夢か現実か分からないような一夜が明けた。
俺は重い体を引きずるようにして、教室から廊下を挟んだ、真向かいにある図書室のドアを開ける。
文化祭の準備が佳境に入った放課後、図書室には司書の先生しかいない。
「あら?どうしたの?」
「すみません、ちょっとだけ休ませてください」
「まぁ、仕方ないわね。大丈夫なの?」
「ありがとうございます。具合が悪いわけじゃないので」
冬馬くんは隣のクラスを手伝ってくると言ってたし、海渡くんは先生に呼ばれたからと職員室に向かった。
うちのクラスの準備はほとんど終わっている。
長澤に顔色が悪いから休むよう言われたけど、保健室まで歩く気力もなく、図書室のソファーに座った。
廊下には大勢の生徒の騒ぐ声が飛び交っているけど、壁一枚隔てただけで、俺にとってはちょうどいい子守歌に変わった。
俺、意外と平気だったな。
今日の朝、海渡くんと駅で会った時はさすがに緊張したけど、いつもと同じに話せたと思う。
昨日の楽しかった話とかして、今度は冬馬くんや長澤とも一緒に行きたいって言って。
長澤がカチューシャ着けたらどんなかな?って言ったら、海渡くんまた爆笑してた。
海渡くんと長澤も、練習を通してだいぶ打ち解けたみたいだし、長澤は一応気を遣ってくれてるみたいで、あんまり俺に触れてこない。
だからか、俺のトラウマも薄れている。
冬馬くんにも「どうだった?」って聞かれたから、「楽しかったよ」って答えた。
冬馬くんはニヤニヤしながら海渡くんのお腹をパンチしてたけど、二人の間に割って入りたいなんて気持ちは全然起きなかった。
でも、どんなに気持ちを抑え込んでも、胸の痛みだけはごまかせない。
やっぱり俺は、好きになっちゃいけない人を好きになったんだ。
寝不足に加え、そんなこんなで普段の何倍も疲れている。
ソファーの肘置きに身を預けて、廊下の喧騒を聞いていると、俺の意識はあっという間に暗闇に沈んだ。
✳✳✳
ふわふわと浮いているような感覚に、少しだけ意識が浮上する。
「おい、大丈夫か?」
誰の声だろう。
低くて心地いい声は、やけに張りのある胸を通して、俺の中に響いた。
……誰かに抱き上げられている。
誰だろう……海渡くんだったらいいな……。
甘い疼きに、目を閉じたまま縋るように、その誰かの首に腕を回す。
「きゃあ」と叫ぶような声がいくつも聞こえたけど、安心しきった俺はまとわりつく眠気に身を任せ、また全てが遠ざかっていった。
✳✳✳
目を覚ますと、保健室のベッドの上だった。
ベッド周りを囲む白いカーテンを透かして、夕方の日が差している。
ていうか、めちゃくちゃ爽やかな目覚めなんだけど!
どんだけ寝てたんだ、俺。
ベッドから下りてカーテンを開ける。
いつもは保健室の先生が座っている丸椅子に、白い半袖ワイシャツを着た後ろ姿があった。
あれは……あの盛り上がった筋肉は……。
「長澤……?」
「おう、やっと起きたか」
振り返った長澤は、読んでいた本をパタンと閉じて、人のいい笑顔を見せた。
「もしかしてずっと待ってたの?」
「いや、さっき様子を見に来たら保健医に留守番を頼まれてな」
「そうだったんだ」
「南が起きたらそのまま帰っていいそうだが、体調はどうだ?
「大丈夫。ただの寝不足だから。もう下校の時間?今、何時?」
長澤が壁の時計を見上げる。
「五時半になる。まだ残っているクラスもあるが、うちのクラスは解散したぞ。もうやることもないからな」
「そっか。……あ、ここまで運んでくれたのって……?」
「ああ」
おずおずと聞く俺に、長澤は立ち上がっておもむろに右腕を掲げた。
逆光で暗く見えるそのシルエットに、俺は反射的に後退りする。
トラウマは薄くなったとはいえ、長澤って海渡くんとはまた違う圧があるんだよな。
袖を破りそうなほどの力こぶに目を瞬かせていると、長澤は親指で自分の顔を指し示した。
「俺だ」
……なんだ、海渡くんじゃなかったのか。
思わず息を吐き出すと、長澤がニヤリと口角を上げる。
「春山じゃなくてがっかりしたか?」
「い、いや!そんなことは!ありがとう、長澤」
慌てて胸の前で両手を振った。
長澤はニヤリを崩さないまま保健室のドアに向かい、俺はその後をついていく。
え、昨日の今日でもう俺が海渡くんのこと好きだってバレてんの?
