クレープ屋に行ったあの日から、かなり経ったけれど、まだ記憶は戻らないまま。
だけど、着実に懐かしさを感じたり、感覚が覚えていたりと、記憶の尻尾は掴むことができていた。
「記憶戻んないかなー……」
最近の口癖はこれだ。
確かに記憶の鱗片は思い出せているけれど、それで終わり。思い出せない自分が不甲斐ないし、凪くんに迷惑をかけているのが申し訳なかった。
「お前さ、最近そればっか。そんな焦らずにゆっくり思い出していけばいいだろ」
「まぁ、そうなんだけどさ。早くいろいろ思い出したいなって。もどかしいっていうか」
はぁ、とため息をついた彼は何かを思いついたかのように、ガバッと横たわっていた身体を持ち上げた。
「じゃあさ、一旦記憶のことは忘れて、気分転換しねぇ?」
「え?気分転換?」
ニヤッといたずらっぽい顔を浮かべる彼は、それ以上のことは明かしてくれなかった。
◇◇◇
そうして連れ出されたわたしは、クレープ屋に行ったとき以来の外出となった。
クレープ屋に行ったときは、記憶を思い出す目的があった。だから、凪くんの家の近くを歩いたり、店に入ったりしたが、今回は本当に記憶のことは一旦忘れるらしい。なぜなら、凪くんとわたしは電車に乗って、少し離れた都市まで来たからだ。
「え、凪くんどこ行くの?」
「良いから黙ってついてこい。今日は一日俺に付き合え」
まず連れてこられたのは、お祭りだった。提灯が赤く辺りを染めていて、どこからか客引きの声が聞こえる。
「お祭り?前の記憶残ってないけど、楽しいってことはなんとなくわかるな」
「そうか。……ほら、こっち。手出せ」
彼に近づいて素直に手を出すと、ぎゅっと手を握られた。
え、とわたしは思わず顔を赤くしたけれど、わたし以上に凪くんの顔は真っ赤だった。顔を背けているけれど、赤くなった耳までは隠せていない。
「……お前、小せえから見失いそうだし」
そういう声は少しだけ震えていた。わたしもありがと、と小さい声で返した。
二人で歩き出すと、お祭りの喧騒に見が包まれる感じがした。ガヤガヤとそのうるさい音さえ、心地良い。
凪くんはわたしが足を止めるたび、食べたいものがあるか聞いて、買ってくれた。りんご飴、焼きそば、かき氷。どれも美味しくて、夢中で食べた。屋台を見るだけでも幸せで、楽しかった。
そんなわたしを、凪くんはずっと優しい顔で見守っててくれた。
大体の屋台を見終わった後。わたしと凪くんはその足で、近くにあった観覧車に訪れていた。本当に大きくて、壮大な観覧車。
もともとは大きな遊園地があったそうだが、近隣の開発でなくなってしまったらしい。だけど、地元の人の想いから観覧車だけ残ることになったと凪くんは言った。
乗り込むと、ぐわん、と少しだけ揺れた。わたしと凪くんは向い合せで座った。
「久しぶりだな、観覧車乗るの」
揺れる観覧車に少し驚きつつ、凪くんは下を見ながらそういった。
わたしも下を見てみたが、どんどん地面から離れて、高くなっていく観覧車が怖かった。
「高いの怖いな……」
「まじ?そうだ、お前高所苦手だったな」
記憶喪失前のわたしも高いところが苦手だったから、今こんなに怖い気持ちがあるんだと気づいた。
一番高いところにつくと、ぐわん、と大きく一回揺れて、わたしは椅子からバランスを崩して落ちそうになった。だけど、すぐに凪くんが受け止めてくれて、必然的に抱き合う形になってしまった。
「___っ」
互いの心音まで聞こえそうな距離。息が自然と止まる。
近くで見る凪くんは、破壊力抜群だった。夕日が中に差し込んで、優しく彼の顔を照らしていて、長いまつげが頬に影を作っている。
反射的に、ほぼ直感的に綺麗だと思った。そして同時に___好きだと、思った。
その気持ちを疑いもしなかった。まるでもとから、自分の中にあったように。優しく、わたしの心を灯した。
「っと……大丈夫か?」
彼が声をかけてくれるまで、自分が息を止めていたことに気づかなかった。そのくらい凪くんに見惚れていた。
「あ、え?だ、大丈夫……ありがとう」
そう答えたわたしに笑顔を見せてくれた彼だが、抱きしめる手の力は緩まない。てっきり、このまま離されるのだと思っていたわたしは面食らった。
「ちょ、凪くん?」
「もう少しこのままでもいいか?」
ぎゅっとそのまま少し痛いくらいの力で抱きしめられる。凪くんの顔は見えないけれど、体から伝わる心音はとても早い。
___あぁ、ダメだ。どうしようもなく凪くんが好きだ。
記憶喪失前のわたしが、彼のことをどう思っていたかは知らないけれど、それでも今のわたしは彼のことが大好きだ。
「……うん」
世界に二人だけしかいないような感覚。二人分の呼吸が混ざり合って、観覧車の中で溶けていく。
◇◇◇
観覧車から降りた後、わたしたちは肩を並べて、帰りの電車に座っていた。
「……なんか付き合ってるみたい、だね」
何気なく言った言葉に、彼は一瞬だけ無表情になった。だけど、すぐに口角を持ち上げた。
「何いってんの。俺ら幼馴染なんだから、よく二人で遊んでるし、一緒にいるけど。……お前が、記憶喪失する前も」
そっか、元からこういう感じで遊びに行ったり、手を繋いだりしてたんだと納得した。勝手に記憶喪失したわたしが意識していただけで、彼にとってはなんてことのない日常なのかもしれない。
それでも、好きだという気持ちを自覚してしまった。
これは本当に勘ではあるけれど、記憶喪失前のわたしも絶対に彼が好きだったと思う。そのくらい、凪くんは何もわからないわたしを照らしてくれる太陽のような存在だった。
「凪くん、明日もいろんな話してね」
わたしは、ただ軽く次の日の話をしただけだった。だけど、彼は予想以上に動揺して顔を歪めた。おかしい様子の凪くんに、わたしも思わず驚いて動きを止めた。
「凪くん?どうしたの?」
「……明日の話は、明日決めよう。絶対に来るとは限らないんだから」
静かで、感情が一つも乗っていない平坦な声だった。彼の異変を正確に感じ取って、わたしはおずおずと笑みを浮かべた。
「どうしちゃったの。なんでそんなこと言うの?明日は来るでしょ」
なんで、明日が来るかわからないなんて言うんだろう。明日は当たり前に来るもので、何をそんなに動揺しているのかがわからなかった。だけど、あまりにも切ない表情を見たら、冗談で言っているわけではないのも分かっていた。
「……俺の知り合いにさ。明日会おうって言って、もう二度と会えなくなっちゃったやつがいて。思わずそいつのことを思い出したんだ。悪い、取り乱して」
もう二度と会えなくなってしまった人。その言葉はあまりにも重くて、あまりにも信じられなかった。
自分のことを多くは語らない凪くんの心に触れてしまったようで、自分の無神経さに腹が立つ。
だけど、それは誰なのかな。こんなにもつらそうな顔をしているということは、きっと大切な人なんだろう。
「そう、なんだ。ごめん、わたしも無神経に聞いて」
「いや、別にいいよ。またいろんなとこ行こうな」
もう凪くんは、いつもの飄々とした優しい顔に戻っていて、さっきのような悲しげな顔はどこにもなかった。

