放課後の視聴覚室。
冬馬くんが分厚いカーテンを開けると、夕方のオレンジ色の光に包まれた。
一階にあるこの場所は校庭に面していて、外の音こそ聞こえないが、陸上部が練習している様子がよく見える。
見るとはなしに見ていると、突然、目の奥に火花が散ったような気がして首を傾げた。
「よぉし、練習するよ」
その掛け声に、俺の思考が暗闇に沈む。
なんだったんだ?今の。
なにか思い出しかけたような……。
長机に腰掛けた冬馬くんの、『溺れる放課後』をめくる手が止まった。
「まずは前回の復習からね。はい、寄って寄って〜」
「はーい、監督代理」
俺は横向きのままスススと近づいて、横目で海渡くんと目を合わせた。
海渡くんの真剣な目の奥が、夕日を受けて燃えるように光っている。
「優里」
「は、はい?!」
「名前、呼び捨てだろ?」
「あ、うん。……海渡」
「優里、優里、優里、優里、優里」
「か、海渡、海渡、海渡」
「うん、優里」
なんでだろう。
いつも呼ばれてる名前なのに、なんとなくいつもとは響きが違うような気がして、肩に力が入った。
「おっ、いいねぇ。昨日とは雲泥の差だ」
冬馬くんがメガホンをポンと叩いた。
百円ショップで買った、自前のメガホンだそうだ。
はりきっている。
「えっとね……次は手をつなぐ。はい、ど〜ぞ」
冬馬くんがそう言った途端、海渡くんがお昼休みと同じように俺の手首を掴んできた。
うん、あれは意外にもいい予習になったようだ。
ところが、冬馬くんはメガホンを口に当てて、非難するような声を響かせる。
「ちがぁう!掴むんじゃなくて、つなぐんだよ。手だよ」
「あ、そっか。確かにそうだな」
俺がそう言うと、海渡くんは黙ったまま頷いた。
手首から、手の甲をなでるようにして手のひらを合わせる。
触り方が優しすぎてくすぐったい。
冬馬くんの固唾を飲んで見守るような視線と、重なった熱い指先に、唇をキュッと引き結んだ。
誰かと手をつなぐなんて、小学生のとき以来かもしれない。
海渡くんは相変わらずの無表情だ。
「はい、海渡、すかさず恋人つなぎ!」
冬馬くんは目を離さないまま、つながった手を指差す。
海渡くんに負けず劣らずの真剣さ。
海渡くんは言われた通り、俺の手を開かせて指と指を絡ませると、隙間がないくらいにぴったりくっついた。
……なんだ、これ。
恥ずかしいのに心が浮き足立つような、ずっとこうしていたいような妙な安心感がある。
恋人つなぎなんて形だけのものかと思っていたけど、自分がすごく大切にされているんじゃないかと思えるくらい、特別な心地よさがあった。
恋人たちはいつもこんな幸せを感じているんだな。
海渡くんの手、いつもゴツゴツしてるなぁと思ってたけど、ちゃんと触ってみると意外と柔らかい。
長い親指がまるで染みついた癖のように、俺の親指の付け根をそっとなでた。
「そのまま目を合わせて!向かい合って両手で恋人つなぎ!」
冬馬くんの指導にも熱が入る。
海渡くんと向かい合って、反対の手も合わせると、さすがに汗をかいてきた。
いや、これくらいで怯んでちゃだめだ。
俺だってみんなの期待に応えないと。
おずおずと顔を上げて目線を合わせる。
「なんか、これヤバいね」
「まだ序ノ口じゃないか?」
「そっか。俺、手汗すごくない?ごめん、気持ち悪いでしょ」
「だから謝んなって。汗かいてんのは俺もだし、気持ち悪いなんて思うわけないだろ」
さっきまで無表情だった海渡くんの目元が、ほころぶように弓を描いた瞬間、俺の心臓がドクンと鳴る。
思わず手に力が入りそうになって、顔を俯けた。
海渡くんってすごい。
恋人がいるから慣れてるのかもしれないけど、この演技力には新人俳優賞を贈呈したい。
おかげで冬馬くんの目の前なのに、攻めに溺愛される自分を一瞬でも想像してしまった。
これが、誰かから特別に好かれるっていう感覚なのかな。
だったら、疑似でもそんな体験ができるのは、これが最初で最後だろう。
……俺、がんばろう。
そう思った矢先、ピロンと誰かのスマホが鳴って、反射的に手を離した。
汗をかいた手のひらにひんやりとした空気が触れて、一気に現実に引き戻される。
「ごめん、僕だ。あ、さっちゃん!」
「さっちゃんって?」
「さち」
食い入るようにスマホを見ている冬馬くんの代わりに、海渡くんが短く答えてくれた。
さっちゃんって、丸橋さんのことだったのか。
冬馬くんは小さく笑うと、きゅるきゅると目を輝かせた。
「二人ともいい感じだったよぉ。あとは自主練して。ちなみに次は壁ドンね。僕、用ができたから先に帰るわ〜。じゃあね、バイバイ」
「え?!ちょっと、冬馬くん?」
さっきまでのあの熱量はなんだったのか。
冬馬くんは長机からぴょんとジャンプすると、くせっ毛を揺らしながら走っていって、視聴覚室の重たいドアを片手で軽々と開けた。
バイバイする手を最後に、バタンとドアが閉まる。
残された俺たちの間には、ぎこちない沈黙が流れた。
冬馬くん、丸橋さんに呼ばれて大喜びで出ていったように見えたけど、彼氏の前であれはいいのか?
