ひまわりと君がいた夏

病院を出て、帰りの船までの時間を潰すためにターミナルの隣の商業施設へ向かった。
普段歩き慣れた道のはずなのに、なんだか今日は違う景色に見えた。
島という外の世界から来訪した感じがして、少しだけくすぐったいような照れくさいような気がした。


エスカレーターを登り、本屋のあるフロアまでやって来た。
何か欲しいものがあるわけでは無いのに、ほとんど無意識のうちに参考書が並んだ棚の前までやって来た。

天井近くまで伸びている本棚には所狭しと受験対策の参考書が並んでいて、小論文の書き方や文法のマスター方法、10日間で総復習を謳う冊子もあった。
隣の棚は思わず目をそらしたくなるほどに赤で埋め尽くされていた。
大学名が書かれた赤い本が棚に詰め込まれ、漏れ出た本は平積みされて並んでいた。

なんだか、今の自分はもっと手前にいるような気がした。

目指す学校も、学ぶ教科も、その前に何をしたいのかすら分からない。
葵は場違いな気がして、参考書が並ぶ棚の前から離れた。

書店の奥の方には、子供向けの児童書や絵本が並ぶコーナーがあり、その辺りをのんびりと歩き、それから雑誌、小説、文具が並ぶ棚を、目的もなく彷徨った。
本屋をゆっくり歩く時間は心地よかった。
紙とインクの匂いがほんのりと漂う本棚の間を、背表紙に並ぶ言葉を眺めながら歩くだけで、あっという間に時間は過ぎていく。
何となく目についた本を手に取り、帯に書かれた言葉を読んでみたり、売れ筋のランキングなんかを見ているのはなかなか楽しかった。


「川口?」
不意に、聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、現実に引き戻された。
声のする方に視線を向けると、リュックサックを背負った、ジャージ姿の大瀬良朔がそこに立っていた。

「何してんの?」
「別に…ちょっと時間つぶし。大瀬良くんは?」
「うん、今日は南高で合同練習だったから、その帰り」
港の近くにある学校の名前を言った。

朔の手には新刊、と書かれたシールが貼られたコミック本が握られていた。
「今日発売でさ。あるかなって思って」
嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
普段、学校で会うときよりも少しだけ幼いような気がした。

「時間つぶしって、待ち合わせとか?」
「ううん、そういうのじゃない。船の時間の…」
「船?」
そこまで言って、しまったと思った。
島の祖母の家で過ごしていることは、学校の誰にも話していない。
わざわざ話すような事でも無いし、なんだか少し照れくさかった。

「…おばあちゃんが島に住んでるんだけど、入院してて。で、猫飼ってるから、面倒見にいっとるの」
口早に説明すると、朔はへぇ、と答えた。
「毎日船で通っとるの?」
「ううん、毎日行くのしんどいから泊まり込み」
少し目を大きくして、へぇ、と再び答えた。
お互いに、どう言葉を紡ごうか思案しているのか、沈黙が流れた。

「…じゃ、これ買ってくるわ」
手にしたコミック本を軽く掲げて、朔はレジへと向かっていった。
あっさりと去っていった朔の背中を視線で追いかけていると、急に、その場に留まることが恥ずかしいような気がしてきて、葵は本屋を出た。

学校の誰にも話していなかったことを、朔だけが知っている。
そう思うと、妙に落ち着かない気持ちになった。

まだ少し時間があるけれど、もうターミナルの待合へ向かってしまおうと思い、足早にエスカレーターの方へ歩き出した所で、背後から声がした。

「船の時間って、何時?」
朔だった。
小走りで駆け寄ってきたらしく、少し息を弾ませている。
「あと何分位待つの?」
「えっと、あと30分くらいだけど…」
「じゃ、俺も行くわ。これ読みたいし」
「良いよ別に、読みたいなら家帰りなよ」
いいから、と少しぶっきら棒に言って、葵を追い抜いて先にエスカレーターに乗り込み、朔はこちらを見た。

