ひまわりと君がいた夏

「出産の時にたくさん出血しちゃってね、貧血がひどくてなかなか動くことができんかった。きっと周りの人たちは良かれと思って、だったと思うんだけどね。お母さん、あなたのお姉ちゃんを一度も抱っこしてあげられんかった」

手で握りしめたペットボトルをじっと見つめたまま、葵は動けなくなっていた。
母の口から語られる話が、映画やドラマの話であるかのようで、自分と母親の身に起こった出来事だと俄かに信じることが出来なかった。

「…もう、やめようか」
隣で項垂れるようにしている娘の表情を見て、香織は遠慮がちにそう言った。
葵は首を横に振った。
話してほしいとせがんだのは、他でもない自分だ。
この話を最後まで聞くことが、今の自分に出来る唯一の事だと思った。
香織はペットボトルの蓋を開けて、少し温くなったミルクティで口を潤した。

「私の…その、お姉ちゃんは、病気か何かだったの?」
「ううん、原因はわからんかった。妊婦健診も何回もあったけど、異常は見つからなかったしね。産後にもはっきりした事はわからんかったとよ」
「そんな…病気も何にもないのに亡くなっちゃうなんてことあるの?」
「うん…あるんだって。知らないだけでね、生まれてくる前に亡くなっちゃう子は案外たくさんいるんだって。悲しい事だし、辛い事だから、なかなか人には言えないんだろうね…」
「…赤ちゃんって、妊娠したら普通に生まれてくるんだと思ってた」
「うん…お母さんもね、多分そう思っとった」

「その後は、私はどうなったの?」
「葵もね、元気ではあったけど、やっぱり早く生まれたし、双子だから小さかったけんね。生まれてからしばらくの間、病院に入院しとったとよ。こんな小さかったとよ」

そういって、母は両手で水を掬うような格好をして見せた。
その両手の掌の上に収まるほどに小さかった、という意味だった。

「でもね、あの時は葵のことに一生懸命になっていたおかげで生きていられたと思っとるよ。他の事は何も考えんようにして、とにかく一生懸命に育てた。最初はお乳を飲むのも下手やったし、ミルク飲むのも時間がかかってて。でもね、葵はよく寝る子やった。もしかしたら、まだ生まれて来た事に気づいてないとかなって思うこともあるくらいやったよ」

遠い日を懐かしむように、母は優しく微笑みながら話をしてくれた。
葵は母の横顔を見ながらも、目を合わせることは出来なかった。

「本当にね、このまま葵の事だけ考えて、忙しく過ごしてたら、幸せな毎日が過ごせるって思っとった…そういう風に無理に思うようにしとったとやろうね」
ペットボトルのキャップを捻り、口元に運ぼうとして、やめた。
ひとつ小さな溜息をついて香織は遠くに視線を投げた。


子供達が生まれた頃のことを、こうして誰かに話すのは久しぶりだった。
言葉にするたび、あの日の景色や感情が驚くほど鮮明に蘇ってくる。

いつか、葵にも話さなければならないと思っていた。
ただ、それはまだ、今日よりずっと先のことだと思っていた。

隣に座る葵は、黙って話を聞いていた。
その表情まではよく見えなかったけれど、受け止めてくれているような気がした。
だけどーー。

葵は顔を上げて、香織の方を見た。
母は、こちらを見ていたようで、目が合った。

これまで自分は平凡な人生を送っていると思っていた。
自分が平凡だということさえ、考えたことがなかった。
自分の知らないところに、こんな過去があったなんて、思いもしなかった。

聞いているだけでも胸が締め付けられるような、辛い話だった。

ただ、こんなにも辛く悲しい話をしているはずなのに、不思議と母の表情は穏やかだった。
遠い日々を慈しむようだった。
香織は、葵の頭を優しく撫でた。


「肌着をね、着せてあげられなかったな、って」

「えっ?」
唐突な言葉に、一瞬なんと言ったかわからなった。
「赤ちゃんが洋服の下に着る肌着ね。いつだったかね、まだ赤ちゃんの頃の葵の着替えをさせようって思って、肌着を着せてる時にね、思ったと。あの子には、肌着すら着せてあげれんかったな、って。」
香織はゆっくりと瞼を閉じた。

ーー私はなんて親なんだろうか、そう思った日の事を思い出した。

それからは、罪悪感の日々が始まった。
葵に何かしてあげるたびに、あの子にはしてあげられなかった、とどこかで思うようになった。
幸せが増えるのと同じ速度で、胸のなかに罪悪感が降り積もって行った。
だけど、そんな事を葵に感じさせてはいけないと思った。
少しずつ、笑顔を作ることが増えていった。

そのうちに、周りの人々も、香織が悲しみを乗り越えて立ち直ったのだと思うようになった。
すると、励ましの言葉をかけられる事も増えた。
「この子のためにも頑張らなきゃね」
「まだ若いんだから、また赤ちゃんが来てくれるよ」

誰も、香織が嘆き、悲しみに暮れることを許してくれないような気がした。

自分だけが歳を重ねていくことに罪悪感を感じた。

葵が誕生日を迎える度に、幸せで嬉しくてたまらない気持ちと、胸が張り裂けそうなほどの苦しみが積み重なっていった。

やがて、葵が言葉を話すようになり、自分の足で立ち、歩くようになり。
小さな手でクレヨンを握りしめて、絵を描いてプレゼントをしてくれるようになった。
香織の姿を見つけると、にっこり笑って駆け寄って「ママ、大好き」とぎゅっと抱きしめてくれた。

その小さな体を包み込むように抱きしめるたび、あの子の事は抱くことはおろか、顔を見てあげることさえしなかったという思いが、心のどこかに積もっていった。

ほんの少しの勇気があれば、会って、抱きしめてあげることができたのに。

ーー私は取り返しのつかないことをしてしまった。


そう思った日から、香織は葵を抱きしめる事ができなくなった。