明日、君に会えたなら


 わたしはあの日から、より一層記憶を思い出したいという気持ちが強くなっていた。
 基本的に聞いたことは何でも答えてくれて、記憶を思い出す手助けをしてくれる彼だけど、二つだけ答えてくれないことがあった。
 それは、親についてと学校について。この二つだけは、聞いても絶対に曖昧にぼかされてしまう。
 凪くんによると、わたしの親は今仕事で忙しいらしい。少しでいいから会いに行きたいと言っても、記憶を戻すのが俺の役目だから、記憶が戻ってからと言われてしまった。学校は、記憶が戻ってない状態で行っても混乱してしまうからと言われて、行かせてくれなかった。
 記憶喪失前の友達や、先生に会えば少しでも記憶が戻るかも、と思っていたけれど、凪くんにそう止められてしまえば抵抗するわけにもいかない。だって、わたしが誰よりもお世話になっているのは凪くんだから。
 だけど、凪くんは混乱するからなんていう理由だけで、学校に行くことを止めているわけではないと薄々感じていた。
「ねぇ、凪くん? 学校に行きたい」
「は? だから、前言ったじゃん、斗亜の記憶が戻ってない状態で行っても楽しくないって」
 わたしの必死の提案も、即答で却下されてしまった。だけど、こっちも少しの覚悟でそういったわけではない。
「お願い、友達に会いたいとかそういう我儘は言わないから。少し学校を覗くだけでいいの。ダメ?」
 食い下がっていると、彼は考えるように目を瞑った。眉根を寄せて、どうするべきかを考えているのが分かった。
「はぁ、仕方ねぇな。ちょっとだけだぞ、本当に見るだけ。わかったか?」
「やった、ありがとう凪くん!」
 こうしてわたしは、次の月曜日の放課後にあたる時間帯に、学校に行くことになったのだった。

◇◇◇

 学校に着くと、今度はどこに行ったときよりも比べ物にならないくらいの懐かしさがこみ上げた。
「高校三年生って何階なの?」
「俺たちの学年?三階だよ」
 凪くんの案内をもとに、わたしは学校を巡っていった。普通教室、特別教室。どれもやはり懐かしさを感じる。そして三階で、高校三年生の各クラスの名簿を見た。
 わたしの扱いは休学になっているはずだが___。
「……凪くん」
「どうした、斗亜」
 彼の声は平坦だった。何も感情が乗っていない声が、逆に怖いと感じた。わたしが何を言いたいのかは分かっているようだ。
「なんで、なんで___わたしの名前がないの?」
 わたしは情けなく震える声で、凪くんに聞いた。名簿に、来栖斗亜という名前はどこにもなかった。記載忘れというよりも、元から存在しないかのような。
 だけど、凪くんはわたしを見て、悲しそうにふるふると首を横に振るだけで、何も答えてくれなかった。
「凪くんっ……! なにか知ってるんでしょう。教えて、なんでわたしは名簿にいないの? 記憶喪失したから、休学扱いになったんじゃないの?」
 最後のほうは、もはや悲痛な叫びになっていた。凪くんは絶対に理由を知っている。なぜかそういう確信があった。
 だけど、彼は悲しそうな、つらそうな顔で首を振るばかり。教えてくれる様子はない。
 もう一度、聞き直そうと思ったときだった。
「そういえばさ、今日事故についての講習会みたいなのあったじゃん?あれで、一年前に亡くなった来栖さんの話言われてたよね」
「え、ねー。本当に可哀想だよね、あの子。車に轢かれちゃったんでしょ」
 廊下をたまたま通り過ぎた二人の女子生徒の会話が、耳に入った。
 来栖さん。さっきの名簿を見た限り、来栖という名字はいなかった。ということは。
「私の、こと?」
 気づかないわけにはいかなかった。わたしは___車に轢かれて、一年前にすでに死んでいる。
 今まで私が記憶を失ったと思っていたのは?
 写真を凪くんが必死に見せようとしてくれなかったのは?
 店員さんに気づかれなかったのは?
 学校に私の席がなかったのは?
 全部___。
「……私が、死んでるから?」
 でも、なんでわたしは今ここにいるんだろう。わたしはいつまでここにいられるんだろう。
 急に自分がどんな存在かわからなくなって、怖くなった。
「……思い出したか」
 凪はわたしの近くで静かに立っていた。
「全部じゃないけど、少しだけ……凪くん、わたしはもうすでに死んでいたんだね」