長澤ってエスパー?
それとも俺が分かりやすいってこと?
階段を上がり、教室に向かう廊下で別クラスのやつらとすれ違うが、なぜかチラチラと見られているような気がしてきた。
まさか、そんなはずないよな……?
丸裸で歩いているような気分になって、一気に全身が熱くなる。
一人パニクっていると、長澤が横目で俺を見た。
「あの『お姫様だっこ』、春山がしてたらいい練習になっただろうに」
あ……長澤って文化祭バカだったわ。
たぶんだけど、バレてはいないっぽい。
見られていると思ったのも俺の気のせいだろう。
だって俺、いつも通りを演じるためにけっこう頑張ってたし。
この調子でやれば、カップルコンテストでもすごい演技ができるんじゃないかと思えるくらい。
あの台本はあまりにも俺の心情そのものになってしまったけど、今日みたいに自分の気持ちを抑えられれば……。
「それにしても、軽すぎるな、南は」
「いや、俺がっていうより、長澤の力が強すぎるんだろ」
「そういえば、約束を破ってしまったな。まあ、抱きついてきたのは南だが」
「えっ?!」
「なんだ、覚えていないのか?」
「……なんとなく」
甘えるように頬を寄せたのは、長澤の胸だったのか。
そうだよな、海渡くんだったらにおいで分かる。
一年前の、視聴覚室でのことを思い出す決定打になったといっても過言ではない、海渡くんのどこかホッとするにおい……。
って、なんか俺、めちゃくちゃ変態っぽいんだけど。
「長澤」
「ん?」
俺の呼びかけに、教室のドアに手をかけた長澤が振り返る。
「ありがとう。それから、ごめん」
「委員長として当然のことをしたまでだ。気にすることはない」
長澤はふっと笑って、俺の頭をわしゃわしゃと豪快になでた。
い、痛い。
でも、長澤はやっぱりいいやつだ。
ドアを開ける。
電気の消えた教室は薄暗く、静まり返っている。
長澤がうちのクラスは解散したと言った通り、誰もいなかった。
それでも無意識に、窓辺に海渡くんの姿を探してしまう。
……いるわけないよな。
隠すって決めたくせに、いつかみたいに待ってくれてるかもしれないなんて、なにを期待してるんだよ、俺は。
そっとため息をついて背負ったリュックが、やたらと重く感じられる。
「あ!……悪い、南。これを三階に運ばないといけないんだった。一つ頼んでもいいか?」
長澤が指差したのは、二つの大きな段ボールだった。
「もちろん」
それは大きさの割にたいした重さじゃなく、俺たちは三階の空き教室に向かう。
三年生の先輩たちはみんな帰ったみたいで、静かな廊下をなんとなく足音を立てないように歩く。
相変わらずほこりっぽい床にそっと置いて、さあ帰ろうと廊下に出ると、どこからか人の話し声が聞こえた。
向かい合せにある学習室だ。
ここは誰でも自由に使える自習室みたいな部屋だけど、三年になるとほとんどの人が塾に通っているから、利用者はめったにいないらしい。
ちょっと気になって、少し高いところにあるガラス窓を何気なく覗く。
「………は……?!」
叫びだしそうになった口を、とっさに両手で塞いだ。
血の気が引く。
心臓がドクンドクンと大きく脈打ち、背中に冷や汗が吹き出した。
……なんで?!
どういうこと?!
どうして冬馬くんが……?!
俺の狼狽えた様子に、長澤も中を覗き込む。
「ああ、なんだ」
特に驚いた様子も見せない長澤の手首を掴んで、俺は一目散に玄関に向かった。
「ど、どうした?南?!」
俺のあまりの剣幕に、校内に残る生徒たちが目を丸くしている。
玄関で靴を履き替えて校門の外まで走ると、俺はようやく立ち止まって、長澤の手首を離した。
そんなに長く走ったわけじゃないのに、荒い息遣いはなかなか落ち着かない。
ドクドクと心臓が痛いほど鳴っている。
冬馬くん、どうして……。
二人は長年想い合って、ようやく結ばれたんじゃないのか?
海渡くんはあんなに冬馬くんを大事にしているのに、こんなのってあんまりだろ!
