ひまわりと君がいた夏


浩輔が着信に気がついたのは昼を過ぎた頃だった。
昼休みを告げるチャイムが鳴った頃、ジャケットのポケットで携帯電話が震えている事に気がついた。
仕事の切りが悪く、もう少し仕上げてから席を立ちたいと思っていた所だったから、携帯は暫くそのままにしていた。
しかし、いつまでも着信を告げるバイブレーションがポケットの中で震えていた。
誰だよ、と煩わしく思いながら携帯を取り出し、画面を見ると、妻からの着信だった。

「はい、もしもし」
廊下へ出て、電話に出た。
かけてきたはずの香織の応答がない。
「もしもし?」
電波が悪いのだろうか、と携帯電話を耳から離し、画面を見た。
電波は立っているようだった。
「香織ちゃん?どうした」
「…浩輔。いま、検診で病院におるんだけど」
今日は妊婦健診だと朝から話していたな、と思った。
そこでまた、香織の声が途切れた。

「…赤ちゃんの心臓が、止まっとるって」

その声は、窓の外を通る車の音に、かき消されてしまいそうだった。

「え…?」
一瞬、言葉が理解できなかった。
ぽつり、ぽつりと、医師から告げられた言葉を受話器の向こうで紡いでいる。
血の気が引いていく気がした。
とても現実とは思えなかった。

「病院におるんやね、すぐ行く」

電話を切った。
動揺してはいけない、と自分に言い聞かせながら、浩輔は上司の席へ向かった。

「課長」
事情を話すと、上司はしばらく言葉を失った。
「…わかった。すぐ病院に行け」
「じゃ、引き継ぎを…」
「いいから。気をつけて行けよ」

自席へ戻り、携帯電話と財布をカバンに放り込んだ。
パソコンを閉じる手が震えていた。

病院に着くと、浩輔は受付に妻の名前を告げた。
受付の女性は、手元の書類へ視線をおとした。
「入院中の方ですか」
「違います、今日検診に来ていて⋯その、さっき診察されたはずなんですが」

どうして話が通じないのか、と苛立ちを覚えた。
待合のテレビからは、昼の情報番組の笑い声が聞こえていた。

「川口香織さんのご家族の方ですか」
受付の奥で慌ただしく動き回っていた看護師が、こちらに気づいて声をかけた。
「…夫です」
「こちらへどうぞ」

看護師に案内され、診察室の奥へと向かった。
病棟の廊下は昼でも薄暗く、とても長く感じた。

ドアをコンコン、とノックすると、「はい」という、か細い声が聞こえた。
扉を開けると、香織がひとりで座っていた。
泣いている様子ではなく、ただぼんやりと、壁を見つめているようだった。

浩輔は唇をぎゅっと強く結んだまま、ゆっくりと部屋の中へ入った。
扉を閉めて、香織の隣に座り、膝の上の手に自分の手を重ねた。

しばらく、どちらも何も言わなかった。
香織が何か言おうと口を開いた。
けれど、それよりも先に、浩輔の感情が溢れ出した。

「ごめん、ごめんね…」

椅子から崩れ落ちるようにして、泣いた。
激しい慟哭だった。
溢れ出る涙を抑えられなかった。
こんなに涙が出たのは初めてだったかもしれない。

声を上げて、手を握りしめて、泣いた。
香織は浩輔の背中に手を添え、ゆっくりぽん、ぽん、と掌を落とした。

出産は、宣告を受けた翌日になった。
陣痛促進剤を投与して、二人を出産することになった。

いくつもの説明を受けて、同意書にサインをした。
けれど、そのほとんどが、どのようなものだったか、香織の頭には残っていなかった。
ただ、お腹の中で一つの命は今もまだ生きているということ。
そして今、二人を生むことが最善なのだということだけは分かった。

時折感じる胎動だけが、香織の心を保っていた。
どうか、この子だけは。
祈るような気持ちで、ポタポタと落ちる点滴の滴を眺めていた。

誰よりも近い所にいるはずなのに、とても遠い場所にいるような気がした。
亡くなったと聞いたのに、抱きしめてあげることすら出来ない。
こんなにも自分が無力であると思い知らされたのは初めてだった。

