恵子の家に戻ると、居間のテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが震えていた。
窓も開け放ったまま出てきてしまっていたことに気がつき、少し慌てたが、家に誰かが入ってきた形跡はない。
スマートフォンに駆け寄り、画面を見ると母からの着信だった。
「もしもし」
「葵?無事についたね?」
「うん、着いたよ。」
「着いたら連絡ちょうだいって言ったやろ。何回か電話したとに出らんけん、何かあったかと思ったとよ」
「ごめん。ユキが外に出ていっちゃったけん追いかけとった」
開け放たれたままの窓から庭の方に目を向けると、ヨウが腕の中の三毛猫を縁側に下ろしているところだった。
ユキは気持ちよさそうにヨウの腕の中で目を閉じてしまったので、そのまま連れてきてもらうことにしたのだ。
きっと葵だけでは、自由気ままな猫をこの家に連れ帰る事も出来ない気がしたから安心した。
ひょっとすると、連れて帰る必要もないのかもしれないとも思ったが、世話を引き受けたからにはやりきらねばと妙な責任感が芽生えていたのだ。
本当はもっとヨウと話したいことがあったけれど、一旦は猫を連れ帰るということにしたのだ。
「どう、おばあちゃんの家は。お風呂とか台所とか、使い方はわかりそう?」
「そのくらいわかるよ、大丈夫だって」
「でも、お風呂の沸かし方とか、うちと違うよ。本当にわかる?」
そう言われて、初めて自分以外の家で、自分で風呂を沸かすのだということに気がついた。
「…ごめん、わかんない。お湯張りのボタンってどこ?」
電話の向こうから、ほらね、とでも言いたげな吐息が聞こえた。
「おばあちゃんの家は自動じゃないとよ。お風呂場の蛇口から直接入れると。赤いほうがお湯ね。ちゃんと見とかんと溢れるけんね」
なるほど、そうなのか。
風呂場を覗くと、深い浴槽の脇に赤と水色の印がついた蛇口があった。
「聞いといてよかった。ありがとう」
「素直でよろしい」
「台所のガスの元栓は閉めて来てないみたいだから、そのまま使えると思うよ。コンロはわかりそう?」
今度はさすがに、見る前に出来ると豪語するのを止めて、台所へと小走りで戻った。
自宅はIHだからガスコンロには馴染みが無い。
「…これ、押しながら回すんだっけ?」
「そう。一回やってごらん」
スマホを近くに置いて、つまみを押し込んで回す。
チッチッチと音がして、青い炎が灯った。
「おぉ、ついた。」
「よかった。あと、洗濯機もうちのと違うけんね。それと、お布団とシーツの場所と…」
「あー、お母さんありがとう。その辺は適当にやっとくよ。また使い方わかんなかったら電話する。ありがとうね」
まだ話したそうにしていた香織の電話を強引に切り上げた。
申し訳ないけど、今はお母さんと話すよりも大事な事があるんだーー
葵は台所の床に置いたままの買い物袋から、ペットボトルの麦茶を取り出した。
ぬるいままのボトルを持ち上げながら、ちゃんと冷蔵庫で冷やしておくべきだったと少し後悔した。
冷凍庫を開けてみると、氷ができていた。
よし、と少しほっとして縁側の方に視線を向けた。
ヨウは庭の花壇に水をまいていた。
戸棚からグラスを二つ取り出し、氷を入れて麦茶を注いだ。
胸が高鳴るのを感じた。
両手にグラスを持ったまま、ひと呼吸置いて縁側を見ると、ヨウは丸くなったユキのそばに腰掛けていた。
緊張している葵とは対照的に、ヨウはのんびりと寛いでいるようだった。
そんな後ろ姿を見て、嬉しいような照れくさいような、これまでに感じたことが無い類の思いが胸に込み上げてくるのを感じながら、小さくゆっくりと息を吐き、何事も無いような顔をして両手のグラスとともに、ヨウの隣に腰掛けた。
「これ、麦茶」
「いいの?ありがとう」
ヨウは何のためらいもなくグラスを受け取った。
氷がカラン、と鳴った。
「ごめん、お茶ちょっとぬるいかも」
「え、冷たいよ?」
「氷入れたから」
「うん、美味しいよ。ありがと」
そこで会話が途切れた。
葵も麦茶を一口飲んだ。
何か話さなければ、と思うのに、さっきからどうでもいい言葉しか出てこない。
ヨウはそんな葵には気づいていないように、縁側で足をぷらぷらと揺らしていた。
ーーもしまたヨウと会うことが出来たら、最初に謝ろう。
そう、ずっと前から決めていた。
だけど、実際に再会をしてみると、どう切り出して良いのかわからずに、困惑していた。
葵もグラスを口へ運んだ。
氷で冷えた麦茶が、喉を通り抜け、体に染み渡る。
ドキドキと高鳴っていた胸が少し落ち着いた気がした。
視線を空の方に向けると、日が傾きかけた空を、飛行機が横切っていた。
白い機体が通り過ぎた後には、糸のような飛行機雲が伸びていた。
伸びた先から空へと呑み込まれていく、細くてしなやかな雲ーー
あの日もそうだった。
