俺を嫌いな君へ。

 視聴覚室の分厚いカーテンは今日ばかりは開け放たれていて、大きな窓からはコンテストのステージが半分くらい見えた。

 ここは休憩室として開放されているけど、あまり人気がない上に、今は多くの人がステージに押し寄せている。

 海渡くんはカーテンを一箇所だけ引いて影を作ると、俺の背中をそこに押しつけた。
 じりじりと迫る海渡くんの顔は、ちょっとだけ怒っているようにも見える。

「あのさ、一つだけ先に確認しておきたいことがあるんだけど」

「な、なに……?」

「そのカーディガン、誰の?」

「へ?」

 紺色のぶかぶかカーディガン。走ってきたせいでますます肩は落ち、袖は余りに余って、おばけの手みたいになっている。
 それがどうかしたか?と思いつつ、俺は素直に答えることにした。

「これ、お父さんのだけど?」

 海渡くんは一瞬目を丸くして、はぁ〜と息を吐き出すと、俺の肩におでこを乗せた。

「海渡くん?どうした?」

「よかった。長澤のだったら、あいつのこと殴ってた」

「殴るって!暴力はダメだろ」

「だって……」

「海渡くんがそんなことしたら、俺が悲しいからダメ」

「分かった。絶対しない」

 なんでこんな時に物騒な会話してるんだろ。
 つい面白くなって肩を震わせると、海渡くんが顔を上げて不思議そうに見てきた。

「そうだ!これ」

 さっきからずっと手に持っていたらびにゃんのカチューシャを、海渡くんの頭に着ける。

 うん、やっぱり似合ってない。
 似合ってないけどかっこよすぎる。

 左手を海渡くんの頬に添えて、まじまじと見つめる。

 こんなにかっこいい人が俺のことを好き?
 しかも一年も前から?
 にわかには信じられない。

「急に避けるようなことしてごめん」

「……やっぱり避けられてたんだ」

 海渡くんは俺の手の上に自分の手を重ねて、甘えるように頬をすり寄せてきた。
 閉じた目は少しだけ苦しそうに歪んでいる。

「優里が長澤に抱きついてるの見て、あんなに泣くほど好きなら、俺はちゃんと諦めて応援しないといけないなって」

 そんな勘違いしてたなんて。
 全く……なにやってんだよ、俺たち。

 小さくため息をつくと、海渡くんが細く目を開けた。

「観覧車で泣いたのは、海渡くんのことが好きだって気づいたからだよ。でも、海渡くんと冬馬くんは恋人同士だと思ってたから、俺は諦めなきゃって」

 海渡くんがふっと笑う。
 つられるようにして笑うと、海渡くんが俺が寄りかかっている窓に手をついた。
 また、俺たちの距離が近づく。

「冬馬には割とすぐバレたのにな。俺が優里のこと好きだって」

「そうだったの?」

「まあ、いきなり冬馬のうしろくっついて歩くようになったからな」

「えっと、じゃあ、俺と冬馬くんが廊下で話してる時いつもいたのは……」

「ちょっとでも優里の顔見たかったから」

 顔が見たかったって……。
 あんなに凄まれてたら、俺が冬馬くんに変な気でも起こさないように監視されてるとしか思えなかったんだけど。
 あ、でも、腕を組んで壁に寄りかかる姿はかっこいいなって思ってた。

「さっきも言っただろ?好きすぎて変な態度とってたって。ニヤけないように必死に顔作って、優里のこと怖がらせてるのは分かってた」

「名前呼びも、一人で帰るなって言ってきたのも?」

「うん。カップルコンテストに出たのも、朝、駅で待ってたのも」

「あ、いっつも肩ぶつけてきたのはなんで?」

「気づいてたのか。それは……ちょっとでも触りたかったから。嫌がらせだと思ってた?」

「思ってたよぉ」

 へにゃへにゃと力が抜ける。
 そんな俺の背中を海渡くんの手が支えた。

 今までの海渡くんの態度って、俺への嫌悪感を表してるんだと思ってたけど、全部逆だったんだ。

 心理学では、相手が自分のことを嫌いだと思っていると、自分も相手を嫌いだと思うようになる。

 ……そっか。
 俺、あんなに海渡くんに嫌われてると思ってたのに、海渡くんを嫌いだと思ったことは一度もなかったな。
 今思えば、全部が海渡くんからの不器用なアピールだったんだ。

