俺を嫌いな君へ。

 長澤の招集命令に、海渡くんは大きく首を振った。
 明日は本番だというのに、遊園地に行ったり、俺が保健室で眠りこけていたりで、あれ以来まともな練習ができていない。
 幸い、文化祭二日目ののど自慢コンテストの方は、もうほとんど仕上がっているけど。

「……悪ぃ。今日体調がよくないから、このまま帰る。クラスの準備の方も、手伝えなくてごめん」

「あ、あぁ……。縁日の飾りつけはそんなに大変じゃないから大丈夫だが」

「練習しなくて大丈夫なの?海渡」

「……台本はちゃんと頭に入ってるから」

 「じゃあ」と言って、教室を出ていく海渡くんの背中をじっと見つめる。

 冬馬くんも長澤もなにも言わないけど、今日の海渡くん、やっぱり変だ。
 朝から変だった。珍しく寝坊したり、長澤と俺だけじゃなくて、冬馬くんのことまで睨みつけたり。

 それに、一度も目が合わない。
 俺の視線に気づいてるはずなのに、ギリギリでそらされる。何度もそんなことが続けば、さすがの俺でも気づく。
 嫌われていると思っていたときでさえ、こんなことなかったのに。

 あの刺すような目つきは怖かったけど、目が合わないことの方が何倍も怖くて、俺はずっと海渡くんの横顔を見ていた。

「ごめん、ちょっと行ってくる」

 俺はそれだけ言うと、海渡くんを追いかけた。冬馬くんと長澤はなにも聞かずに、ひらりと手を振る。

「海渡くん……!」

 人々でごった返す廊下。
 各々、段ボールやら衣装やらを手にして、一分一秒を惜しむように奔走している。

 廊下の向こう、人波に埋もれそうな背中を見つけると、俺は声を張り上げた。

 数人の生徒がぎょっとしたように見てくるけど、俺の目には海渡くんしか映らない。
 海渡くんにもちゃんと声が届いたらしく、立ち止まってゆっくり振り返った。

 目の前まで走っていって、少し青白い顔を覗き込む。

「海渡くん、具合悪いの?俺、駅まで送っていこうか?」

 海渡くんは目線を下げたまま、さっきと同じように首を振った。
 やっぱり目が合わない。
 どうしようもない不安に襲われて、思わず海渡くんの肩を掴む。

「海渡く――」

「あ、ほら!あの子でしょ?『ながみな』の南くんだっけ?」

 どこからか聞こえてきた隠す気もない陰口に、次の言葉が途切れた。
 海渡くんが下唇を噛みしめる。俺は手をだらりと下げて、口だけで笑った。

「ありえないよな、俺と長澤なんて」

「……いーんじゃねぇの?今時、普通だろ」

「普通ってなにが?」

「男同士の恋愛」

「……それはそうだけど。海渡くん、あの噂信じてるわけじゃないよね?」

 俺の手はまた海渡くんの肩を掴んでいた。
 今度は海渡くんが、ふっと弱々しく笑う。

「長澤と付き合ってるとか、ありえないから」

「じゃあ、なんで……」

「なに?」

「なんであの時、泣いてたの?観覧車で」

「そ、それは……」

 それは海渡くんが好きだと気づいたから。
 海渡くんと冬馬くんが恋人同士だと思っていて、自分のいらない気持ちに絶望したから。
 長澤なんか全然関係ないのに。でも、それを言ったら海渡くんに俺の気持ちがバレてしまう。
 俺にはまだ、やっと自覚した初恋を手放す覚悟ができていない。

「なんで昨日、長澤に抱きついたの?」

 それだって同じことだ。
 海渡くんだったらいいなって、願ってしまったから。

 今思えば、海渡くんからの優しさを当たり前のように享受していた俺への『戒め』だったのかもしれない。
 結局、噂を生み出したのは俺自身だったんだ。

 なにも答えられずにいる俺の手を、海渡くんはグッと押し下げる。
 海渡くんの手は廊下の熱気の中、別の世界にいるみたいにひんやりしていた。

「ごめん、困らせたいわけじゃなくて……。一カ月、いや、一週間だけ待ってて。そしたら普通に戻すから」

「それ、どういう――」

 海渡くんは俺が言い終わらないうちに、サッと背中を向けて行ってしまった。

 追いかけたかった。でも、追いかけたところで俺はなにも言えない。

 普通に戻すってなに?海渡くんはどこまで戻すつもりなの?

