「あら、早かったね」
消毒液の匂いが漂う廊下を進み、恵子の病室の扉をそっと開いた。
声をかけるより先に、窓際のベッドに座っていた恵子が葵に気づいた。
恵子のベッドの方へ行こうと部屋へ足を踏み入れると、恵子はスリッパを履いてデイルームがある方を指さした。
見ると、隣のベッドの女性が眠っていた。
部屋の引き戸をしめてから、恵子が話し始めた。
「お母さんと一緒じゃなかとね?」
「うん、お母さん仕事から直接来るって言ってたから病院集合にしちゃった」
母の仕事が終わる時間よりも少し早めに病院へやって来た。
祖母と二人で話したいことがあったからだ。
デイルームに入ると、自販機のそばの席が空いていたのでそこに腰掛けた。
葵は少しだけ、緊張していた。
隣に置いたバッグの中には、クッキー缶の中で見つけたあの名札がハンカチに包まれて奥の方にひっそりとしまわれている。
この名札を持ってくるべきか悩んだ末、念のためバッグに入れてくることにした。
どう話を切り出すかは、まだ決めていなかった。
ただ、母が来る前に祖母と二人で話しておきたかった。
島の幼稚園に通っていたならば、その話がこれまでに一度も出てこなかったのはやはり不自然だ。
両親に直接聞く前に、祖母の話を聞いてみたかった。
「もう退院するとにね、今日も来てくれて、ありがとうね」
嬉しそうに微笑む祖母を見ると、なんだか少しだけ胸がいたんだ。
「そうそう、あおちゃんこれ好きやったよね」
祖母は自分の隣においた小さな手提げ袋から何かを取り出した。
取り出したのは、ドーナツだった。
硬い生地にチョコレートがコーティングされた白いパッケージの、あのドーナツだ。
「さっき売店に行ってみたら売っとったとよ。おなかすいとらんね」
「ありがとう…良く知ってるね、これ好きって」
「お買い物に行ったら、ようこれ買っとったからね。なんか懐かしくてね」
ドーナツの袋を机の上に置いた。
「ね、おばあちゃん。」
祖母の顔を見た。祖母の目は優しく、嬉しそうに微笑んでいた。
「私さ、小さい頃、島に住んでなかった?」
ゆるやかに上を向いていた祖母の口角が、ほんの少しだけ下に揺れた。
膝の上で交差させた指先に視線を向けたまま、祖母は何も答えなかった。
何事もないように、「そうよ、住んどったよ」と答えてくれたら、何で教えてくれなかったの、と明るく問い返して話せばいいと思っていた。
小さい頃の事だから、覚えてなかっただけやろ、と笑いあって思い出話を聞かせてもらおうと思っていた。
だけど、祖母の顔からは一瞬、表情が消えたように思えた。
隣に置いているバッグを、左手で触った。
奥にしまっているハンカチへ手を伸ばそうとしたとき、祖母が口を開いた。
「住んどったよ」
伸ばしかけた手を握りしめ、膝の上に戻して祖母の方を見た。
「…いつ頃?」
「四歳くらいやったかな。おばあちゃんの家で一緒に暮らしとったとよ」
「そうなんやね…家族で同居してた、ってこと?」
祖母はゆっくりと首を横に振った。
そんな気がしていた。
記憶の中にある島の光景には、父と母の姿は無かったからだ。
「あの頃はね、あおちゃんのお母さんが体調崩しとってね。お父さん一人じゃなんともならんくて、おばあちゃんの家で預かっとったとよ。お母さんとお父さんには聞いてみたね?」
葵は首を横に振った。
「今までそんな事、考えたことも無かったから。だけど、なんていうか…」
「島暮らししたら、色々思い出したとかな」
葵は黙ったまま頷いた。
ペットボトルのお茶を口に含み、ふぅ、と息を吐いて、祖母は続けた。
「最初はね、そんなに長い間おる予定じゃなかったとよ。だけどね、一週間、もう一週間ってちょっとずつ長引いて、やっぱりちょっと時間がかかるってなってね。」
「…結局どのくらいいたの?」
「一年ちょっとかな。もともと葵ちゃんは本土の幼稚園に通うとったけど、島の幼稚園に通うごとして、しばらく腰を据えて生活させようかってなってね。お父さんも仕事が忙しかったし、葵ちゃんの生活を安定させたほうが、お母さんも焦らんですむけん、良かとじゃないかなって思うてね」
鞄の持ち手を、ぎゅっと握った。
「葵ちゃん、最初は元気なくて泣いてばっかりやったけど、お友達も出来て、だんだん明るくなってきてね。その頃にユキも家に来てね」
「じゃ、ユキを飼ったのって」
「そう、おじいちゃんがね、葵ちゃんが元気になれば嬉しかねって言うて、雨の中連れて帰ってきたとよ」
「⋯そうだったんだね」