「俺のこと好きすぎじゃない?」

 俺の渾身の思いつきにふはっと笑う海渡くんの笑顔は、なんだかいたずらっ子みたいだ。

「だからさっきからそう言ってるだろ?やっと分かった?」

 コクリと頷く。

 海渡くんは俺から離れると、手近な椅子に腰掛けて、「優里、こっち」と手を広げた。

 結局、最後まで通しで練習できていなかった台本の続き……。ええと、海渡くんが俺のことを好きだと言ったら、次は―――

「俺も、海渡くんが好き。すっごく好き」

「……ん」

 一瞬の躊躇いの後、おずおずと海渡くんの膝に跨がると、俺の腰が引き寄せられた。

 海渡くんの切れ長の目に引き寄せられるように、お互いの額がくっつく。
 カチューシャの耳が当たって、ちょっと邪魔だなぁなんて思っているうちに、鼻の先が触れた。

「フリじゃないよ」

「分かってる」

 目を閉じると同時に、俺と海渡くんの唇が重なる。

 反応を探るような、かすかに触れるだけだったキスが、だんだんと重く遠慮のないものに変わっていく。

 台本では『見つめ合ってキスをする(※フリ)』だった。

 でも、これは演技なんかじゃない。
 海渡くんの気持ちも、俺の気持ちも、本物だから。このキスは、本物の恋人同士のキスなんだ。

 ドキドキして、ホッとして、体の芯が熱くなるような、生まれて初めての感覚。
 恋人つなぎをしたときに感じた、特別に大切にされているような、心地よくて幸せな気持ちを思い出す。

 あの時は俺自身じゃなくて、漫画の登場人物に自己投影しているような遠さがあったけど、今はそうじゃないんだ。

 ずっと自分はモブだと思っていたし、今でもそれは変わらない。

 でも、海渡くんが見つけてくれた俺は、海渡くんの隣にいる時だけは『主人公』でいたい。

 ✳✳✳

 髪をなでられる感触に目を覚ます。

 この感じ、いつもと同じだ。
 俺が放課後に居眠りしていると、優しくなでてくれる骨ばった手。この手になでられるとまた瞼が重くなるんだ。ずっと冬馬くんだとばかり思っていたけど……。

「ごめん、俺、寝ちゃってた?」

 抱きついたまま、しばし眠っていたらしい。

 体を起こすと、すぐ目の前に海渡くんの顔があって、俺の心臓がまたうるさくなる。
 寝ている間に外されたであろうカチューシャは、長机の上に二つ並べて置かれていた。

「もしかして、昨日寝られなかった?俺のせい、だよな?ごめん……」

「それもあるけど、俺が緊張しいだから。去年の文化祭も寝不足だったし」

「じゃあ、今夜も眠れない?」

「かも」

「今夜は俺が一緒に寝る。優里を寝かしつける」

「……は?」

 なにを言ってるんだ、このイケメン様は。

 慌てて海渡くんの膝から下りると、途端にさっきまでの穏やかな表情は鳴りを潜め、仏頂面に変わった。

「それは、まだ早いでしょ」

「まだ……ね。じゃあ、優里が寝るまで電話する。それならいいだろ?」

「……いいけど」

 海渡くんって意外と、いや、だいぶ強引なところあるんだった。「食べちゃいたい」って、海渡くんのあの言葉、そう遠くない日に現実になりそうな……。

 やけに熱くなってきてカーディガンを脱ぐと、視聴覚室の大きな窓を開ける。梅雨前、まだギリギリ爽やかな風が頬をなでていく。

 ステージに集まる人々のざわめきの中、カップルコンテストの司会者の、あの陽気な声が響いた。
 窓から身を乗り出して、半分しか見えないステージに目をこらす。

『準優勝、優勝、審査員特別賞と、全てが出揃いました!が!!ここで、私の独断と偏見により、急きょ新設した賞とその受賞カップルを発表したいと思います!!』

 ドラムロールが鳴り響く。どうやら、結果発表を聞き逃してしまったらしい。

 長澤のやつ、今ごろどんな顔してるんだろう。喜んでる?それともがっかりしてる?いや、きっとがっかりの方だ。

 段取りなんて全部無視して、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、勝手にステージを下りてきちゃったんだもんな。
 あの三年の司会者、終始呆然としていたし、俺たちの印象なんて最悪だろう。
 そもそも一番手になった時点で、負けたようなもんだけど。

 海渡くんが俺の両側から腕を回して、背中にぴったりと隙間なくくっついてきた。

 ……まあ、そんなのどうでもいいか。

 ドラムロールが止まって、一瞬の静寂が訪れる。

『本日の会場を一気にあたためてくれて、私の緊張すらも解してくれましたこのお二人に、《まさかのヒーロー覚醒賞》をお送りいたします!二年の春山海渡くん、南優里くんカップルです!!!』

 次の瞬間、熱狂的な歓声が青空に溶けていく。

「「は?!」」

 俺と海渡くんの声が重なって、思わず目を合わせた。

『春山くん、南くん、いらっしゃいますか?!どうぞ、ステージまでお越しください!』

「……だって。どうする?」

 司会者が俺たちを呼んでるけど……。

 海渡くんは俺のこめかみにキスを落とすと、片側の口角を上げてニヤリと笑った。

「いや、行かなくても大丈夫だろ」

 そう言って、逃さないとでもいうように俺の腹に回した腕に力を込める。さっきからどこもかしこもくすぐったい。

「で、でも……」

『おや?あなた方は?………お二人のクラスの委員長とお友達ですか。いいでしょう、こちらへどうぞ!……ちょっと!賞状授与はまだですよ!!持っていかないで!!……待って待って!メダルを勝手にかけるんじゃない!!!…………もうやだ、このクラス……』

「あいつら、ヤバぁ」

「全く、なにやってんだか。あいつらも、俺たちも」

 司会者の悲鳴のような嘆きに、俺と海渡くんはひたすら腹を抱えて笑っていた。