その目は、さっさと来いよ、と言っているようだった。
ゆっくりと階下へ運ばれながら小さくなっていく姿がなんだか可笑しくて、小さく笑いがこぼれた。
葵もその後を追うように、エスカレーターへ乗り込んだ。


「猫って、何飼っとるの?」
商業施設の1階のフロアまで下る道中で、2段下にいる朔が、こちらを見上げるようにして尋ねてきた。
普段は向こうのほうが身長が高くて、いつも見おろされているから、こうして朔を見下ろすのは少し新鮮だった。

「三毛猫。もともと野良だったから、もしかしたらただの雑種かもしれんけど」
「へぇ、三毛猫か。野良出身なら外に出たがったりすんの?」
「うん、出たがるってか、勝手に散歩してる。港で小魚貰ったりしててさ、びっくりだよ」
「え、お魚くわえたドラ猫じゃん」
「ほんと、そんな感じ」
朔は、見たみたいなぁと呟いて、柔らかい表情で笑った。

「うちも猫飼ってんだけどさ、外の世界に出たら絶対生きてけないと思う」
「猫飼ってるんだ。なんて種類?」
「スコティッシュフォールド、わかる?」
葵は頭の中に何種類かの猫を思い浮かべてみた。
「耳が折れてて足短い猫?」
「そう、それ。うちの子は折れ耳じゃないけどね」
そう言いながら、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して、猫の写真を見せてくれた。
「え、可愛い。大瀬良君がこんなかわいい猫飼ってるの、なんか意外」

猫の話をしている間にいくつかのエスカレーターを下り、自動ドアをくぐり抜けて、隣の建物のターミナルまで着いた。
到着して乗船券を買いに行くと、朔はすぐ側のベンチに荷物を置いて、腰掛けた。
ベンチに座っている朔は、宣言どおりリュックの中から買ったばかりの漫画本を取り出し、包まれていたフィルムを丁寧に剥がしてページを開いた。
隣の席に座るのもなんだか違う気がして、葵はひとつ席を開けて、そこへ腰掛けた。

朔は本当に漫画を読んでいるだけだった。
黙ってパラパラとページをめくる姿を、ちらりと見てみた。
けれど、特に代わり映えも無いし、なんだか盗み見をしているようで悪い気がして見るのを止めた。

不思議と、心地の良い時間だった。
このターミナルで船を待つのは初めてじゃないし、一人でいても寂しさや不安は無い。
それでも、誰かが側にいるだけで、何となく安心する。
夕方を過ぎた時間なのに、待合室には人影がほとんどなかった。

何か話さなきゃ、と思わなくてよかった。
ただ時折、紙をめくる音だけが静かな待合室に響いていた。

しばらくすると、館内放送が入り、まもなく乗船時間であることを告げた。
館内放送を聞きながら、朔はパタン、と漫画本を閉じた。

「スマホで読まんのやね、漫画」
「スマホでも読むけどね、とっておきのは紙で読みたい派なんだよ」
「へぇ…それ面白いの?」
「めっちゃ面白い。読んだほうが良いよ、俺全巻持っとるから今度貸してやるよ」
そう言うと、朔は嬉しそうに笑った。

両足の間に置いた重そうなリュックの中に、大事そうに漫画本を仕舞う姿を隣で見ていた。
そして、屈んでいる朔の背中にむかって「ありがとね」とつぶやいた。
「…あー、でも一気に持ってくのは重いから五冊ずつな」
「ちがうよ。それもだけど、船、一緒に待ってくれてありがと」
あぁ、とつぶやいて、朔は首のあたりを掻いた。
「それじゃ、そろそろ行くね」
「うん、気をつけて」
ベンチから立ち上がると、葵は「乗船はこちら」と矢印で示された自動ドアの方へ向かった。

「…補習、来るんよな?」
背中の方から声がして、振り返った。
「うん、行く。その頃にはおばあちゃん退院してるし」
「じゃ、その時にもってくわ、漫画」
朔は顔をくしゃっとさせて、大きく手を振ってくれた。

高校生になってから、いや、中学生の頃にもそんな満面の笑顔は見たことがなかったと思う。
葵は右手を小さく上げて手を振り返した。