ひまわりと君がいた夏

次に目が覚めた時、香織は病室のベッドの上にいた。

分娩時の出血が多く、ほとんど眠れないまま出産を迎えた体は、とうに限界を超えていた。
足元に重みを感じた。ベッドに突っ伏すようにして、浩輔も眠りに落ちていた。

ぼんやりと見上げた天井の模様が、先程まで見ていたものと違っていた。
そこで初めて、ここが分娩室では無いと気がついた。
ゆっくりと首を動かして、それから腕を動かした。

「香織ちゃん?」
香織が目を覚ました事に気がついて、浩輔も上体を起こした。

「…頑張ったね、本当にありがとう…」
「…赤ちゃんは?」
「小さかったけん、一旦は保育器に入っとる。でも、元気やって。どこも異常はないって。」

もう一人は、と尋ねたかったけれど、うまく言葉にできなかった。
二人を生んだはずなのに。

しばらくして、医師が部屋を訪れ、浩輔を廊下へ呼び出した。
扉の向こうには、香織の両親の姿もあった。

医師と入れ替わるようにして、二人が部屋へ入ってきた。
父親はほとんど何も言わず、苦痛に耐えるような顔で母親の後ろに立っていた。
それに対して、彼女の母親は饒舌だった。

よく頑張った、ほとんどはそういう意味の言葉だったと思う。
まだ、頭がぼんやりとしていて、その一つ一つを受け止めることができなかった。

未だに、これが自分に起こった出来事だとは思えなかった。
まるで誰かの人生を、遠くから眺めているようだった。

「あなたはまずは、ゆっくり休みなさい」
そうすべきだと思った。
けれど、心のどこかで、休めるはずなんてない、とも思っていた。

まだ私はあの子の顔も見ていない。
抱きしめることもできていない。
せめて、抱きしめて、頑張ったねと褒めてあげたいーー。

しかし、香織がその想いを実現することはできなかった。


出産の翌日に、別れは訪れた。

外は朝からずっと雨が降っていた。
出産を終えたあと、しばらくして「赤ちゃんと、会いますか」と、一度だけ、看護師に尋ねられた。

会いたいという気持ちと、会うのが怖いという気持ちがあった。

お腹の中で亡くなった赤ちゃんが、どんな姿で生まれてくるのか、まるで想像ができなかったからだ。
生きて生まれてきてくれた妹の方も、元々自分が抱いていた赤ちゃんのイメージとは随分かけ離れていた。
手足は細くて、小さくて。
触れただけで壊れてしまうのではないかと思った。

勇気が出なかった。
どんな姿であったとしても、愛おしいと受け入れられるほど、自分の心は強くないと思った。

周囲の家族の意見も、会うのはやめておけ、というものがほとんどだった。
「はじめから一人だったと思って、元気に生まれた子を一生懸命に育てなさい」
彼女の母親は、そう言った。
香織は生まれてきた我が子と、会わないままに別れる事を選んだ。


火葬から戻ってきた浩輔は、小さな桜色の骨壺を抱いていた。
掌に収まる程の、小さな陶器の壺だった。

「香織ちゃん⋯」

浩輔から手渡されたその重みは、驚くほど軽かった。
両手で包み、そのまま胸元へ引き寄せた。

涙が溢れた。
一度溢れ出すと、止まらなかった。
胸に抱いたまま、その場に崩れ落ちるようにして、香織は声を殺して泣いた。

ーーどうして、会わないことを選んでしまったんだろう。


香織が退院してからひと月半ほどが過ぎた頃、娘も退院して家族での時間が始まった。

双子の姉妹につける名前は、妊娠中から呼び続けていたこともあり、そのまま「葵」という名前になった。
葵が退院をしてからの日々は、手探りの育児と、睡眠不足の日々でとにかく必死に過ごしていた。

「赤ちゃんが寝てる時は一緒にねてていいのよ」と言われることもあった。
だけど、一緒に眠ってしまっている間に、葵の心臓が止まってしまったらどうしようと思うと、眠ることができなかった。

寝かしつけをしながら、いつの間にか一緒に眠ってしまった時には、夜中でも飛び起きて葵の姿を探し、胸のあたりが小さく上下して、呼吸をしている事を確かめて、ほっと胸を撫で下ろしていた。

葵にはできる限りの事をしてあげたいと思った。

体調が少しずつ戻って来て、外に出られるようになる頃には、小さい体を抱っこ紐に入れて外を散歩した。
「元気そうで良かった」
外の世界に行くと、人と会ってしまい、その人達は慰めの言葉をかけてくれた。
誰も、香織を責める人はいなかった。
責めてくれなかった。

ーー前を向いて生きていかなければ。
その言葉は、香織を励ますと同時に、苦しめた。

それでも、葵を育てる日々はやはり幸せだった。
どんなに忙しくても、体がきつくても、腕の中に小さな温もりを感じられることはどんなことよりも幸せだった。
その気持ちにだけは、一点の曇りもないと思っていた。