「そうだよ。お前はもう、一年前に死んでいる」


◇◇◇

 帰ってから、凪くんに渡されたのは一つのアルバムだった。
「これ、見てみろ」
 受け取って、開いてみると、わたしと凪の写真がたくさん入っていた。クレープ屋で凪くんは写真を撮るのが趣味だと言っていたことを思い出す。
 小さいときのわたしたち、小学生のわたしたち、中学生のわたしたち。一つずつ最初から目で追うと、記憶がだんだんと戻っていく。
 そうだ、一年前のあの日、わたしは凪くんに___凪と会う約束をしていて、信号を渡ったら轢かれてしまったんだ。今なら鮮明に思い出せる。車の急ブレーキの音、周りの人がわたしに駆け寄ってくる声。
 あの日、わたしは凪に告白しようとしていたんだ。前日にメッセージで明日会いたいと伝えて、緊張する気持ちを胸に待ち合わせ場所に向かっていたら、車に轢かれた。そして、凪に告白できることなく死んでしまった。
 わたしがどうして現世に戻ってきたかはわからない。神様の気まぐれかもしれない。だけど、これはきっとチャンスだったんだと思う。わたしがもう一度告白するための、最初で最後のチャンス。
 凪の写真の日付は一年前で終わっていた。最後の写真はわたしと凪のツーショット。それ以降に写真はなくて、そのまま途切れている。
 そして、最後の写真の題名は___「明日、君に会えたなら」。
「その題名は、斗亜が死んでからつけた。あの日、お前が誕生日だったじゃん。前日に明日会おうって連絡が来て、俺は決めたんだ。___好きだと伝えようって」
 凪の頬に涙が伝っていた。死ぬ前も、小さい時以外に凪の涙を見るのは始めてだった。
 次に彼が言いたいことは自然にわかった。だけど、その明日は来なかった。わたしが、会いに行く前に死んでしまったから。
「だけど、お前来なかったんだよ。俺、何時間も待って、おかしいなって思った。だから、お前の家に行こうとしたら___救急車に運ばれる斗亜を見たんだ」
 彼は涙を流しながら、必死に言葉を紡ぐ。わたしも目に涙が溢れて、ぽろぽろと流れ落ちた。
「頭が真っ白になって、同時に真っ暗になった。生きる気力を失ってたときに、家に急にお前が現れたんだよ。俺、本気で頭おかしくなったのかと思った」
「それで今に至るんだね」
「……ああ。もしかしたら、お前とずっと一緒にいられるんじゃないかと思ったけど、無理そうだな」
 凪はわたしの姿を見て、何か覚悟を決めたような顔で言った。
 自分の体を見てみると、透け始めていた。どうやら、未練が解消されつつあるから、もう現世にはとどまれないらしい。
「凪」
 グッとわたしも覚悟を決めて、名前を呼ぶと、彼も顔をゆっくり上げた。今から言うことはわかっている、とでも言うように。その顔にもう悲しみはなかった。
「わたしは凪が好きだよ。死ぬ前も、死んだ後も。わたしは二度、凪に恋をしたんだ」
 まるで世界が止まってしまったような、そんな感覚。
 永遠にも感じられる沈黙で、凪ははーっと大きく息を吐いた。その顔は笑っているのに、目からは涙がこぼれ落ちていた。
「言うのが一年遅ぇよ。俺も斗亜のことが好きだよ。お前が死ぬ前も死んだ後もずーっとな」
 耐えきれなくなって、わたしは勢いよく凪に抱きついた。
 最初は驚いていた彼だったけれど、すぐに背中に腕を回して、痛いくらいの力で抱きしめてくれた。
「なあ、最後にクレープ屋にもう一回行こう。最初で最期の___デートしよう」
 

 約一ヶ月前に来たクレープ屋の様子は変わっていなかった。いつも通りの店員さんと、いつも通りのメニュー。
 もちろんわたしはキャラメルソースを注文した。凪はチョコソース。
「水は二つで。だろ?」
 凪はわたしの方を見て、笑った。
 わたしは彼にだけ見えるようで、他の人は見えなかったから、前は水をもらえなかったらしい。
 もうすでに死んでいたという真実がわかると、今までの不可解な違和感がすべて解決されていった。
「いただきます」
 最期の食事。それに最期のデート。
 悲しいことのはずなのに、わたしの心は広く晴れ渡っているように澄んでいた。もう未練が一つも残ってないからだろう。
「うまいか?」
「うん、美味しい。幸せ、本当に幸せだよ凪」
 わたしが食べる様子を食い入るように見つめていた凪も、ふっと表情を緩めて笑顔になった。
 だけど、時間は残酷でわたしの体はもう消えかかっていた。自分でも終りが近いことが分かっていた。
「もうちょっと凪といたかったけど……お別れかな」
「なぁ、斗亜」
 凪は真剣な目で消えかかっているわたしの目を見つめている。
「もう絶対に俺のこと忘れるなよ。俺もいつまでもお前のこと覚えてるから」
「うん、絶対忘れない。約束だよ」
 ほとんど感触がしなかったけれど、小指を縫い合わせて約束した。
 最後の一口を食べ終えたとき___まるでそこにいなかったように、斗亜の体は消えていた。


 ゆっくりと凪が顔を上げると、少しだけキャラメルの香りが残っていた。