「小学校は本土の学校に入れたかけん、幼稚園も戻して慣らしていくって言うてね。卒園前に家に戻ったとよ」
だから卒園式の写真は本土の園のものだったのか、と納得した。
「これ、おばあちゃんの家の押入れで見つけたの。お菓子の缶に入ってた」
鞄を引き寄せて、ハンカチの中から名札を取り出した。
「あら、懐かしさ」
「あの缶ってさ、おばあちゃんがくれた宝物入れだよね。石ころとか、絵とかビーズとか入ってた。今でも取っておいてくれたんだね」
祖母はビニールの名札を掌に載せると、愛おしむように指でそっと撫でて、微笑んだ。
「あれはね、今はおばあちゃんの宝箱とよ。おじいちゃんとおばあちゃんにとって、葵ちゃんと一緒に過ごした時間は宝物やったけんね。本当はね、取っておかん方が良かったかもしれんとけど、捨てれんかったとよ」
「⋯何で、取っておかん方が良かったの?」
「葵ちゃんが見つけたら、思い出してしまうかもしれんやろ」
現に、葵はこの名札を見て島で暮らしていたという事を確信していた。
思い出の品を見なければ、蘇らなかった記憶だったかもしれない。
「…島に住んでたのを思い出すのって、そんなにだめなことじゃ無いと思うんだけどさ。ね、なんでそんなに皆で内緒にしようとしてたの?」
恵子が一瞬、小さく狼狽えた。
「別に内緒にしとったわけじゃないとよ。小さかったけん、自然と忘れていくかなって思っとっただけよ」
「…でも、不自然なくらい島のこと避けとった」
「小さか子を親元から離して生活させとったっていうのは、あんたのお父さんとお母さんからしたら、そんなに気持ちの良いもんじゃないやろ。なるべく島に来んようにして、見んようにしとったら、自然と忘れていく。そうしたかっただけとよ」
葵は黙って聞いていた。
確かに、そのことを、両親は後悔していたのかもしれない。
でもーー。
「でもさ、共働きの家とかだったらおばあちゃんの家にいる子もいるじゃん。そんなに特別なことでもないんじゃ…」
ふと、ヨウの言葉が頭をよぎった。
―――なんでも秘密にせんでもいいとにね。
「…お母さんって、なんで体調崩してたの?」
祖母の視線がデイルームの入口のほうを向いていた。
いつからそこにいたのだろうか。
母がそこに立っていた。
消毒液の匂いが漂う廊下を進み、恵子の病室の扉をそっと開いた。
声をかけるより先に、窓際のベッドに座っていた恵子が葵に気づいた。
恵子のベッドの方へ行こうと部屋へ足を踏み入れると、恵子はスリッパを履いてデイルームがある方を指さした。
見ると、隣のベッドの女性が眠っていた。
部屋の引き戸をしめてから、恵子が話し始めた。
「お母さんと一緒じゃなかとね?」
「うん、お母さん仕事から直接来るって言ってたから病院集合にしちゃった」
母の仕事が終わる時間よりも少し早めに病院へやって来た。
祖母と二人で話したいことがあったからだ。
デイルームに入ると、自販機のそばの席が空いていたのでそこに腰掛けた。
葵は少しだけ、緊張していた。
隣に置いたバッグの中には、クッキー缶の中で見つけたあの名札がハンカチに包まれて奥の方にひっそりとしまわれている。
この名札を持ってくるべきか悩んだ末、念のためバッグに入れてくることにした。
どう話を切り出すかは、まだ決めていなかった。
ただ、母が来る前に祖母と二人で話しておきたかった。
島の幼稚園に通っていたならば、その話がこれまでに一度も出てこなかったのはやはり不自然だ。
両親に直接聞く前に、祖母の話を聞いてみたかった。
「もう退院するとにね、今日も来てくれて、ありがとうね」
嬉しそうに微笑む祖母を見ると、なんだか少しだけ胸がいたんだ。
「そうそう、あおちゃんこれ好きやったよね」
祖母は自分の隣においた小さな手提げ袋から何かを取り出した。
取り出したのは、ドーナツだった。
硬い生地にチョコレートがコーティングされた白いパッケージの、あのドーナツだ。
「さっき売店に行ってみたら売っとったとよ。おなかすいとらんね」
「ありがとう…良く知ってるね、これ好きって」
「お買い物に行ったら、ようこれ買っとったからね。なんか懐かしくてね」
ドーナツの袋を机の上に置いた。
「ね、おばあちゃん。」
祖母の顔を見た。祖母の目は優しく、嬉しそうに微笑んでいた。
「私さ、小さい頃、島に住んでなかった?」
ゆるやかに上を向いていた祖母の口角が、ほんの少しだけ下に揺れた。
膝の上で交差させた指先に視線を向けたまま、祖母は何も答えなかった。
