ひまわりと君がいた夏

 翌朝はよく晴れていた。
少し起きるのが遅かったかもしれない。

太陽はすっかり高く昇っていて、庭には影になる場所がほとんどなかった。
燦々と照りつける夏の日差しに早くも心が折れてしまいそうだったが、物置に置いてあったつばの広い麦わら帽子を頭に乗せて、なんとか外へ出た。

庭は、そう広くない。
縁側から降りた場所にある小さな花壇と、その周辺に生えている草をなんとかすれば今日は一旦任務完了と言ったところだろうか。

出掛けに買った真新しい軍手をはめてしゃがみこんだ。
草をつかみ、根から引き抜こうとするが、思いの外強く生えていて、力を入れるとブチッとちぎれた。

一口に雑草と言っても、様々な種類の草が生えている。
細長い葉や、ふさふさとした穂のようなものがついた草、咲き終わったたんぽぽの葉は土にこびり付くように生えていて、抜き取るのには難儀した。
千切れた草の断面からは、濃い緑の匂いがした。


こんな風に、決められた区切りがない時間を過ごすのって久しぶりだな、と葵は思った。

決まった時間に朝起きて、朝食をとって、家を出てバスに乗る。
学校に着けば、あとは時間割のとおりに一日が進んでいく。
授業にも休み時間も、始まりと終わりが決まっている。
帰宅後は予習に追われて、気がつけば一日が終わって、また、次の朝を迎える。

進学校でのそんな日々が嫌だったわけではない。
この先へ進むために必要なことだと思っていたし、そうやって毎日を過ごすのは自然なことだった。

ただ草を抜いているだけなのに、普段は考えもしないことが、ぽつぽつと頭に浮かんできた。


「…あぁいうタイプは立ち止まる時間が必要だから、焦るなって言っとけ、ってさ」

不意に朔の声が聞こえたような気がした。


「なんかさ、本当やること多すぎよな」
そう言っていたのは、夏休み直前の帰り道の朔だった。

松尾商店を出て石段をひたすら降りていく途中で、そう言っていた。
「毎日課題はみっちりあるし、夏休みって言っても普通に補習も部活もあるし」
「補習とか言っとるけどほとんど毎日あるし、普通に授業だよね」
「本当、それな。まぁ良いけどさ、部活も好きでやっとるし。けど、なんかもう、ぎゅうぎゅう詰めでしんどいわ」
紙コップの中の砕けた氷をしゃりしゃりとストローでほぐす音と、革靴で石段を踏む音が響いていた。
「…でもさ、やること決まっとる方が私は楽なんよね」
「やりたくないことでも?」
「うん。むしろギチギチに決めてもらってる方がちょっと安心する」
朔は目を丸くして黙ってこちらをみた。
「余計なこと考えんで済む方が楽っていうか。課題があったほうが楽っていう感じしない?」
「あぁ…なるほどね。なんか川口っぽいかも」

川口っぽい、って何だよ。

きっと肯定的ではなかったその言葉を思い出して少し苛立った。
目の前の草を力を入れて掴んで、一気に引き抜いた。
今度は根が切れることもなく、すぽんと気持ちよく抜けた。


音楽を聞くわけでも、ラジオを聞くわけでもなく、ただ黙々と草を抜く。
悪くない時間だと思った。
普段なら考えないようなことまで、勝手に頭に浮かんでくるのも、ちょっと愉しい。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。

進路希望を白紙で出したのは、反抗でも何かの意思表示でもない。
本当に、どうしたらいいかわからなくなっただけだった。

ずっと、誰かが決めてくれた順路を走ってきた。
それなのに突然、目の前に分かれた道が現れて、ここから先は自分の好きな道へ行きなさいと言われて。

迷わず道を選べる同級生も居る。
なんとなく、人の多い方へ進む人もいる。

自分もそうやって、どれか一つを選べばいい。
それらしい顔をして、これが自分の道だと言ってしまえばいい。
あとはそれを信じて、駆け抜ければいい。

そう思ったら、急に怖くなった。
思わず立ち止まったら、もう足が前に動かなくなってしまった。

草を掴んだまま、手が止まった。

…あぁいうタイプってつまり、そういうことか。

それっぽい選択肢を見つけて、自分の答えみたいな顔をしていられるタイプ。
それで周りが納得すれば、いつの間にか自分でもその気になってしまう。

じゃ、それを全部剥がしたら。
自分には何が残るんだろう。

握っていた手を、ゆっくりと開いた。

ーー中身がないのかもしれないな。

そう考えると、自分というものがどうにも掴めない、この心許なさにも説明がつく気がした。


そういえばあの日、先生は妙なことを聞いてきた。

「もしかして、何かやりたいことがあるのか?」

白紙の進路希望調査票を出した上に、見え透いた嘘をついたあの日。
気まずい沈黙が流れる進路指導室で、前原教諭はそう尋ねてきた。
へっ、と間抜けな返事をした記憶がある。

「例えば、芸術の道だったり、何ていうか、うちの学校の生徒が行かなさそうな進路っていうのかな。そういう方向でやりたいことがあったりするのか?」

的はずれな問いかけだと思った。
残念ながら私にはそんな大きな志は無い。
先生からすれば、何か人には言いづらい夢でもない限り、この時期に白紙で出す理由が思いつかなかったのかもしれない。

「いや、そういうわけじゃないですけど」
否定しながら、それはそれでさみしいというか、情けないなと感じた。
「けど、なに?」
「えっと…」

担任教師の想像が及ばないくらいに、私は自分という物を持っていなくて、好きな事も興味がある事もわかっていないだけだった。
だけど、高校2年の夏に、今更そんな事を言ってはいけない気がした。
そんな所で立ち止まっていることを知られるのがひどく恥ずかしくて、それ以上は何も言えなかった。

「…なるほどな。うん、そうか…」
前原教諭は顔の前で手を組み、顎を乗せて暫く何かを考えているようだった。
胸の前に立てかけるようにして持っていたファイルをパラパラとめくり、おそらく私のページを開くと暫く視線を落としていた。
そこに何が書いてあるのか気になったけれど、きっと見た所であまり気持ちの良いものでは無い。
そんな気がして、葵は視線を窓の外へと向けた。
眼の前の担任教師は、ファイルを閉じて、うん、と呟いた。
「進路希望調査は夏休み明けで良いから。せっかくの夏休みだから、だらっと過ごしな」



急に、朔から聞いた先生の言葉の意味が腑に落ちた気がした。
どうやら、天然なのかおしゃれパーマなのかわからない髪型をした中堅教師は、案外私を見抜いているようだ。
なんだか少し悔しいような。
それなのに、不思議と肩の力が抜けた。