ひまわりと君がいた夏

「あ、お母さん…」
母は葵たちが腰掛けるソファーの側まで歩み寄ってきた。

「香織さん、来とったとね」
「…丁度主治医の先生とお会いしたけん、説明を受けてました。検査の結果も問題無かってことで、予定通り退院で良いって」
「そうね、ありがとう」
恵子は香織に声をかけ、座らんね、とソファをポンポンと手で叩いた。
香織は曖昧に会釈をしただけで、そこに立ったままだった。

「…そろそろ話しても良かとじゃないかな」
恵子がぽつりと呟いた。
葵は祖母を見た。
それから、母の顔をみた。
二人とも、どこか悲しげな目をしていた。
葵は、自分の鼓動が早くなるのを感じていた。

「あおちゃんも、もう子供じゃなかよ。知りたかって思うとるなら⋯話してあげてもいいと思うよ」
香織はデイルームの大きな窓から外を見て、それからゆっくりと視線を葵の方へ向けた。
「葵、ちょっと一緒に外に行こうか」


病院を出て、港のそばにある大きな公園まで歩いた。

日はだいぶ傾いていたけれど、芝生の上にはまだ夏の明るさが残っていた。
広場を横切り、港が見えるベンチに並んで腰を下ろした。

芝生の向こうには海が広がっていた。
港を行き交う船が、太陽の光を受けてきらめく水面に、長い航跡を引いている。
対岸には造船所の大きなクレーンが並び、その向こうには、山の斜面に沿って街が広がっていた。
船が通り過ぎてしばらくすると、遅れて届いた波が岸壁に小さくぶつかった。

「ここ来るの久しぶりやね。葵が小さい頃は良く遊びに来とったとよ」
「うん、覚えとる…」
写真やビデオで、何度か見た覚えがある。
若い頃の父と母と、まだ幼い葵。
レジャーシートを広げてお弁当を食べたり、芝生の上でしゃぼん玉を飛ばしたりしていた。
まだ上手に歩けなかった葵が、じゃぼん玉を追いかけて、覚束ない足取りで数歩進み、尻餅をついて泣き出す。
父は優しい顔で笑いながらそんな葵を抱き上げる。
すぐそばで母の笑う声が聞こえていた。

「ご飯はちゃんと食べとるね?」
「うん、ごはんいっぱい食べるし、勝手に外にも行っちゃうしさ。毛並みも艶々してたからおばあちゃん猫って感じしなかったな」
ふふ、と母が笑った。
「ユキじゃなくて、葵が。ちゃんと食べとる?」
「あぁ、私か。うん、ちゃんと食べてるよ。作ったり、作らなかったりだけど」
「野菜も食べとる?」
「まぁ、ぼちぼちね」
そうね、と呟いて、小さく微笑んだ。
「おばあちゃんの家、どうやった?」
「…居心地良かったよ。なんか、冒険してるみたいで色々楽しかった」
「…そうね」
「ね、お母さん」
「ん?」
「おばあちゃんから聞いた。私、小さい頃、おばあちゃんちに住んでた時期があったんやね」
香織は何も言わず、視線を落とした。
「あのさ、別にそれは全然いいの。そういう家って普通にあると思うし。だけどさ…その後、島にはほとんど行ってなかったし、その頃の写真もビデオも見た覚えも無い。おばあちゃんは隠してたわけじゃないって言ってたけど⋯」

葵は、膝の上でぎゅっと掌を握りしめた。

「やっぱり私は、ずっと隠されてたような気がする」
「⋯⋯」
「何か…理由があるんだよね?」

「…うん、そうだよね。葵の気持ちは、よく分かる」
言葉を探すように、ぽつりと呟いた。

「あのさ…体調崩してたって、お母さん、何かの病気だったの?」
芝生の向こうを、白い船がゆっくりと横切っていった。
その姿が遠ざかってから、香織は葵をじっと見つめた。

「…あのね、葵」

「お母さん、あなたの事が疎ましかったり、嫌いになったわけじゃないの、それだけは絶対に違う。あなたは望まれて生まれて来た子で、あなたは何も悪くない」

香織はまっすぐに葵を見ていた。

「あなたが元気に育ってくれることは、何よりの喜びだったし、お父さんもお母さんも、それが何よりも嬉しかったの。もちろん今もそう」

「…何の話?」

戸惑った。
こんなにも真っ直ぐな気持ちを伝えられたのは、初めてだったかもしれない。
あまりに真剣な母の眼差しに、照れや恥ずかしさという感情はわかず、ただ、戸惑うだけだった。

「…お母さんね、あの頃、心が壊れてしまっとった」

葵は母の顔を見た。
心が、壊れた。
自分の知っている母と、結びつかない言葉だった。

「それは、その…私の子育てが辛くて、って事?」
「…ううん、違う、そうじゃないとよ」
「え、じゃ何で?お父さんと何かあったの?」
「ううん、違う、違う…うん、ごめん。ちゃんと話すって決めたとやもんね」
香織は、深く息を吐いた。

「葵にはね、双子のお姉ちゃんがおったとよ。でもね、お姉ちゃんは生まれてくる前に、お腹の中で亡くなってしまったと」

「えっ?」

「お母さんたちはね、二人が生まれてくるのをずっと楽しみにしとった。もうすぐ会えるって、思っとった。だけどね、本当にね…」
香織の目の端が、かすかに潤んだ。

「信じられんかった。もうすぐ生まれるっていう頃にね、赤ちゃんの心臓が動いとらん、って言われたとよ」

何も言えなかった。
そんな事があるのだろうか。
ドクン、ドクンと心臓の音が耳に届いた。

「葵はね、なんとか無事に生まれてくれてね。本当にね、それだけが生きる意味やった。葵がおってくれることで、お父さんもお母さんも生かされとるって思っとった。けどね…」

「あの子がおらんのに、毎日が過ぎていって。葵が大きくなって、元気に笑ってくれる姿をみとるとね、嬉しくて、幸せなのにね…苦しくて仕方なくなった」

「そういう日々が、続いていってね。お母さん…もう限界やって思ったとよ」

母の言葉の一つ一つが、静かに胸の奥に落ちていった。
そして、重く沈んで、痛みになった。
何も言えず、思考が、母の言葉の前に立ち尽くしてしまっていた。


「二人が生まれた時のことを、話してもいいかな」
葵は黙って頷いた。