「こんにちは…」
そっと引き戸を開き、消毒液の匂いが漂う部屋の中に足を踏み入れた。
四つ並んだベッドのうち、窓際の一番奥に恵子の姿があった。
「あら、葵ちゃん?」
昼下がりの病室では、食事を終えた患者たちが微睡んだり、本を読んだりしていた。
外の世界よりも、幾分ゆったりとした時間が流れているようだった。
恵子はベッドの背を起こして、ソファに足を伸ばして座るような格好で、雑誌を読んでいた。
墓地から急いで家へ戻ると、なんとか船の時間に間に合いそうだった。
このまま病院へ行ってみようと思い、港へ向かったのだった。
ちょうど停泊していた船に乗り込み、出航してから膝の上のバッグを開いた。
慌てていたせいで、バッグには買った歯磨き粉が入ったままだった。
船の中で、歯みがき粉と一緒に買ったドーナツをかじった。
「かたっ」
思わず声に出た。それから、少し笑えてきた。
久しぶりに食べたその味は、やっぱり美味しかった。
突然の孫娘の来訪に、恵子は驚きと喜びを隠せないようで、かけていた老眼鏡を外しながら同じ部屋の他の患者たちに「孫です」と紹介をしてくれた。
「あら、お孫さんがお見舞いに来てくれたとね。うらやましかね」
会釈をしながら部屋の奥まで行き、窓際にあるパイプ椅子を持ってベッドの側へと置いた。
「葵ちゃん、お母さんは?一人で来たとね?」
「うん、今日は一人。勝手に来ちゃった」
「そうね。葵ちゃん、ユキのお世話ありがとうね。引っかかれたりしとらんね」
「大丈夫。ユキ、勝手に外に出ていっちゃうけど、ちゃんと帰ってくるんやね。びっくりしちゃった」
「そうよ、漁協のとことかね。好きなごと散歩してさらいて、あの子、お腹が空いたらしれっとご飯ば食べに帰ってくるとよ」
恵子は嬉しそうに話していた。
電話で話したときよりも呂律がしっかりしているように思えた。
「おばあちゃん、体調は大丈夫?」
「うん、大丈夫よ。心配かけてごめんね」
「痛いところとか、ないの?」
「そうね、ちょっとだけ手が痺れとるけど、そのくらいよ。なんともなか」
そう言うと、恵子は胸の前で、手を握って開いて、と繰り返して見せた。
「あの、これ。お見舞いにゼリー買ってきたんだけど、食べれるのかな?制限とかあるかどうか聞くの忘れてて…」
「なんでも食べれるよ、ありがとうね」
「あ、好きな時に食べてよ。私の分はいいけん」
「あら。なんか大人みたいやね」
少し照れくさく感じながら、電停の前の洋菓子店で買ったゼリーを、ベッドの脇の小さな冷蔵庫に入れた。
「ちょっとデイルームに行って喋ろうか」
恵子は部屋の人達に「お騒がせしてすみませんね」と声をかけながら、スリッパを履き、部屋の外へと葵を連れて出て、同じフロアの奥にあるデイルームへと向かった。
ゆっくりとした足取りではあったが、背筋は伸び、危なげなく歩いていた。
いつもの祖母と変わらない姿に、ほっとした。
病棟の奥に位置しているデイルームは、北側の壁の殆どを大きな窓が占めていて、外の明かりがよく入る明るい空間だった。
壁側には大きなテレビが置いてあり、周りのソファには入院患者のような高齢者たちが腰掛けてくつろいだ様子でテレビを眺めていた。
恵子は自販機の近くの席に座り、手に握っていた財布から千円札を出して、お茶を買うよう頼んできた。
「葵ちゃんは好きなのば飲まんね」
自販機のボタンを押して、お茶とレモン味の炭酸飲料を買った。
ソファに腰掛けてペットボトルの蓋をひねり、一口飲んで小さく息を吐いた。
「今日はどうしたとね、一人で来るなんてびっくりしたよ」
「うん、おばあちゃんの顔見たくなって」
「そうね」
恵子は嬉しそうに笑った。
「…それだけじゃ無かやろ、何かあったとね」
なんもないよ、と言おうとして口を開き、少し考えて一度口を閉じた。
「今日ね、おじいちゃんのお墓参りに行ってきた」
すると、虚を突かれたように恵子は目を大きく開いた。