 カップルコンテストを機に海渡くんの態度は変わった。
 どんどん優しくなって、俺のことを守ってくれて、友達として笑い合ってくれて、「怖がらないで」と抱きしめてくれて。
 こんな俺でもちょっとは表舞台に立ててるのかな、なんてそんな風に思ったりもした。
 ただのモブなのに、背景でいるのが楽だったはずなのに……。

 こんなに好きにさせておいて、今さらただのクラスメイトに戻すの?
 俺、そんなの嫌だよ。

 ✳✳✳

 海渡くんが肩を貸してくれた視聴覚室。
 あんなに温かかった、宝物みたいな思い出がしまわれた場所が、今は冷たく沈んでいる。

 どれくらいそうしていただろうか。そっと肩をたたかれて、俺は顔を上げた。

「ここにいたんだね。……はい」

 冬馬くんの差し出してくれたハンカチを受け取る。そのうしろには長澤もいて、気遣わしげに眉を寄せている。ハンカチを頬に当てると、ズズッと鼻をすすった。

「なにがあったの?海渡となに話したの?」

 冬馬くんの穏やかな声色と、頭に乗った温かい手に、また目の奥が熱くなる。

 ごめん、丸橋さんと付き合えたばかりなのに、俺のことに巻き込んじゃって。

 泣きじゃくってしまって口にできない思いは、冬馬くんの「いいんだよ」で、ちゃんと伝わったんだと解釈することにした。

「南、すまない。俺のせいだ」

 長澤のきっちり九十度のお辞儀に、俺は慌てて頭を振る。

「ち、ちがっ……!」

「そうだよ、いんちょーのせいだからね。保健室に運ぶのに、なんで海渡呼ばないの」

「いやー、なにも考えてなかったなぁ。まさか、こんなことになるとは、参った参った」

 そののんきな言い方に小さく笑うと、少しだけ震えがおさまった。
 また、長澤に救われた気持ちになるなんて。

「長澤、のせいじゃないよ。長澤は委員長として、助けてくれた、だけだろ」

「まあ、それはそうなんだが」

「俺が、悪いんだよ。抱き上げてくれたのが、海渡くんだと思っちゃったから。俺がそう、望んだから」

 俺の言葉に、冬馬くんと長澤が息を呑んだ。

 少しの間、沈黙が漂うけれど、二人とも口を開かない。

 俺が自分から言うのを待っている。

 俺は肺の中の空気を全部吐き出すように、長く長くため息をついた。スッと一息で吸って、まっすぐ前を見つめる。

「俺、海渡くんのこと、好きになっちゃったんだ」

 一瞬の静寂が下りた。

「……優里くん」

 冬馬くんの手が、俺の髪をさらさらとなでる。それだけで全部受け止めてくれたんだと分かった。
 長澤が鼻息荒く、腕を組む。

「だから抱きついてきたのか」

「う、うん」

 ポコっと盛り上がった筋肉に、なんとなく責められているような気がする。

「なるほどなぁ。で、そのことを春山に言ったのか?」

「言えるわけないよ!告白してるようなもんじゃん!」

「告白すればいいじゃないか」

 長澤の当然だと言わんばかりの物言いに、ぽかんと口を開けた。

「長澤は、望みがないって分かってて告白できるの?」

「望み……。うん、そこか。望みか。うーん」

 長澤はそれきり、腕を組んだまま天井を見上げて、ぶつくさとなにか呟いている。
 冬馬くんがいつものにこにこ笑顔を俺に向けた。

「優里くんはどうしたいの?」

「俺は……」

「いいよ、思い浮かんだこと、そのまま言ってみて」

「海渡くんが急によそよそしくなった理由は分からない。でも、俺と長澤の噂を信じてるみたいだった。俺、誤解されたままなんて嫌だ。海渡くんの誤解を解きたい」

 冬馬くんが「うん」と頷く。

「だったら、ちゃんと全部説明するしかないんじゃない?それを告白ととるかは、海渡次第だよ。海渡は優里くんの気持ちを知っても、突き離したりなんてしないはず。もしそんなことしたら海渡とは絶好して、優里くんといんちょーで同盟組んでやるから!」

「それいいな!春山のばかやろう同盟か?」

「そ、そこまでしなくても……」

「そこまでするくらいのことなんだよ!」

「同感だ。俺も委員長という立場をかなぐり捨てる覚悟で参戦しよう」

「冬馬くん、長澤……」

 二人の熱意のせいなのか、視聴覚室には温かい空気が満ちていた。
 分厚いカーテンから漏れ出す光に、俺の心の内側まで照らされたようで。いや、俺を照らしてくれたのは、バロメーターの最大値をやすやすと踏み越えてきたこの二人。
 なんて、俺が勝手にそう思ってるだけだけど、それでいいんだ。

 テーブルの上で拳をぎゅっと握りしめる。

 明日……。

 明日、ちゃんと話そう。

 ごまかさずに全部説明して、とにかく海渡くんの誤解を解く。

 腹を据えたわけじゃない。
 覚悟を決めたわけじゃない。
 今だって、力を抜いたら震えだしそうなほど、怖くて怖くて仕方ない。
 でも、なにもしないのはもっと怖い。

 このまま一週間が過ぎて、ただのクラスメイトに戻される方がきっと後悔する。

 もし気持ちがバレてしまったら……それは、そのときになってから考えよう。

 ✳✳✳

 その夜、海渡くんから一通のLIMEが届いた。

『明日のカップルコンテスト、俺は下りる。長澤と出ろ』

 なんとなく、そう言われるような気がしていた。

 鼻の奥の痛みをごまかすように、クッションに顔を埋める。
 二つ並んだらびにゃんのカチューシャが、寂しそうに俺を見ていた。

 画面に指を滑らせて、一言だけ返す。

『分かった。でも、その前に話がしたい』

 スマホの電源を落としてベッドに投げると、俺は長い夜の中へと身を沈めた。