浮気現場に遭遇してしまったような気分だ。
海渡くんがさぞかし怖い顔をしているんじゃないかとおそるおそる見上げるけど、無表情を崩していなかった。
鋼のメンタルすぎる。
いや……そっか、丸橋さんだからか。
三人の間には特別な絆があるんだもんな。
「壁ドンって……ステージには壁ないし、パスしていいんじゃないかな」
「まぁ、監督代理がやれって言ったんだから、やるしかないだろ」
さすがとしか言えません。
この、受けの言うことは全部受け入れる!っていうスタンスが、溺愛攻めって感じするよな。
うん、やっぱり俺には、海渡くんの俳優並みの演技力に、ありえない勘違いする余地なんてないんだ。
「じゃあ、さっさとやっちゃおうか」
俺の呼びかけに、海渡くんのスイッチが入るのが分かった。
目を細めながらジリジリと追い詰められて、スクリーンからそれほど離れていないところに立っていたから、あっという間に背中がつく。
俺のすぐ横のスクリーンに海渡くんの手がつくと、一瞬で逃げ場を奪われたような恐怖に襲われた。
『ねぇ、どこ見てんの?俺だけ見ろって、何回言ったら分かんの?』
一段と低く、艶めいた声には、有無を言わせない狂気のようなものが滲んでいる。
これって……また『溺れる放課後』の壁ドンシーンのセリフそのままだ。
読んでいるときはあんなにキュンキュンしたのに、いざ自分がその立場になると背筋に冷たいものが走る。
「ん?優里、どうした?」
「か、海渡くん。……こ……怖い」
思わず海渡くんの胸に手をつく。
俺の横に伸びた腕がさっと離れて、同時に海渡くんの胸も離れた。
「ごめん!大丈夫?」
「うん、なんか俺、壁ドンはだめっぽい」
「分かった。もう絶対、二度とやらないから」
「ごめん、男のくせに情けないよな」
ははは、と笑った俺の目尻からちょびっとだけ涙がこぼれた。
俺の涙腺チョロすぎだろ。
海渡くんのせいじゃないのに。
海渡くんはこんなにがんばってるのに。
怖さと、情けなさと、ふがいなさと、よく分からない感情がごちゃまぜになって、ごまかすように自分の額に手を当てたとき――
俺の後頭部に手が添えられて、海渡くんの腕の中に引き寄せられた。
強い力じゃない。
優しく包みこまれるような温かさとにおいに、さっきまでの恐怖心があっという間に溶かされていく。
「海渡くん……?」
「俺のこと、怖がんないで」
海渡くんの声が震えている気がして、俺はなだめるように背中をたたいた。
「大丈夫、怖くないよ」
海渡くんの手も、俺の後頭部から背中にまわる。
冬馬くんのこともなにもかも忘れて、俺たちはしばらく抱きしめ合っていた。
……どうしてだろう。
海渡くんとこうして触れ合っていると、もう大丈夫だと思える。
このハグもカップルコンテストの練習だったら、海渡くんの演技だったら、やっぱり俳優を目指すべきなんじゃないか?