「一人で行ってきたとね?場所わかったと?」
「うん、地図のアプリで道案内してもらった。ちょっと迷ったけどちゃんと行けたよ」
スマホを見せながら少し得意気に、そう言った。
「そうね、ようわからんけどすごかねぇ…おじいちゃんも喜んだやろうね」
「へへ、どうかな」
「喜んどるさ、おじいちゃんはね、葵ちゃんの事がかわゆうしてたまらんかったけんね」
祖母は嬉しそうに、懐かしむように話した。
「…おじいちゃん、可愛がってくれとったんやね」
「そうよ。おじいちゃんはあんまり喋らん人やったけどね、葵はかわいかなぁ、ってよう言うとったよ」
「へぇ…」
手元のペットボトルに目を落とした。
「なんかさ、私ね…本当はおじいちゃんの事あんまり覚えてなかったんよね」
こんな事をいったら、おばあちゃんは悲しむだろうか。
「うん…おじいちゃん死んじゃった時、葵ちゃんまだ小さかったけんね」
「まぁ、そうなんだけどさ。でもね、おばあちゃんの家に行って、畑とか、お墓とか行ってみたらね、ちょっとだけおじいちゃんの事思い出したの。ユキのこと撫でてた姿とか、畑仕事してた所とか」
恵子も晃の事を思い出すように、優しい表情で視線を落としたまま、頷いていた。
「…もっと一緒にいたかったな、って。おじいちゃんの事、もっと覚えておきたかったな、って」
窓の外には白い雲が流れていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
ふと恵子を見ると、その横顔は、葵の知らない遠い昔を眺めているようにも見えた。
「あのさ、おばあちゃん。畑なんだけど、もう無理しなくてもいいんじゃない?」
恵子はゆっくりとこちらを向いた。
「ちょっとしか手伝ってないけどさ…大変じゃん、色々。仕事ってわけじゃないんだし…」
「ありがとね。でもね、無理してまでやろうとは思っとらんとよ」
「…おじいちゃんが大事にしとったから、やめられないの?」
少し首を傾けて、小さく笑った。
「不思議なもんでね、土を触っとるとね、季節がわかるとよ」
「…季節?」
「そう。気にするようになる、っていうとかな。もうすぐ植えどきやね、とか、そろそろ花の咲く頃やね、とかね。去年はよく出来たとに、今年は駄目って時もあるし、途中で枯れてしまうこともあるけどね。そういうのと一緒に過ごしとるとね、生きとるなぁ、って思うとよ」
わかるような、わからないような気持ちだった。
葵が何も言わずにいるのを見て、恵子はまた、小さく微笑んだ。
「おばあちゃんが好きでやっとる、ってことさ。出来んごとなったら、その時はやめるよ」
「…そっか」
「畑に命取られたら、そいこそおじいちゃんに怒られるさ」
そう言って今度はケラケラと笑った。
「…ね、おばあちゃんとおじいちゃんって、何で結婚したの?出会いは?」
「出会いって…お見合いさ」
お見合い、という言葉は久しく聞いていなかった。
なんとも奥ゆかしい響きだ。
「おばあちゃんの頃はね、若か娘がおれば、自然と縁談の話が来よったとよ。縁談話が来たら、よっぽどなことが無い限り結婚するとが当たり前やったけんね」
そうなんだ、とつぶやくと、おばあちゃんは頷いた。
「ね、おばあちゃんはさ、おじいちゃんの事、好きだった?」
唐突な質問に、恵子は目を丸くして、そして笑い出した。
「好きとか嫌いとかっていうかね、なんていうか…家族やけんね。一緒におるとが当たり前っていうか、ほっとするっていうかね」
「ふぅん…」
少し照れくさそうに、微笑みながら話し始めた。
「そうやね…居心地のよか人やったよ、葵ちゃんのおじいちゃんは」
「へぇ、ラブラブだったんだ」
「そうやね、おじいちゃん、イケメンやったし」
遺影の晃の顔を思い浮かべた。
渋みのある端正な顔立ちをしていた。
「確かに、イケメンだよね。おばあちゃんやるねぇ」
冗談めかして言いながら、恵子は嬉しそうに笑った。