俺は重い体を引きずるようにして、教室から廊下を挟んだ、真向かいにある図書室のドアを開ける。
文化祭の準備が佳境に入った放課後、図書室には司書の先生しかいない。
「あら?どうしたの?」
「すみません、ちょっとだけ休ませてください」
「まぁ、仕方ないわね。大丈夫なの?」
「ありがとうございます。具合が悪いわけじゃないので」
冬馬くんは隣のクラスを手伝ってくると言ってたし、海渡くんは先生に呼ばれたからと職員室に向かった。
うちのクラスの準備はほとんど終わっている。
長澤に顔色が悪いから休むよう言われたけど、保健室まで歩く気力もなく、図書室のソファーに座った。
廊下には大勢の生徒の騒ぐ声が飛び交っているけど、壁一枚隔てただけで、俺にとってはちょうどいい子守歌に変わった。
俺、意外と平気だったな。
今日の朝、海渡くんと駅で会った時はさすがに緊張したけど、いつもと同じに話せたと思う。
昨日の楽しかった話とかして、今度は冬馬くんや長澤とも一緒に行きたいって言って。
長澤がカチューシャ着けたらどんなかな?って言ったら、海渡くんまた爆笑してた。
海渡くんと長澤も、練習を通してだいぶ打ち解けたみたいだし、長澤は一応気を遣ってくれてるみたいで、あんまり俺に触れてこない。
だからか、俺のトラウマも薄れている。
冬馬くんにも「どうだった?」って聞かれたから、「楽しかったよ」って答えた。
冬馬くんはニヤニヤしながら海渡くんのお腹をパンチしてたけど、二人の間に割って入りたいなんて気持ちは全然起きなかった。
でも、どんなに気持ちを抑え込んでも、胸の痛みだけはごまかせない。
やっぱり俺は、好きになっちゃいけない人を好きになったんだ。
寝不足に加え、そんなこんなで普段の何倍も疲れている。
ソファーの肘置きに身を預けて、廊下の喧騒を聞いていると、俺の意識はあっという間に暗闇に沈んだ。
✳✳✳
ふわふわと浮いているような感覚に、少しだけ意識が浮上する。
「おい、大丈夫か?」
誰の声だろう。
低くて心地いい声は、やけに張りのある胸を通して、俺の中に響いた。
……誰かに抱き上げられている。
誰だろう……海渡くんだったらいいな……。
甘い疼きに、目を閉じたまま縋るように、その誰かの首に腕を回す。
「きゃあ」と叫ぶような声がいくつも聞こえたけど、安心しきった俺はまとわりつく眠気に身を任せ、また全てが遠ざかっていった。
✳✳✳
目を覚ますと、保健室のベッドの上だった。
ベッド周りを囲む白いカーテンを透かして、夕方の日が差している。
ていうか、めちゃくちゃ爽やかな目覚めなんだけど!
どんだけ寝てたんだ、俺。
ベッドから下りてカーテンを開ける。
いつもは保健室の先生が座っている丸椅子に、白い半袖ワイシャツを着た後ろ姿があった。
あれは……あの盛り上がった筋肉は……。
「長澤……?」
「おう、やっと起きたか」
振り返った長澤は、読んでいた本をパタンと閉じて、人のいい笑顔を見せた。
「もしかしてずっと待ってたの?」
「いや、さっき様子を見に来たら保健医に留守番を頼まれてな」
「そうだったんだ」
「南が起きたらそのまま帰っていいそうだが、体調はどうだ?
「大丈夫。ただの寝不足だから。もう下校の時間?今、何時?」
長澤が壁の時計を見上げる。
「五時半になる。まだ残っているクラスもあるが、うちのクラスは解散したぞ。もうやることもないからな」
「そっか。……あ、ここまで運んでくれたのって……?」
「ああ」
おずおずと聞く俺に、長澤は立ち上がっておもむろに右腕を掲げた。
逆光で暗く見えるそのシルエットに、俺は反射的に後退りする。
トラウマは薄くなったとはいえ、長澤って海渡くんとはまた違う圧があるんだよな。
袖を破りそうなほどの力こぶに目を瞬かせていると、長澤は親指で自分の顔を指し示した。
「俺だ」
……なんだ、海渡くんじゃなかったのか。
思わず息を吐き出すと、長澤がニヤリと口角を上げる。
「春山じゃなくてがっかりしたか?」
「い、いや!そんなことは!ありがとう、長澤」
慌てて胸の前で両手を振った。
長澤はニヤリを崩さないまま保健室のドアに向かい、俺はその後をついていく。
え、昨日の今日でもう俺が海渡くんのこと好きだってバレてんの?
