俺を嫌いな君へ。

 数学の意味不明な公式に、ほとんど意識を失いかけていた。

 力の抜けた手からシャーペンが転がる。ガクンと頭が滑って、左肘に押されたペンケースが床にぽわんと落ちた。
 ペンケースといっても、ダックスフントのぬいぐるみにファスナーがついているようなもので、ペンは二、三本しか入らない。
 だから、ぽわん。

 そのとき、ちょうど終業のチャイムが鳴った。

「おっと、終わりだ。今日はこのまま放課なー」

 お気に入りのペンケースを救出すべく、半分目を閉じたまま伸ばした手に、ダックスフントのもふっとした感触が押しつけられる。

「優里、こんなの使ってて勉強する気あるのか?」

 刺すような視線に、ハッとして意識を取り戻した。

 海渡くんは左手で俺の手の甲を掴んで、右手で拾ったペンケースを手のひらに乗せている。
 ダックスフントのお腹をサラッとなでて、海渡くんの骨張った手は離れていった。
 妙に色っぽい仕草に、男の俺ですらドキッとさせられる。

「あ、ありがとう、海渡くん」

「授業中、居眠りしすぎな」

「昔から数字見ると、なんでか眠くなってきちゃって」

 ははは、とごまかすように笑うとギロリと睨まれる。

 海渡くんも冬馬くんも授業は真面目に受けているし、もちろん成績もいい。将来はやりたいことがあるそうで、大学進学を目指している。
 寝てばかりいる俺のこと、呆れてるんだろうな。

「今の授業、分かったのか?」

「……いや〜、全然」

 素直に答える。
 俺の場合、素直に答えようが嘘をつこうが、海渡くんからの心象は変わらないと思う。ほとんど諦めに近いかもしれない。
 海渡くんはギリギリと歯をくいしばってから、また横目で俺を見た。

「それなら―――」

 トン、と肩に軽い衝撃があって、海渡くんの姿が遮られる。

「春山くん!春山くん!相談したいことがあるんだけど、来てもらっていい?」

「ねね、冬馬くんも一緒に!お願い!」

 三人の女子たちが、俺と海渡くんの机の間に立っていた。

「え〜、相談ってなに?」

 振り返った冬馬くんがため息をこぼす。

「この前も相談って言って、ただくっちゃべってただけじゃん」

「今日はほんと。文化祭のことだから!」

 文化祭のこととなると、もしかしなくてもコンテストのことだろう。クラスの出し物については、まだ話し合いも始まっていないし。一緒に出てほしいとか、そういうことかもしれない。

 俺はチラッと冬馬くんを見た。

「冬馬くん、行ったほうがいいんじゃない?」

 じゃないと、海渡くん連れて行かれちゃうよ。
 そう言いたかったけど、女子たちがいるし、関係を隠しておきたいんだろうからと思って、口を閉ざした。

「もう、しょうがないなぁ」

 冬馬くんの椅子が床を擦る。女子たちは待ってましたとばかりに、冬馬くんの腕を引っ張った。

 おーい、あんまり触ってやるなよ。あとで海渡くんが怖いから。

 その海渡くんも女子に肩を押されて、教室を出ていった。「優里!絶対待ってろよ!」という脅迫めいた言葉を残して。

 教室はいつもと変わらないざわめきに満たされる。
 帰り支度をする人、部活に向かう人。教室に残る人も三十分もするといなくなるから、たいてい一人ぽつんと待つことになる。
 だからといって先に帰ったりしたら、あとでなにを言われることやら。
 魔の数学の眠気がまだ残ってるし、冬馬くんと海渡くんは、きっとしばらく戻ってこないだろう。昼寝の時間ができたとポジティブに捉えることにして、一つあくびをする。