空に浮かんでいた飛行機雲は、いつの間にか消えていた。
思い出すと、胸の奥がちくりと痛んだ。
窓も開け放ったまま出てきてしまっていたことに気がつき、少し慌てたが、家に誰かが入ってきた形跡はない。
スマートフォンに駆け寄り、画面を見ると母からの着信だった。
「もしもし」
「葵?無事についたね?」
「うん、着いたよ。」
「着いたら連絡ちょうだいって言ったやろ。何回か電話したとに出らんけん、何かあったかと思ったとよ」
「ごめん。ユキが外に出ていっちゃったけん追いかけとった」
開け放たれたままの窓から庭の方に目を向けると、ヨウが腕の中の三毛猫を縁側に下ろしているところだった。
ユキは気持ちよさそうにヨウの腕の中で目を閉じてしまったので、そのまま連れてきてもらうことにしたのだ。
きっと葵だけでは、自由気ままな猫をこの家に連れ帰る事も出来ない気がしたから安心した。
ひょっとすると、連れて帰る必要もないのかもしれないとも思ったが、世話を引き受けたからにはやりきらねばと妙な責任感が芽生えていたのだ。
本当はもっとヨウと話したいことがあったけれど、一旦は猫を連れ帰るということにしたのだ。
「どう、おばあちゃんの家は。お風呂とか台所とか、使い方はわかりそう?」
「そのくらいわかるよ、大丈夫だって」
「でも、お風呂の沸かし方とか、うちと違うよ。本当にわかる?」
そう言われて、初めて自分以外の家で、自分で風呂を沸かすのだということに気がついた。
「…ごめん、わかんない。お湯張りのボタンってどこ?」
電話の向こうから、ほらね、とでも言いたげな吐息が聞こえた。
「おばあちゃんの家は自動じゃないとよ。お風呂場の蛇口から直接入れると。赤いほうがお湯ね。ちゃんと見とかんと溢れるけんね」
なるほど、そうなのか。
風呂場を覗くと、深い浴槽の脇に赤と水色の印がついた蛇口があった。
「聞いといてよかった。ありがとう」
「素直でよろしい」
「台所のガスの元栓は閉めて来てないみたいだから、そのまま使えると思うよ。コンロはわかりそう?」
今度はさすがに、見る前に出来ると豪語するのを止めて、台所へと小走りで戻った。
自宅はIHだからガスコンロには馴染みが無い。
「…これ、押しながら回すんだっけ?」
「そう。一回やってごらん」
スマホを近くに置いて、つまみを押し込んで回す。
チッチッチと音がして、青い炎が灯った。
「おぉ、ついた。」
「よかった。あと、洗濯機もうちのと違うけんね。それと、お布団とシーツの場所と…」
「あー、お母さんありがとう。その辺は適当にやっとくよ。また使い方わかんなかったら電話する。ありがとうね」
まだ話したそうにしていた香織の電話を強引に切り上げた。
申し訳ないけど、今はお母さんと話すよりも大事な事があるんだーー
葵は台所の床に置いたままの買い物袋から、ペットボトルの麦茶を取り出した。
ぬるいままのボトルを持ち上げながら、ちゃんと冷蔵庫で冷やしておくべきだったと少し後悔した。
冷凍庫を開けてみると、氷ができていた。
よし、と少しほっとして縁側の方に視線を向けた。
ヨウは庭の花壇に水をまいていた。
戸棚からグラスを二つ取り出し、氷を入れて麦茶を注いだ。
胸が高鳴るのを感じた。
両手にグラスを持ったまま、ひと呼吸置いて縁側を見ると、ヨウは丸くなったユキのそばに腰掛けていた。
緊張している葵とは対照的に、ヨウはのんびりと寛いでいるようだった。
そんな後ろ姿を見て、嬉しいような照れくさいような、これまでに感じたことが無い類の思いが胸に込み上げてくるのを感じながら、小さくゆっくりと息を吐き、何事も無いような顔をして両手のグラスとともに、ヨウの隣に腰掛けた。
「これ、麦茶」
「いいの?ありがとう」
ヨウは何のためらいもなくグラスを受け取った。
氷がカラン、と鳴った。
「ごめん、お茶ちょっとぬるいかも」
「え、冷たいよ?」
「氷入れたから」
「うん、美味しいよ。ありがと」
そこで会話が途切れた。
葵も麦茶を一口飲んだ。
何か話さなければ、と思うのに、さっきからどうでもいい言葉しか出てこない。
ヨウはそんな葵には気づいていないように、縁側で足をぷらぷらと揺らしていた。
ーーもしまたヨウと会うことが出来たら、最初に謝ろう。
そう、ずっと前から決めていた。
だけど、実際に再会をしてみると、どう切り出して良いのかわからずに、困惑していた。
葵もグラスを口へ運んだ。
氷で冷えた麦茶が、喉を通り抜け、体に染み渡る。
ドキドキと高鳴っていた胸が少し落ち着いた気がした。
視線を空の方に向けると、日が傾きかけた空を、飛行機が横切っていた。
白い機体が通り過ぎた後には、糸のような飛行機雲が伸びていた。
伸びた先から空へと呑み込まれていく、細くてしなやかな雲ーー
あの日もそうだった。
空に浮かんでいた飛行機雲は、いつの間にか消えていた。
思い出すと、胸の奥がちくりと痛んだ。
