ひまわりと君がいた夏

歯ブラシを口にくわえながら、やはり慣れない、と眉を寄せた。
スーパーのぐちで買った歯みがき粉には塩が入っているようで、しょっぱくてどうにも慣れなかった。

この一種類しか売っていないと言うことは、この島の人たちは皆これで朝、歯をみがいているのだろうか。
色んな家の洗面所で、しょっぱいなぁと口を濯いでいるのを想像しながら、前の晩にかかってきた電話のことを思い出していた。


香織からの電話で、恵子の退院の日が決まったというものだった。
検査結果が出て、大きな異常が無いことがわかり、担当医師と相談して決めたということだった。
「もう退院しちゃうけど、一回一緒にお見舞いに行こう」と誘われた。

自分も病院へ行ったことは、なんとなく言わなかった。
別に隠すようなことでもなかったけれど、言わないまま、一緒に行く約束をして電話を切った。

おばあちゃんが退院する。

それはつまり、葵もこの家を出るということだった。
一週間だけの島暮らしも、もう終わりが見えていた。

朝起きてユキの姿を探して、畑の野菜に水をやる。
暑くなる前に窓を開け、夕方になれば縁側で日が傾くのを眺める。
いつの間にか、そんな毎日が当たり前になっていた。


庭先で、ヨウは花壇に水を撒いていた。

朝早くから現れたヨウは、畑でどっさり枝豆を収穫し、縁側いっぱいに広げていた。
「いっぱい取れたから冷凍しとこうよ」と言うので、特に予定もなかった葵も付き合うことにした。
好き放題やってるな、と少し呆れた。
「はさみとざる、持ってきたよ」
縁側に出て声をかけると、じょうろを置いて近づいてきた。

枝からさやを切り離して、ざるに載せていく。
手際よく作業を進めるヨウを横目に見ながら、お見舞いの帰り道のことを思い返した。
ヨウは、どうして私の所に来たんだろう。
それに、ずっと聞きたいと思っていることもあった。
確かめたい、という気持ちの方が近かったかもしれない。
葵はおもむろに口を開いた。

「聞いていいのかわからんのだけど……ヨウちゃんって、自分のことどう思っとるの?」

ヨウはすぐには答えず、手元の枝豆から葵へと視線を移した。

「どう、って?」
「うん。なんていうか、その……」
どう尋ねればいいのか迷った。
「自分がどういう存在だっていう、自覚っていうのかな。そういうのってあるとかなって」

ヨウは手にしていた枝豆をざるに置いた。
「……うーん、難しいこと聞くね」

自分でも下手くそな問いかけだと思った。

「ヨウちゃんってさ、私以外の人とは話したり、触れたりってことは出来ないんだよね」
ヨウの手がぴたりと止まった。
「多分、そうだと思う」
「それって、なんていうか…」
「ユーレイみたい?」

ドキッとしたが、それ以外の言葉が見つからず、葵は黙ったまま小さく頷いた。
「幽霊なのかって聞かれると、どうなんやろうって気がする。自分がそうだっていう自覚はないかな」
「…そうなんやね」
「だって、あおちゃんとは話もできるし、普通に触れるし。お茶も美味しいもん」
あとトマトもね、と言って枝豆の隣に置かれた赤い実を指さした。

言われてみれば、ヨウは当たり前のように飲んだり食べたりしている。
あまりにも自然に隣でそうしているから、これまで疑問に思ったこともなかった。
でも、幽霊って、トマトを食べるんだろうか。

「私ね、多分あおちゃんたちとは違うんだと思うとけど、生きとるとか死んどるとか、そういうのがよくわからんくて」
「…そうなの?」
「うん、わかんない」
「そういうもんなんかな」
「あおちゃんはさ、まだ生きとるから死んじゃった後の感覚とかわかんないでしょ」
ヨウは枝豆をひとつ手に取り、指先でくるりと回した。
「…そんなの、わかるわけないやん」
「ね、それと一緒だよ」
一緒なのかな、全然腑に落ちなかった。

漠然とだけど、ヨウのような存在は、生きるとか死ぬとか、そういう理のようなものを知っていると思っていた。
けれど、そういうわけではないらしい。

「そうだな…あおちゃんってさ、一日一日がちゃんと地続きで繋がってるでしょ?」
「ん、どういうこと?」
「なんていうか、昨日があって、今日があって、っていうか。生まれた時から途切れずにずっとひと繋がりになってて今日があるって感じじゃない?」

考えたことも無かったけれど、確かにそうだ。
昨日が今日につながって、その今日がまた明日へ続いていく。
たとえ途中で眠っていたとしても、その時間は意識が向いていないだけで、途絶えているわけでは無い。

「私はね、多分、そういう感じじゃない」

なにか言おうと思ったけれど、言葉が見つからなかった。

「自分の事ってさ、案外わかんないのかもしれないね。何者なのって聞かれても、正直よくわからんよ」
困ったような笑顔を浮かべながら、隣に座る猫の背を撫でた。
「でもね、ユキは好きなんだよね」
「だってさ、可愛いもん」
ユキは両方の手を体の下に隠し、目を閉じてちょこんと座っていた。

