俺を嫌いな君へ。

 人波を縫って走る。

 ステージ上に見えてきた赤いTシャツに、絶望の唸り声が漏れた。

 長澤のやつ、文化祭バカのくせに、本当に審査員特別賞を狙う気があるのかよ。あの格好じゃ、誰も演技に入り込めないと思うけど?

 今朝のくじ引きで一番になった時にだいぶヘコんでたから、もう最初から諦めてるのかもしれない。一番って、よっぽど突拍子もないことしないと印象に残らないから。

 緊張する暇もなく、ステージ横に設置された三段の階段を飛び上がると、長澤の前に立ってひざに手をついた。
 一気にざわざわし始めた観客席を尻目に、どうにか息を整える。

 冬馬くん、うちわ作るって言ってたけど、これじゃどこにいるか分からないな。

 そこかしこで振られているうちわには『こっち見て!』とか『ウインクして!』とか、アイドルのライブみたいな言葉が並んでいて、熱狂ぶりが伺える。

 俺はハッとして、手に持っているカチューシャを頭に着けた。それなのに長澤は、前で組んだ手に持っているだけで動こうとしない。

「それでは始めましょう!まずは……二年の春山海渡くんと、南優里くんとなってますが……?パートナーの変更ということでよろしいですか?」

 司会者が手元のカンペを見ながら言った。

「え?!長澤、変更の申請してなかったの?」

 長澤はポリポリと頭をかくと、俺の肩の向こう側を見てふっと笑った。

「やっぱり必要なかったな。これ、返すぞ。審査員特別賞、期待してるからな」

 わけが分からないまま手の中に押しつけられたカチューシャに、一度は手放した思い出が蘇る。

 長澤は俺の肩にずしんとした重さと赤色の余韻を残して、ステージ裏に引っ込んでいった。

 観客席がさっきとは違う種類のざわざわに包まれた次の瞬間、「おお〜」というどよめきが沸き起こる。

「お、本命が来ましたよ!!!では早速、インタビューからいきましょう!!」

 歓声に負けまいと声を張り上げる司会者の言葉に、おずおずとうしろを振り返る。

「えっ!なんで?!」

 抜けるような青空の下、階段を上がってステージに現れたのは海渡くんだった。
 荒い息をつきながら近づいてくる海渡くんは、頬が赤く上気していて、並々ならぬ色気がダダ漏れている。
 観客席にはため息のような歓声が広がる。

 海渡くんはワイシャツの肩のところで汗を拭うと、あろうことかマイクを強奪した。

「ちょっと!困りますよ!」

 司会者の制止をあっさりと無視して、俺の目の前まで来ると、腰を少しかがめるようにして覗き込んでくる。
 細められた目は怒っているのか、呆れているのか、とにかく色っぽいってことだけは確かだ。

 目を合わせられずに下を向くと、海渡くんの長い指が俺の顎を持ち上げる。なでるようにそっと、でも有無を言わせない力で。

 前方から空気を切り裂くような、一際甲高い叫び声が聞こえた。

 すごいよ、海渡くん。インパクトばっちりだよ。
 演技力だけじゃなくて、いつの間にか色気も身につけたんですか?それとも隠してたんですか?
 こんな登場の仕方、誰だってときめかないわけにいかないだろ。

 ……えっ……?
 まさかとは思うけど、こんな大衆の面前で振られるなんてことはないよな?

 海渡くんはマイクを自分の口元に持ってきて、なにか言おうと口を開きかけたけど、次の瞬間には堪えきれないように笑い出した。
 ゼロ距離の笑顔に、俺の全身はどうしたって甘い熱に昂る。

「優里、相変わらず走るの速すぎ」

 マイクを通して響いた低い声は、怒っているわけじゃなく、むしろ面白いおもちゃでも見つけたみたいに弾んでいた。

「俺が好きなのは優里だって、何度も言っただろ?」

 心臓がドクンと高鳴る。

 インタビューすっ飛ばして、いきなり芝居に入るの?あの人、三年生だと思うけど大丈夫?