俺みたいな素人は簡単に騙されるだろうな。
……すごすぎるよ、海渡くん。
そんなことを考えていると、どこか遠くの方で下校のチャイムが静かに鳴った。
冬馬くんが分厚いカーテンを開けると、夕方のオレンジ色の光に包まれた。
一階にあるこの場所は校庭に面していて、外の音こそ聞こえないが、陸上部が練習している様子がよく見える。
見るとはなしに見ていると、突然、目の奥に火花が散ったような気がして首を傾げた。
「よぉし、練習するよ」
その掛け声に、俺の思考が暗闇に沈む。
なんだったんだ?今の。
なにか思い出しかけたような……。
長机に腰掛けた冬馬くんの、『溺れる放課後』をめくる手が止まった。
「まずは前回の復習からね。はい、寄って寄って〜」
「はーい、監督代理」
俺は横向きのままスススと近づいて、横目で海渡くんと目を合わせた。
海渡くんの真剣な目の奥が、夕日を受けて燃えるように光っている。
「優里」
「は、はい?!」
「名前、呼び捨てだろ?」
「あ、うん。……海渡」
「優里、優里、優里、優里、優里」
「か、海渡、海渡、海渡」
「うん、優里」
なんでだろう。
いつも呼ばれてる名前なのに、なんとなくいつもとは響きが違うような気がして、肩に力が入った。
「おっ、いいねぇ。昨日とは雲泥の差だ」
冬馬くんがメガホンをポンと叩いた。
百円ショップで買った、自前のメガホンだそうだ。
はりきっている。
「えっとね……次は手をつなぐ。はい、ど〜ぞ」
冬馬くんがそう言った途端、海渡くんがお昼休みと同じように俺の手首を掴んできた。
うん、あれは意外にもいい予習になったようだ。
ところが、冬馬くんはメガホンを口に当てて、非難するような声を響かせる。
「ちがぁう!掴むんじゃなくて、つなぐんだよ。手だよ」
「あ、そっか。確かにそうだな」
俺がそう言うと、海渡くんは黙ったまま頷いた。
手首から、手の甲をなでるようにして手のひらを合わせる。
触り方が優しすぎてくすぐったい。
冬馬くんの固唾を飲んで見守るような視線と、重なった熱い指先に、唇をキュッと引き結んだ。
誰かと手をつなぐなんて、小学生のとき以来かもしれない。
海渡くんは相変わらずの無表情だ。
「はい、海渡、すかさず恋人つなぎ!」
冬馬くんは目を離さないまま、つながった手を指差す。
海渡くんに負けず劣らずの真剣さ。
海渡くんは言われた通り、俺の手を開かせて指と指を絡ませると、隙間がないくらいにぴったりくっついた。
……なんだ、これ。
恥ずかしいのに心が浮き足立つような、ずっとこうしていたいような妙な安心感がある。
恋人つなぎなんて形だけのものかと思っていたけど、自分がすごく大切にされているんじゃないかと思えるくらい、特別な心地よさがあった。
恋人たちはいつもこんな幸せを感じているんだな。
海渡くんの手、いつもゴツゴツしてるなぁと思ってたけど、ちゃんと触ってみると意外と柔らかい。
長い親指がまるで染みついた癖のように、俺の親指の付け根をそっとなでた。
「そのまま目を合わせて!向かい合って両手で恋人つなぎ!」
冬馬くんの指導にも熱が入る。
海渡くんと向かい合って、反対の手も合わせると、さすがに汗をかいてきた。
いや、これくらいで怯んでちゃだめだ。
俺だってみんなの期待に応えないと。
おずおずと顔を上げて目線を合わせる。
「なんか、これヤバいね」
「まだ序ノ口じゃないか?」
「そっか。俺、手汗すごくない?ごめん、気持ち悪いでしょ」
「だから謝んなって。汗かいてんのは俺もだし、気持ち悪いなんて思うわけないだろ」
さっきまで無表情だった海渡くんの目元が、ほころぶように弓を描いた瞬間、俺の心臓がドクンと鳴る。
思わず手に力が入りそうになって、顔を俯けた。
海渡くんってすごい。
恋人がいるから慣れてるのかもしれないけど、この演技力には新人俳優賞を贈呈したい。
おかげで冬馬くんの目の前なのに、攻めに溺愛される自分を一瞬でも想像してしまった。
これが、誰かから特別に好かれるっていう感覚なのかな。
だったら、疑似でもそんな体験ができるのは、これが最初で最後だろう。
……俺、がんばろう。
そう思った矢先、ピロンと誰かのスマホが鳴って、反射的に手を離した。
汗をかいた手のひらにひんやりとした空気が触れて、一気に現実に引き戻される。
「ごめん、僕だ。あ、さっちゃん!」
「さっちゃんって?」
「さち」
食い入るようにスマホを見ている冬馬くんの代わりに、海渡くんが短く答えてくれた。
さっちゃんって、丸橋さんのことだったのか。
冬馬くんは小さく笑うと、きゅるきゅると目を輝かせた。
「二人ともいい感じだったよぉ。あとは自主練して。ちなみに次は壁ドンね。僕、用ができたから先に帰るわ〜。じゃあね、バイバイ」
「え?!ちょっと、冬馬くん?」
さっきまでのあの熱量はなんだったのか。
冬馬くんは長机からぴょんとジャンプすると、くせっ毛を揺らしながら走っていって、視聴覚室の重たいドアを片手で軽々と開けた。
バイバイする手を最後に、バタンとドアが閉まる。
残された俺たちの間には、ぎこちない沈黙が流れた。
冬馬くん、丸橋さんに呼ばれて大喜びで出ていったように見えたけど、彼氏の前であれはいいのか?