「あおちゃんは?」
「え?」
「あおちゃんは、何が好き?」
不意に尋ねられた。
「えーっとね…」
当たり障りのない返事をしようかと思ったけど、やめた。
そういう返事に意味がないと思ったからだ。

葵はその問いかけに答えることが出来ずに黙り込み、海の向こうの水平線の方へ視線を投げた。
短い時間だったと思う。
けれど、その言葉に辿り着くまでには、随分と長い時間がかかったような気がした。

「私さ、好きなものとかって、本当はよくわからんくて」

声が少し震えるのがわかった。
こんな話を誰かにするのは初めてだった。

「たぶんね、私、結構器用な方だと思うんよね。これやって、とか言われることって、割とそつなくこなせるし、最初は興味がなくても、やってみたら一生懸命にもなれるし、楽しめたりもするし。でもさ」

言葉が詰まる。
視界の隅で、ヨウがこちらを見ている姿を捉えたけれど、その表情を見るのが怖いような気がして、葵は視線を遠くへ向けたままにした。

「なんていうかね、自分から好きになれるものがないっていうか、正直わからんっていうかさ。いつからだったかわからんのだけど、周りが喜びそうなものばっかり、好きって事にしとった気がする」
自分の言葉で耳にするのは、思っていたよりも苦しかった。

「ごめん、変な話して」
笑顔を作ってヨウの方を見た。
ヨウは、笑わなかった。
ただ、静かな顔で葵を見ていた。

「大丈夫だよ、私、あおちゃんのそういう話もっと聞きたい」

葵は一度、ぎゅっと唇を結んだ。
それから、もう一度海の方へ視線を戻した。
今なら話せるような気がした。

「…多分ね、好きかどうかって事だけじゃないんだ。私、おじいちゃんが死んじゃった時も、自分が悲しいのか、周りの人が悲しんどるから悲しいって気がしてたのか、よくわからんかった」

でも、この島に来て、忘れていた時間をいくつも思い出した。
そして、わかった。
あの時葵は、確かに悲しかったのだ。

好きなものだけじゃない。
悲しいとか、寂しいとか、そういう自分の気持ちまで、いつもどこか遠くにあるような気がしていた。


「私、自分のことが良くわからんの」

いつの間にか涙が一粒こぼれていた。
頬を伝った感触に、自分でも少し驚いた。
ずっと自分の中にひっかかっていたものを言葉にしたのは、たぶん初めてだった。


隣りに座ったヨウをちらりと横目で見た。
彼女は何も言わずに、穏やかに遠くの海を眺めていた。

そして、思い出した。
ヨウの前では、変に自分を取り繕わなくても良かった。

木に登ってみたいと思ったことがあった。
それで一緒に百日紅の木に手をかけてみたけれど、足が引っかからなくて全然登れず、二人で笑った。

どんぐりを見つければ、もっと集めたいと思った。
帽子いっぱい集めて帰ったら、おばあちゃんが小さな悲鳴をあげた。

雪を見たことがないというヨウに、雪を見せてあげたいと思った。
二人で今か今かと空を見上げて待っていたけれど、その年の冬、島に雪は降らなかった。

小さな石を集めること、シーグラスを探すこと。

好きだと思えることが、確かにあった。

次々に思い出が溢れてきた。

どれも遠い昔のことなのに、不思議なくらい鮮やかだった。

しかし、ふと、葵は違和感を覚えた。
浮かんできた思い出の後ろにあるのは、どれも、この島の景色だった。

ヨウと過ごした記憶も。
祖父と過ごした記憶も。
幼い日の景色の中には、いつもこの島があった。

けれど、自分はそんなに何度も、この島へ来ていただろうか。

幼い頃は乗り物酔いがひどく、祖父母の方から会いに来てくれていた。
そう聞いていたはずだった。

それなのに――。

どうして、こんなに島での思い出があるんだろう。

急に、押入れのクッキー缶が頭に浮かんだ。
葵は手にしていた枝豆を縁側に置いた。

「…ちょっと、ごめん」

そう言って立ち上がると、家の中へと戻っていった。

居間を通り抜けて、奥の和室の襖に手を掛けた。

押入れの奥から、あの缶を取り出した。
古びた、少し錆びた匂いのするクッキーの缶。

蓋を開けると、ころん、と小さな石が転がった。
あの頃は宝石のように思えた、ただの丸い石ころ。

それを缶の中へ戻そうとして、ふと手が止まった。

折りたたまれた絵の下から、赤いものが覗いている。

取り出してみると、チューリップの形をしたビニール製の名札だった。

かわぐちあおい。

中の紙には、平仮名でそう書かれていた。

そっと裏返してみた。

そこに印字されていた幼稚園の名前は、葵が卒園した園のものではなかった。

鼓動が少し早くなるのを感じた。

どこかで見た覚えのある名前だった。

葵はスマートフォンを取り出し、幼稚園の名前を検索した。

画面に表示された地図を見て、息を呑んだ。

この島だ。

それも、知っている場所だった。

祖父の墓へ行こうとして道に迷った、あの時。
あの道の先にあった幼稚園だった。

もう一度、手の中の名札に目を落とした。

かわぐちあおい

間違いなく、自分の名前だった。

自分が知っている過去と、存在している過去が違うーー
その名札をつけていた頃の自分のことを、葵は何ひとつ思い出せなかった。