そっと引き戸を開き、消毒液の匂いが漂う部屋の中に足を踏み入れた。
四つ並んだベッドのうち、窓際の一番奥に恵子の姿があった。
「あら、葵ちゃん?」
昼下がりの病室では、食事を終えた患者たちが微睡んだり、本を読んだりしていた。
外の世界よりも、幾分ゆったりとした時間が流れているようだった。
恵子はベッドの背を起こして、ソファに足を伸ばして座るような格好で、雑誌を読んでいた。
墓地から急いで家へ戻ると、なんとか船の時間に間に合いそうだった。
このまま病院へ行ってみようと思い、港へ向かったのだった。
ちょうど停泊していた船に乗り込み、出航してから膝の上のバッグを開いた。
慌てていたせいで、バッグには買った歯磨き粉が入ったままだった。
船の中で、歯みがき粉と一緒に買ったドーナツをかじった。
「かたっ」
思わず声に出た。それから、少し笑えてきた。
久しぶりに食べたその味は、やっぱり美味しかった。
突然の孫娘の来訪に、恵子は驚きと喜びを隠せないようで、かけていた老眼鏡を外しながら同じ部屋の他の患者たちに「孫です」と紹介をしてくれた。
「あら、お孫さんがお見舞いに来てくれたとね。うらやましかね」
会釈をしながら部屋の奥まで行き、窓際にあるパイプ椅子を持ってベッドの側へと置いた。
「葵ちゃん、お母さんは?一人で来たとね?」
「うん、今日は一人。勝手に来ちゃった」
「そうね。葵ちゃん、ユキのお世話ありがとうね。引っかかれたりしとらんね」
「大丈夫。ユキ、勝手に外に出ていっちゃうけど、ちゃんと帰ってくるんやね。びっくりしちゃった」
「そうよ、漁協のとことかね。好きなごと散歩してさらいて、あの子、お腹が空いたらしれっとご飯ば食べに帰ってくるとよ」
恵子は嬉しそうに話していた。
電話で話したときよりも呂律がしっかりしているように思えた。
「おばあちゃん、体調は大丈夫?」
「うん、大丈夫よ。心配かけてごめんね」
「痛いところとか、ないの?」
「そうね、ちょっとだけ手が痺れとるけど、そのくらいよ。なんともなか」
そう言うと、恵子は胸の前で、手を握って開いて、と繰り返して見せた。
「あの、これ。お見舞いにゼリー買ってきたんだけど、食べれるのかな?制限とかあるかどうか聞くの忘れてて…」
「なんでも食べれるよ、ありがとうね」
「あ、好きな時に食べてよ。私の分はいいけん」
「あら。なんか大人みたいやね」
少し照れくさく感じながら、電停の前の洋菓子店で買ったゼリーを、ベッドの脇の小さな冷蔵庫に入れた。
「ちょっとデイルームに行って喋ろうか」
恵子は部屋の人達に「お騒がせしてすみませんね」と声をかけながら、スリッパを履き、部屋の外へと葵を連れて出て、同じフロアの奥にあるデイルームへと向かった。
ゆっくりとした足取りではあったが、背筋は伸び、危なげなく歩いていた。
いつもの祖母と変わらない姿に、ほっとした。
病棟の奥に位置しているデイルームは、北側の壁の殆どを大きな窓が占めていて、外の明かりがよく入る明るい空間だった。
壁側には大きなテレビが置いてあり、周りのソファには入院患者のような高齢者たちが腰掛けてくつろいだ様子でテレビを眺めていた。
恵子は自販機の近くの席に座り、手に握っていた財布から千円札を出して、お茶を買うよう頼んできた。
「葵ちゃんは好きなのば飲まんね」
自販機のボタンを押して、お茶とレモン味の炭酸飲料を買った。
ソファに腰掛けてペットボトルの蓋をひねり、一口飲んで小さく息を吐いた。
「今日はどうしたとね、一人で来るなんてびっくりしたよ」
「うん、おばあちゃんの顔見たくなって」
「そうね」
恵子は嬉しそうに笑った。
「…それだけじゃ無かやろ、何かあったとね」
なんもないよ、と言おうとして口を開き、少し考えて一度口を閉じた。
「今日ね、おじいちゃんのお墓参りに行ってきた」
すると、虚を突かれたように恵子は目を大きく開いた。