浮気現場に遭遇してしまったような気分だ。
海渡くんがさぞかし怖い顔をしているんじゃないかとおそるおそる見上げるけど、無表情を崩していなかった。
鋼のメンタルすぎる。
いや……そっか、丸橋さんだからか。
三人の間には特別な絆があるんだもんな。
「壁ドンって……ステージには壁ないし、パスしていいんじゃないかな」
「まぁ、監督代理がやれって言ったんだから、やるしかないだろ」
さすがとしか言えません。
この、受けの言うことは全部受け入れる!っていうスタンスが、溺愛攻めって感じするよな。
うん、やっぱり俺には、海渡くんの俳優並みの演技力に、ありえない勘違いする余地なんてないんだ。
「じゃあ、さっさとやっちゃおうか」
俺の呼びかけに、海渡くんのスイッチが入るのが分かった。
目を細めながらジリジリと追い詰められて、スクリーンからそれほど離れていないところに立っていたから、あっという間に背中がつく。
俺のすぐ横のスクリーンに海渡くんの手がつくと、一瞬で逃げ場を奪われたような恐怖に襲われた。
『ねぇ、どこ見てんの?俺だけ見ろって、何回言ったら分かんの?』
一段と低く、艶めいた声には、有無を言わせない狂気のようなものが滲んでいる。
これって……また『溺れる放課後』の壁ドンシーンのセリフそのままだ。
読んでいるときはあんなにキュンキュンしたのに、いざ自分がその立場になると背筋に冷たいものが走る。
「ん?優里、どうした?」
「か、海渡くん。……こ……怖い」
思わず海渡くんの胸に手をつく。
俺の横に伸びた腕がさっと離れて、同時に海渡くんの胸も離れた。
「ごめん!大丈夫?」
「うん、なんか俺、壁ドンはだめっぽい」
「分かった。もう絶対、二度とやらないから」
「ごめん、男のくせに情けないよな」
ははは、と笑った俺の目尻からちょびっとだけ涙がこぼれた。
俺の涙腺チョロすぎだろ。
海渡くんのせいじゃないのに。
海渡くんはこんなにがんばってるのに。
怖さと、情けなさと、ふがいなさと、よく分からない感情がごちゃまぜになって、ごまかすように自分の額に手を当てたとき――
俺の後頭部に手が添えられて、海渡くんの腕の中に引き寄せられた。
強い力じゃない。
優しく包みこまれるような温かさとにおいに、さっきまでの恐怖心があっという間に溶かされていく。
「海渡くん……?」
「俺のこと、怖がんないで」
海渡くんの声が震えている気がして、俺はなだめるように背中をたたいた。
「大丈夫、怖くないよ」
海渡くんの手も、俺の後頭部から背中にまわる。
冬馬くんのこともなにもかも忘れて、俺たちはしばらく抱きしめ合っていた。
……どうしてだろう。
海渡くんとこうして触れ合っていると、もう大丈夫だと思える。
このハグもカップルコンテストの練習だったら、海渡くんの演技だったら、やっぱり俳優を目指すべきなんじゃないか?
俺みたいな素人は簡単に騙されるだろうな。
……すごすぎるよ、海渡くん。
そんなことを考えていると、どこか遠くの方で下校のチャイムが静かに鳴った。



