ひまわりと君がいた夏


十七年前ーー
山茶花の花が咲く頃だった。

あと数日で、早めの産休に入る事になっていた香織は、大きく育ったお腹を抱えて職場の荷物の整理をしていた。
給湯室に置いているマグカップをタオルに包み、用意してきたトートバックに片づけた。
「だいぶ大きくなったね、そろそろ臨月じゃなかと?」
「まだ8ヶ月なんです。双子やけん、お腹が大きくなるのが早かみたいで」
「そう、双子ちゃんなんやね。大変やろうけど、無理せんごとね」
最近はやたらと色んな人に声をかけてもらえるようになった。
大きく目立つようになってきたお腹をかかえて仕事に来ると、他部署のパート従業員や清掃業者の年配の女性、色んな人が声をかけてくれて、優しくお腹を撫でてくれる人もいた。

明日は有給休暇を取って、朝から妊婦健診へ行く。
午後からは、そのまま産婦人科で母親教室に参加することになっていたから、ほぼ一日仕事だ。

仕事の引き継ぎはほとんど終わっていた。
あとはデスク周りの私物を片付けて、総務から預かった書類を来週までに提出すればいい。

「あぁ、腰痛い⋯」
一息つこうと思い、給湯室に備え付けてある休憩スペースの椅子に腰掛けた。
急にお腹が大きくなってきたこともあって、腰が痛くなることが増えた。
夜は胎動が激しさも相まって、眠りが浅くなる。
それもあってか、この日はすごく疲れていて体もだるかった。
初めての妊娠出産が双子と言う事もあって、少しナーバスにもなっていたのかもしれない。

妊娠初期は悪阻が酷く、仕事に穴をあけることも多かった。
だからせめて、産休に入る前くらいは、引き継ぎも手続きも、きちんと済ませておきたかった。

ふと、喉が乾くのを感じた。
お茶を入れようと、給茶機の横の戸棚を開き、自分のマグカップを探そうとして「あっ」と声を上げた。
つい今しがた、タオルに包んで片づけたばかりだった。
苦笑いをしながら、戸棚を閉めた。

最近はこういう事が多くなった。
ぼんやりしているつもりは無いけれど、どこか注意力が欠けているというか、普段なら絶対にしないような小さなミスが多くなっている。
共用の湯呑茶碗に給茶機からほうじ茶を注ぎ、椅子を引いて座った。

後は何があったかな。
やるべき事は他になかったか考えを巡らせながら温かいほうじ茶を一口飲んだ。
「あ、駐車場の解約…」
職場へは自動車で通っていた。
以前はバスで通勤していたけれど、悪阻が出てきた頃からは人混みの匂いが苦手になって、自動車通勤へ変更をしていたのだ。
職場近くに月極で駐車場を借りていたから、その解約手続きも行わなければならない。

席に戻ったら、忘れないように手帳にメモしておこう。
お腹の左下の方で、ぐにゅっと体の内側が押されるのを感じた。胎動だ。
後もう一息だ、もうひと頑張りしよう。
動いたあたりを手で擦り、立ち上がった。


「川口さーん、診察室にお入りください」
診察室のドアから顔を出した看護師が、中待合へ向かって声をかけた。
「はい」
香織は小さく手を上げて、読んでいた文庫本をバッグへ仕舞って立ち上がった。

会釈をしながら診察室に入ると、主治医の女医の先生が、こんにちは、と声を掛けてくれた。
医師は、パソコンの画面に視線をむけて、キーボードを叩きながら「最近どうですか」と尋ねてきた。
「貧血気味なのかわからないんですけど、すごく体がしんどくて…」
香織は椅子の隣の荷物置きに荷物をおろし、椅子に腰掛けながら応えた。
「しんどい、ってどんな時?」
「…何をするにも、って感じですかね」
「これからはもっとしんどくなるよ」
「えぇ、ちょっと勘弁してほしいなぁ」
ふふ、と笑いながら医師は腹部エコーの診察台へ香織を促した。
「旦那さんは手伝ってくれてる?」
「食器洗ったり掃除とかはほとんどやってくれてます。料理は全然だけど」
「へぇ、すごいね。その調子で頑張ってもらわないとね」
双子が生まれたらきっと今まで通りというわけにはいかないから、と浩輔も少しずつ家事を覚えているところだった。

「うん…?」

エコーを見ながら、医師が小さく呟いた。
それまでの和やかな空気とは明らかに違う何かを感じた。

「何かあったんですか?」

そう言った後で、香織の胸に言いようのない焦燥感が広がった。
何度も何度も同じあたりをエコーの機械が辿る。

「うん…ここが心臓で…」
医師の手が止まった。
「…心拍が確認出来なくて…赤ちゃんの心臓が止まっています」

…嘘。

え、うそだ。
うそでしょう?
え?えっ…

声にならなかった。
上半身を起こそうとしたけれど、上手く力が入らなかった。

医師が何かを説明していた。
もう一人の赤ちゃんの心臓は動いていること。
血液検査が必要なこと。
言葉は聞こえているはずなのに、意味として頭に入ってこなかった。
看護師に肩を支えられ、診察台から降りた。
自分で歩いているはずなのに、足元の感覚がひどく頼りなかった。

その後どうやってそこまで歩いたのか、よく覚えていない。
気がつくと、診察室の奥にある小さな部屋で、一人、椅子に座っていた。

どれくらい経った頃だっただろうか。

ふと、駐車場の解約の事が頭に浮かんできた。
解約の手続きは、もうしなくていいんだっけ。
いや、でも一人は大丈夫って言われたから、やっぱり手続きはやらなきゃいけないのかな。

…どうしてこんなときにまで、現実的な事を考えてしまうのだろうか。

我が子が亡くなった。
これ以上無い悲しみの中で、何を考えているんだろう。

悲しみのどん底に落ちることができていない自分が嫌になった。
大声で泣いて、取り乱して、真っ白になれたらどんなに良かっただろうか。
小さな部屋で、一人、ただ壁を見つめていた。