とても時間が長く感じた。
病棟の一番奥の狭い病室に入って、ひっそりと過ごしていた。
陣痛を待つ間、何かをする気には到底なれずに、狭い部屋を歩くことしかできなかった。
浩輔はずっと一緒に病室にいてくれていた。
ずっと側にいてほしいという気持ちと、一人にして欲しいという気持ちが常に心の中に同居していて、自分でもどうして欲しいのかわからなかった。

今の自分にできるのは、この子たちを生んであげることだけだと思った。
守ってあげられるのは自分しかいなかったのに。
それなのに、守れなかった。
ならば、せめて。
香織はもう一度、お腹を撫でた。

苦痛な時間を過ごしていると、分娩室へと案内された。
子宮口が開いてきていて、お産が進行してきている、との事だった。
香織は、自分の手が震えている事に気がついた。
とても怖かった。
分娩台に自分で上がるということが、これほどまでに恐ろしいことなのだとは想像もしていなかった。
これから、自分の中にある二つの小さな命を生み落としたら、どうなってしまうのだろうかと思った。
震える手を握りしめて、香織は分娩台へ上がった。

しばらくすると、人工的に破水させる処置が行われた。
生温い水が、一気に体の外へ出る感覚があった。
その直後、これまでとは明らかに違う痛みに襲われた。

思わず声が漏れた。

体の深い所から突き上げるような咆哮だった。
耐え難い痛みだった。
これまでに経験したどんな痛みよりも強く、体が張り裂けてしまいそうな、砕けてしまいそうな痛みだった。
思わず、目を閉じて体に力を入れると「目を開けて」と助産師の女性が手を握って叫んだ。
いきんで、と言われたタイミングで全力で体中に力を込めた。

手を何度か強く叩かれて「力を抜け」と指示されていた事に気がついた。
息を止めてしまっていたらしく、全く周りの声が聞こえなかったと気が付き、少し慌てた。

束の間の陣痛の波間に、香織は天井を見上げていた。
「次のタイミングで赤ちゃん出るよ」
足元にいる助産師の大きな声が耳に届いた。

やっと会える。
でも、もう終わってしまう。

どんな気持ちが一番前にあったか覚えていない。
浩輔がぎゅっと右手を握った。
顔は見れなかった。
だから、ずっと天井を見ていた。
最後、力の限りにいきんだ。

「一人目、生まれました」

感覚はあった。
だけど、よくわからなかった。
産声がなかったからだ。

何か声をかけてもらったと思う。
だけど、音が響いているのはわかったけれど、言葉として認識をすることが出来なかった。
周りの情景がスローモーションで動いているように見えた。
取り上げられた赤ちゃんの姿は、香織の位置からははっきりと見えなかった。

一瞬、浩輔がどこかを呆然と眺めている姿が目に入った。

それから彼は、はっとして香織の方を見た。

香織の目尻からこめかみの方へ一筋の涙が伝っていた。
ただ、握りしめている手に力を込めることしか出来ずにいた。

やがて、二人目の出産の時が訪れた。
助産師の気丈な励ましが香織の心をギリギリの所で支えていた。

「お母さん、妹ちゃんも出すよ、頑張れ」

身体中の全ての力を振り絞って、全力でいきんだ。
指が、握りしめる手に深く食い込んだ。
生々しい重みが体を抜けていく感覚があった。

「⋯生きてますか?」

赤ちゃんを取り上げた助産師を見て尋ねた。
その刹那、小さな産声が聞こえた。
部屋の中の全ての音が消えて、その小さな産声だけが耳に届いた。
香織は、身体中の力が全て抜けていくのを感じた。

浩輔が泣いていた。
足元にいた医師が、目元を拭っているのが見えた。
顔のすぐそばに小さな赤ん坊を助産師が連れてきてくれた。
細く小さな体に、懸命に力を入れて、産声をあげていた。

愛おしいと思うよりも先に、安堵の気持ちが胸に込み上げた。
そう思ったのと同時に、言いようの無い焦燥感が香織の胸に広がった。

あの子は、どこ。

力が入らない上体を必死に持ち上げながら部屋を見渡した。
けれど、先に生まれたはずの姉の姿が見当たらなかった。

あの子は、どこ。

そう言おうとした時、ふっと目の前が暗くなり、体が脱力した。