葵は香織にとっての生きる希望であり、生きる意味でもあった。
葵がいたから、ご飯を食べる事も、眠る事も出来るようになった。
もう一度、笑う事が出来た。
心の底からの幸せを与えてもらえた。

悲しみと寄り添わなかったのは、自分の問題だった。
彼女の存在のせいではない。

言葉に出来ないなんて甘えて居る場合ではないと思った。
こんな当たり前で大切なことだからこそ、ちゃんと言葉で伝えなければならない。

香織は葵の頬に触れ、しっかりと目を見た。

「葵、お母さんは、葵の事が大好きだよ」