「一人で行ってきたとね?場所わかったと?」
「うん、地図のアプリで道案内してもらった。ちょっと迷ったけどちゃんと行けたよ」
スマホを見せながら少し得意気に、そう言った。
「そうね、ようわからんけどすごかねぇ…おじいちゃんも喜んだやろうね」
「へへ、どうかな」
「喜んどるさ、おじいちゃんはね、葵ちゃんの事がかわゆうしてたまらんかったけんね」
祖母は嬉しそうに、懐かしむように話した。
「…おじいちゃん、可愛がってくれとったんやね」
「そうよ。おじいちゃんはあんまり喋らん人やったけどね、葵はかわいかなぁ、ってよう言うとったよ」
「へぇ…」
手元のペットボトルに目を落とした。
「なんかさ、私ね…本当はおじいちゃんの事あんまり覚えてなかったんよね」
こんな事をいったら、おばあちゃんは悲しむだろうか。
「うん…おじいちゃん死んじゃった時、葵ちゃんまだ小さかったけんね」
「まぁ、そうなんだけどさ。でもね、おばあちゃんの家に行って、畑とか、お墓とか行ってみたらね、ちょっとだけおじいちゃんの事思い出したの。ユキのこと撫でてた姿とか、畑仕事してた所とか」
恵子も晃の事を思い出すように、優しい表情で視線を落としたまま、頷いていた。
「…もっと一緒にいたかったな、って。おじいちゃんの事、もっと覚えておきたかったな、って」
窓の外には白い雲が流れていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
ふと恵子を見ると、その横顔は、葵の知らない遠い昔を眺めているようにも見えた。
「あのさ、おばあちゃん。畑なんだけど、もう無理しなくてもいいんじゃない?」
恵子はゆっくりとこちらを向いた。
「ちょっとしか手伝ってないけどさ…大変じゃん、色々。仕事ってわけじゃないんだし…」
「ありがとね。でもね、無理してまでやろうとは思っとらんとよ」
「…おじいちゃんが大事にしとったから、やめられないの?」
少し首を傾けて、小さく笑った。
「不思議なもんでね、土を触っとるとね、季節がわかるとよ」
「…季節?」
「そう。気にするようになる、っていうとかな。もうすぐ植えどきやね、とか、そろそろ花の咲く頃やね、とかね。去年はよく出来たとに、今年は駄目って時もあるし、途中で枯れてしまうこともあるけどね。そういうのと一緒に過ごしとるとね、生きとるなぁ、って思うとよ」
わかるような、わからないような気持ちだった。
葵が何も言わずにいるのを見て、恵子はまた、小さく微笑んだ。
「おばあちゃんが好きでやっとる、ってことさ。出来んごとなったら、その時はやめるよ」
「…そっか」
「畑に命取られたら、そいこそおじいちゃんに怒られるさ」
そう言って今度はケラケラと笑った。
「…ね、おばあちゃんとおじいちゃんって、何で結婚したの?出会いは?」
「出会いって…お見合いさ」
お見合い、という言葉は久しく聞いていなかった。
なんとも奥ゆかしい響きだ。
「おばあちゃんの頃はね、若か娘がおれば、自然と縁談の話が来よったとよ。縁談話が来たら、よっぽどなことが無い限り結婚するとが当たり前やったけんね」
そうなんだ、とつぶやくと、おばあちゃんは頷いた。
「ね、おばあちゃんはさ、おじいちゃんの事、好きだった?」
唐突な質問に、恵子は目を丸くして、そして笑い出した。
「好きとか嫌いとかっていうかね、なんていうか…家族やけんね。一緒におるとが当たり前っていうか、ほっとするっていうかね」
「ふぅん…」
少し照れくさそうに、微笑みながら話し始めた。
「そうやね…居心地のよか人やったよ、葵ちゃんのおじいちゃんは」
「へぇ、ラブラブだったんだ」
「そうやね、おじいちゃん、イケメンやったし」
遺影の晃の顔を思い浮かべた。
渋みのある端正な顔立ちをしていた。
「確かに、イケメンだよね。おばあちゃんやるねぇ」
冗談めかして言いながら、恵子は嬉しそうに笑った。