 海渡くんはことごとく司会者を無視するつもりらしい。
 とにかく台本のセリフを思い出そうと記憶をめぐるけど、俺の頭の中なんて海渡くんに告白した瞬間から真っ白だ。

「えっと……ごめん!わ、忘れちゃった!」

 海渡くんは目尻を下げて笑うと、今度は俺の頭にポンと手を乗せた。

「優里、俺を信じて。これは演技なんかじゃない。それともさっきの優里の言葉は、ただのセリフだったの?」

「違うよ!そんなわけない!」

 怒鳴るような俺の声が、ステージと観客席に響く。

 固唾を呑んで見守る大勢の視線が、俺にブスブスと突き刺さった。

「俺もそうだよ。一年前から、去年の文化祭からずっと優里が好きだった。ステージに出る前、あんなに震えて怖がってた優里がいきなり堂々と歌い出して、しかもめちゃくちゃ綺麗な声で。そうかと思ったら無防備に寝てるし。そんな可愛すぎるの、反則だろ」

「嘘……!」

「嘘じゃないし、演技でもない。視聴覚室で肩を貸した時からずっと、俺には優里しか見えてない。あの日、大事なものを見つけたんだ」

 俺の頭に置かれた手がなでるように頬を包んで、肩から腕を伝って下りていくと、指の間を隙間なく埋めてきた。
 練習の時と同じように親指の付け根をそっとなでられて、練習の時には感じなかった痺れが俺の背中を走った。

「だって俺、ずっと嫌われてると思ってて……」

「違う、その逆。好きすぎて変な態度とってた」

 海渡くんはマイクを下ろしてふっと笑う。
 弧を描く優しい目の奥には確かな甘さが滲んでいて、俺はこの顔を知っていると思った。

 彼氏ムーブをかまされた時、餌付けされてる時、俺の涙を拭いてくれた時、遊園地でおでこを触り合った時、海渡くんはいつもこんな顔をしていた。

 でも。

 つい目が泳いでしまう。

 海渡くんは見咎めるように眉を寄せると、マイクのスイッチを切って、その手で俺の肩を引き寄せた。

「まだ信じられない?」

 少し間を置いて、コクンと頷く。
 だってこんなの、漫画やドラマの中でしかありえない出来事で、ましてやモブの俺なんかに起こるはずはなくて―――

「それならじっくり分からせてあげる。ステージ以外の場所で。台本の続きは二人きりのときにしよう」

 耳元で、俺だけに囁く声があまりにも艶めかしくて、これ以上は熱くならないと思っていた熱が一気に上昇する。
 こんなこと続けてたら俺の心臓がどうにかなってしまいそうだ。
 俺は首振り人形のようにコクコク頷くと、カチューシャを持つ手を海渡くんの胸に押しつけて距離をとる。

 ―――ドクドクドクドク――

 指先から伝わってきた鼓動に、思わず探るように手を動かしていたら、海渡くんが首を傾げてじっと見つめてきた。

「真っ赤っ赤で可愛すぎ。食べちゃいたい」

「か、海渡くん!」

 そういう海渡くんの顔だって真っ赤じゃないか!心臓だって俺と同じくらい早いし。

 俺と同じ……なんだ。

 なんだこれ、めちゃくちゃ嬉しいんだけど。

 海渡くんはにっこり笑うと、俺の手を握ったまま歩き出した。途中、明らかに戸惑っている司会者の手にマイクを押しつける。

 ふと、冬馬くんのきゅるんとした笑顔を見つけた。隣には目尻を拭う丸橋さんもいる。
 しかも最前列じゃん。実はずっと見守ってくれてたんだな。

 冬馬くんが俺に見えるように掲げたお手製うちわには、『おめでとう』の文字が……。
 丸橋さんの手にあるのは『お幸せに』のうちわ。

 まんまとハメられたような気がして、なんとなく悔しくなって、俺は顔を手で覆った。
 海渡くんはそんな俺の手を引っ張って、階段を跳ねるように下りていく。

「どこ行くの?!」

「二人きりになれるとこ!」

 俺たちの背後からは爆発みたいな歓声が追いかけてきたけど、そんなのも囁きにしか聞こえないくらい、俺はひたすら海渡くんの横顔を見つめていた。