 さてと、机に両腕を投げ出したとき、ふいに肩を叩かれた。

「みーなみー!」

「ん?」

 振り返った先にいたのは、目をギラつかせた長澤だった。


 ✳✳✳


「こんなとこまで連れてきて、用ってなに?」

 視聴覚室の重たいドアを、慎重に閉めている長澤を振り返る。

 ここはいつもカーテンが閉まっていて、電気をつけてもどこか薄暗い。でっかいプロジェクタースクリーンがあるのに、運動会や合唱祭の思い出ムービーを流すときに使うくらいで、贅沢な部屋だなと思う。
 これで映画でも見れたらいいのに。

「南、今年はコンテストはどうするんだ?」

「俺は一応、のど自慢に出ようかなとは思ってるけど」

「そうか……」

 長澤は体の前で組んだ両手をもんだり、せわしなく組み替えている。目も泳いでいるし、いつもハキハキ話す長澤らしくない。
 上腕の筋肉がポコっと盛り上がってるのを見て、俺は無意識に上方の非常口マークを確認した。

「実は南におりいって頼みがあってだな」

「え、なに?」

 長澤が一歩前に出て、俺は一歩後ろに下がる。

 もう一歩、また一歩。

 俺の太ももの後ろに、長机の端が当たった。
 長澤の喉がゴクッと鳴る。

「俺と、カップルコンテストに出てくれないか?」

「……………は?」

 一瞬時間が止まってから、俺はどうにか声を絞り出した。

 長澤は頬を赤く染めて、頭の後ろに手を当てている。ワイシャツのボタンが引っ張られて、下に着ているTシャツの黒が見えた。

 カップルコンテストに誘われてるってことは……。

「えっと、長澤って、俺のこと……?」

「いや!違う違う!そうじゃなくて!」

「だよな。じゃあ、なんで?」

「実はだな……」

 コンテスト入賞時の点数については公表されていないけれど、長澤の調べによると、審査員特別賞にはまあまあの点数が与えられるらしい。
 そこで目をつけたのが、冬馬くんと海渡くんだったという。

 しかし、二人に打診してみたもののエントリーする気はなく、せめて美男美女コンテスト、と思ったがそれも断られたと。
 二人とも嫌がっていたのは知っているから、それは仕方ないだろう。無理強いするわけにもいかないし。

「でも、なんで俺?」

「去年の文化祭、俺が南に抱きついただろう?」

「……あー、うん」

 トラウマ級の思い出を本人の口から言われるのは、傷をさらにえぐられるような気分なんだけど?

「あれがわりと評判が良かったみたいなんだ。その、主に女子たちに」

「ああ」

 そういうことか。

 世の中には陰キャ受けというものがあって、そこそこ人気があるということは俺も知っている。だったら、俺みたいな地味で平凡なモブはうってつけかもしれない。

 ……いや待て、長澤が受けの可能性もあるだろう。身長はわずかに長澤の方が高く見えるけれど、誤差の範囲内だ。
 問題は体格か……。

 自分の薄っぺらい体を見下ろして、思わずため息をついた。

 俺が長澤を攻める?ないない!例え、長澤に受けの素質があっても、俺に攻めの才能がなさすぎる。
 やっぱり俺が受けだとして、長澤は熱血漢攻めってところか?そもそもそんなジャンルがあるのかも知らないけど。

「頼む!」

「いや、やだな。ものすごく」

「そこをなんとか!」

「でも……」

「南にしか頼めないんだ!」

 心の奥が、グラッと揺れた。

 俺にしか頼めない、なんて初めて言われた。

 ここで断ったら、長澤のバロメーターはマイナスへ動くかもしれない。それどころか、長澤の思いが強すぎて、一気に地に落ちる可能性だってある。

 俺はただ、嫌われも憎まれもせず、背景として過ごしたいだけなんだ。

 断ったら嫌われる?
 でも、受け入れたら背景ではいられない?
 文化祭で否が応でも注目を浴びてしまったら、もう平凡なモブには戻れないのか?

 どっちをとるか。……いや。

 長澤がうまいことネタとして処理してくれればいいんだ。
 そもそも、俺みたいなやつは冬馬くんと海渡くんほど騒がれないだろうし。下手したら、審査員特別賞にだって選ばれないかもしれないじゃないか。
 それなら、しばらく耐え忍んでいれば……。