ひまわりと君がいた夏

風呂上がりにスマートフォンを見ると、またもや着信が入っていた。

お母さん、おばあちゃん、お母さん。

葵は濡れた髪の毛にタオルを被せたまま、着信履歴を眺めた。
とりあえず、「おばあちゃん」の表示をタップした。

「はぁい」
数回コール音が鳴ったあと、少し間延びした声が聞こえた。

「おばあちゃん?」
「あら、葵ちゃんね」
「うん、ごめんねお風呂はいっとった。無事に着いたよ」
「そうね。ユキはちゃんとおったね?」
「聞いてよ。家の中にいなくて探し回ったら、教会の所まで逃げてってさ。もうびっくりしたよ」

それから暫く、とりとめのない話をした。

昔から、恵子とはなんだか話がしやすかった。
話を遮られることも、否定されることもない。
どんな話でも、うんうん、と言って聞いてくれる。

「ユキも久しぶりに葵ちゃんと会えて嬉しかやろうね」
「どうかな、そうでもなさそうけど」
「そんなことなかさ。葵ちゃんはユキの名付け親やけんね」
「え、そうだっけ?」
「そうよ。覚えとらんね、あの子迷い猫で用水路の所で鳴いとったとよ。葵ちゃんが雪みたいに白くてかわいいってユキって呼ぶようになって、それからユキになったとよ」

そうだったかな。

居間の座布団の上で丸くなって眠っている猫をチラリと見た。
電話を切った後、頭に乗せたタオルで髪の毛を拭く手が止まった。
そう言われてみれば。
ぼんやりと記憶が蘇ってきた。
タオルに包まれた、小さくてやせっぽちの子猫。
今よりも白い部分が多くて、ほとんど白猫みたいだった。


しとしとと雨が降り続いていた日の午後だった。
あめふり散歩、とはしゃぎながら、傘をさしてカタツムリを探しに行っていた。
あの日もヨウと一緒だった。
買ってもらったばかりの長靴を履いて、水溜りを見つけては飛び込んでちゃぷちゃぷと足を鳴らし、水しぶきを飛ばして楽しんだ。

大きく茂った紫陽花の葉の上を這うカタツムリを見つけ、長い触覚と短い触覚をピクピクと動かしながらゆっくりと動く不思議な生き物を、息を止めるようにしてじっと見つめていた。
すると、どこからか、雨音にまぎれて消えてしまいそうな、か細い声が聞こえてきた。
幼い葵は、その声が何なのかわからず、少しドキドキしながら、耳を澄ませて、声のする方へと近づいた。

「みー」

小さな鳴き声は用水路の中から聞こえていた。
溝蓋が途切れた所から暗渠を覗き込むと、水かさが増した用水路の隅で、青い小さな瞳がこちらを向いた。
はっとして傘を落とした。
傘はひっくり返り、持ち手が空を指したまま道路に転がった。
もう一度そっと水路を覗くと、汚れた子猫が体を震わせながら小さく鳴いていた。

「葵ちゃん、何しとるの」

頭の上の方から大きな声がして、びっくりして振り返ると、そこには葵よりも更に驚き、血相を変えた顔をした恵子の姿があった。
小さな孫娘が傘もささずに、雨に濡れて用水路を覗き込んでいるのだ。

「危ないよ。こんな所で何しとるとね。びしょ濡れたい」
「猫ちゃんがおるの」
「えっ?猫?」
用水路から心許なげに、みい、と小さな声が聞こえた。
「あら、お母さん猫とはぐれちゃったとかな」
「猫ちゃんひとりぼっちなのかな」
「どうやろねぇ。ひょっとしたら、お母さんがお迎えに来るとば待っとるのかもしれないよ」
葵はもう一度、用水路に頭を突っ込むようにして中を覗き込んだ。
「ちょっと、危なかよ。ほら、こんなに濡れて…風邪引いちゃうけんお家に帰ろうね」


そう言って、抱きかかえられるようにしてその場から引き離された。
祖母の家に着いてからも、用水路の子猫のことが頭から離れなかった。

着替えをさせてもらい、頭にかけたタオルの裾を握って頬の所で引き寄せた。
洗いたての石鹸の様な、いい香りがした。


雨が降り続く窓の外を見ながら考えていた。
あの猫は、母猫とはぐれてしまったのだろうか。
もし、そうだとしたら、あの子はあんな暗い場所で一人で鳴き続けるのだろうか。
雨に濡れて、冷たくて淋しくて、心細いんじゃないだろうか。

だって、ひとりぼっちは、寂しい。

じわっと涙が出てきた。
葵は台所にいるおばあちゃんに気づかれないよう、静かに鼻をすすった。


外の雨はまだ止む気配がなかった。
すると、玄関の戸が開く音がした。
祖父の晃が帰ってきたのだ。
台所から恵子が「おかえりなさい」と声をかけ、「あら」と驚いたような声が続いた。
なんだろう、と不思議に思い、葵も玄関へと駆け寄った。
「あっ」
晃の腕の中にはタオルにくるまれた小さな猫がいた。


小さな土鍋の中で薄く切られた大根とにんじんがキビナゴと一緒に踊るようにぐつぐつと煮立てられていた。
出汁のいい香りが部屋に広がっていて、晃がそれを小皿に取ってこちらへ渡してくれた。
無口な祖父はちょっと怖かった。
けれど、あぐらをかいた膝の中に、タオルでそっとくるんだ小さな猫を大事に温めるようにしている姿を見て、本当は怖い人ではないのかも、と思った。
みぃ、と鳴く子猫に「あんたにはまだ早か」と言いながら自分の口にキビナゴを運んでいる。
子猫の口元には、温めたミルクを小さなスプーンに乗せて少しずつ運んでいた。
その日から、ユキは祖父母の家に住まうようになった。


そっと仏壇の方へ振り返り、晃の遺影に目を向けた。
相変わらず笑顔はないが、静かな優しさを思い出した。

晃は、葵が小学生の頃に突然亡くなった。
クモ膜下出血、という聞き慣れない言葉だけを妙に覚えている。
父が泣いているのを見たのは、おそらくあの時が初めてだった。


あの頃の葵は、晃との思い出がほとんど無いと思っていた。
だから突然の別れも、寂しくはあったけれど、自分の世界が変わってしまう程の大きな出来事ではないと思っていた。

それでも、葬儀の日のことは覚えている。
たくさんの大人が泣いていた。

人が亡くなるということ。
命が消えるということが、ただならぬことなのだと肌で感じていた。
得体のしれない喪失感に呑まれてしまいそうで、その場にじっと座っているのがやっとだった。

「…覚えてなかっただけだったんだ」

雨の日。
タオルにくるまれた小さな猫を、膝の上で大事そうに温めていた祖父の大きな手。


あの時私はちゃんと、悲しかったんだ。

遺影の祖父を見て、そんな事を思った。