何事もないように、「そうよ、住んどったよ」と答えてくれたら、何で教えてくれなかったの、と明るく問い返して話せばいいと思っていた。
小さい頃の事だから、覚えてなかっただけやろ、と笑いあって思い出話を聞かせてもらおうと思っていた。
だけど、祖母の顔からは一瞬、表情が消えたように思えた。
隣に置いているバッグを、左手で触った。
奥にしまっているハンカチへ手を伸ばそうとしたとき、祖母が口を開いた。
「住んどったよ」
伸ばしかけた手を握りしめ、膝の上に戻して祖母の方を見た。
「…いつ頃?」
「四歳くらいやったかな。おばあちゃんの家で一緒に暮らしとったとよ」
「そうなんやね…家族で同居してた、ってこと?」
祖母はゆっくりと首を横に振った。
そんな気がしていた。
記憶の中にある島の光景には、父と母の姿は無かったからだ。
「あの頃はね、あおちゃんのお母さんが体調崩しとってね。お父さん一人じゃなんともならんくて、おばあちゃんの家で預かっとったとよ。お母さんとお父さんには聞いてみたね?」
葵は首を横に振った。
「今までそんな事、考えたことも無かったから。だけど、なんていうか…」
「島暮らししたら、色々思い出したとかな」
葵は黙ったまま頷いた。
ペットボトルのお茶を口に含み、ふぅ、と息を吐いて、祖母は続けた。
「最初はね、そんなに長い間おる予定じゃなかったとよ。だけどね、一週間、もう一週間ってちょっとずつ長引いて、やっぱりちょっと時間がかかるってなってね。」
「…結局どのくらいいたの?」
「一年ちょっとかな。もともと葵ちゃんは本土の幼稚園に通うとったけど、島の幼稚園に通うごとして、しばらく腰を据えて生活させようかってなってね。お父さんも仕事が忙しかったし、葵ちゃんの生活を安定させたほうが、お母さんも焦らんですむけん、良かとじゃないかなって思うてね」
鞄の持ち手を、ぎゅっと握った。
「葵ちゃん、最初は元気なくて泣いてばっかりやったけど、お友達も出来て、だんだん明るくなってきてね。その頃にユキも家に来てね」
「じゃ、ユキを飼ったのって」
「そう、おじいちゃんがね、葵ちゃんが元気になれば嬉しかねって言うて、雨の中連れて帰ってきたとよ」
「⋯そうだったんだね」
「小学校は本土の学校に入れたかけん、幼稚園も戻して慣らしていくって言うてね。卒園前に家に戻ったとよ」
だから卒園式の写真は本土の園のものだったのか、と納得した。
「これ、おばあちゃんの家の押入れで見つけたの。お菓子の缶に入ってた」
鞄を引き寄せて、ハンカチの中から名札を取り出した。
「あら、懐かしさ」
「あの缶ってさ、おばあちゃんがくれた宝物入れだよね。石ころとか、絵とかビーズとか入ってた。今でも取っておいてくれたんだね」
祖母はビニールの名札を掌に載せると、愛おしむように指でそっと撫でて、微笑んだ。
「あれはね、今はおばあちゃんの宝箱とよ。おじいちゃんとおばあちゃんにとって、葵ちゃんと一緒に過ごした時間は宝物やったけんね。本当はね、取っておかん方が良かったかもしれんとけど、捨てれんかったとよ」
「⋯何で、取っておかん方が良かったの?」
「葵ちゃんが見つけたら、思い出してしまうかもしれんやろ」
現に、葵はこの名札を見て島で暮らしていたという事を確信していた。
思い出の品を見なければ、蘇らなかった記憶だったかもしれない。
「…島に住んでたのを思い出すのって、そんなにだめなことじゃ無いと思うんだけどさ。ね、なんでそんなに皆で内緒にしようとしてたの?」
恵子が一瞬、小さく狼狽えた。
「別に内緒にしとったわけじゃないとよ。小さかったけん、自然と忘れていくかなって思っとっただけよ」
「…でも、不自然なくらい島のこと避けとった」
「小さか子を親元から離して生活させとったっていうのは、あんたのお父さんとお母さんからしたら、そんなに気持ちの良いもんじゃないやろ。なるべく島に来んようにして、見んようにしとったら、自然と忘れていく。そうしたかっただけとよ」
葵は黙って聞いていた。
確かに、そのことを、両親は後悔していたのかもしれない。
でもーー。
「でもさ、共働きの家とかだったらおばあちゃんの家にいる子もいるじゃん。そんなに特別なことでもないんじゃ…」
ふと、ヨウの言葉が頭をよぎった。
―――なんでも秘密にせんでもいいとにね。
「…お母さんって、なんで体調崩してたの?」
祖母の視線がデイルームの入口のほうを向いていた。
いつからそこにいたのだろうか。
母がそこに立っていた。