長澤ってエスパー?
それとも俺が分かりやすいってこと?
階段を上がり、教室に向かう廊下で別クラスのやつらとすれ違うが、なぜかチラチラと見られているような気がしてきた。
まさか、そんなはずないよな……?
丸裸で歩いているような気分になって、一気に全身が熱くなる。
一人パニクっていると、長澤が横目で俺を見た。
「あの『お姫様だっこ』、春山がしてたらいい練習になっただろうに」
あ……長澤って文化祭バカだったわ。
たぶんだけど、バレてはいないっぽい。
見られていると思ったのも俺の気のせいだろう。
だって俺、いつも通りを演じるためにけっこう頑張ってたし。
この調子でやれば、カップルコンテストでもすごい演技ができるんじゃないかと思えるくらい。
あの台本はあまりにも俺の心情そのものになってしまったけど、今日みたいに自分の気持ちを抑えられれば……。
「それにしても、軽すぎるな、南は」
「いや、俺がっていうより、長澤の力が強すぎるんだろ」
「そういえば、約束を破ってしまったな。まあ、抱きついてきたのは南だが」
「えっ?!」
「なんだ、覚えていないのか?」
「……なんとなく」
甘えるように頬を寄せたのは、長澤の胸だったのか。
そうだよな、海渡くんだったらにおいで分かる。
一年前の、視聴覚室でのことを思い出す決定打になったといっても過言ではない、海渡くんのどこかホッとするにおい……。
って、なんか俺、めちゃくちゃ変態っぽいんだけど。
「長澤」
「ん?」
俺の呼びかけに、教室のドアに手をかけた長澤が振り返る。
「ありがとう。それから、ごめん」
「委員長として当然のことをしたまでだ。気にすることはない」
長澤はふっと笑って、俺の頭をわしゃわしゃと豪快になでた。
い、痛い。
でも、長澤はやっぱりいいやつだ。
ドアを開ける。
電気の消えた教室は薄暗く、静まり返っている。
長澤がうちのクラスは解散したと言った通り、誰もいなかった。
それでも無意識に、窓辺に海渡くんの姿を探してしまう。
……いるわけないよな。
隠すって決めたくせに、いつかみたいに待ってくれてるかもしれないなんて、なにを期待してるんだよ、俺は。
そっとため息をついて背負ったリュックが、やたらと重く感じられる。
「あ!……悪い、南。これを三階に運ばないといけないんだった。一つ頼んでもいいか?」
長澤が指差したのは、二つの大きな段ボールだった。
「もちろん」
それは大きさの割にたいした重さじゃなく、俺たちは三階の空き教室に向かう。
三年生の先輩たちはみんな帰ったみたいで、静かな廊下をなんとなく足音を立てないように歩く。
相変わらずほこりっぽい床にそっと置いて、さあ帰ろうと廊下に出ると、どこからか人の話し声が聞こえた。
向かい合せにある学習室だ。
ここは誰でも自由に使える自習室みたいな部屋だけど、三年になるとほとんどの人が塾に通っているから、利用者はめったにいないらしい。
ちょっと気になって、少し高いところにあるガラス窓を何気なく覗く。
「………は……?!」
叫びだしそうになった口を、とっさに両手で塞いだ。
血の気が引く。
心臓がドクンドクンと大きく脈打ち、背中に冷や汗が吹き出した。
……なんで?!
どういうこと?!
どうして冬馬くんが……?!
俺の狼狽えた様子に、長澤も中を覗き込む。
「ああ、なんだ」
特に驚いた様子も見せない長澤の手首を掴んで、俺は一目散に玄関に向かった。
「ど、どうした?南?!」
俺のあまりの剣幕に、校内に残る生徒たちが目を丸くしている。
玄関で靴を履き替えて校門の外まで走ると、俺はようやく立ち止まって、長澤の手首を離した。
そんなに長く走ったわけじゃないのに、荒い息遣いはなかなか落ち着かない。
ドクドクと心臓が痛いほど鳴っている。
冬馬くん、どうして……。
二人は長年想い合って、ようやく結ばれたんじゃないのか?
海渡くんはあんなに冬馬くんを大事にしているのに、こんなのってあんまりだろ!



