オイルと木のにおいが鼻をつく。
傷だらけの大きな作業テーブルと、教室の端に乱雑にまとめられたキャンバス、ちょっと不気味な石膏像。
絵の心得なんてないし、成績は三しかとったことないけど、不思議と落ち着く空間だ。
カップルコンテストの練習はぜひ見学したいと冬馬くんが言って、放課後、俺たちは四人で美術室に集まった。
長澤はまるで舞台監督かのように、木の椅子に足を組んで座り、丸めた紙をメガホンにしている。
その左手には一冊の本。
「いんちょー、それなぁに?」
長澤の隣に座った冬馬くんが、目をキラキラさせた。
「練習するにあたっての参考文献だ。姉貴にすすめられた」
なんだよ、参考文献なんて堅苦しい言い方して、漫画じゃないか。
しかも、俺も読んだことがある、『溺れる放課後』というBL漫画だ。
目立たない地味な主人公が、学校一のイケメンクール男子と恋をする話で、最後にはタイトル通り、溺れそうなくらい愛される。
俺が溺愛系の作品ばかり見るようになってしまったきっかけの作品だった。
くっ……長澤のお姉さん、いいチョイスするなぁ。
どうやら俺の『長澤は仲間』思考は、お姉さんから生まれたものだったらしい。
「じゃあ、早速始めるぞー!」
長澤がメガホンを口に当てて、くぐもった声で叫ぶ。
「とりあえず、二人もっと寄れ」
前に立たされた俺と海渡くんとの距離は、五メートルくらいある。
おずおずと海渡くんと目を合わせると、お互いに一歩近寄った。
「それじゃ遠いぞ〜!もっともっと!」
そう言ったのは冬馬くんで、にこにこしながら拳を突き上げている。
いや、この人面白がってますやん!
曲がりなりにもあなたの彼氏さんですよ?
「ちょっ、と、冬馬くん……」
海渡くんは頭の後ろをかくと、冬馬くんの言葉に従うようにゆっくり歩いてきて、動かない俺の目の前で立ち止まった。
見つめられている気配に顔を上げられない。
いつも肩をぶつけられる距離にはいるけど、それは横並びの状態であって、正面からは慣れていない。
「よしよし。次は見つめ合って!」
もうやけくそになって、キッと睨むように見上げると、思った通り切れ長の二重がじっと俺を見ていた。
だけど、それはいつもの不機嫌な顔じゃなく、どこか真剣な表情で、黒目がかすかに揺れている。
はいはい、そんな表情もイケメンですね。
俺も真面目に練習しないとな。
「次、名前を呼ぶ!あ、呼び捨てな」
呼び捨て……!
こんなの、いつも俺を『優里』と呼ぶ海渡くんにとっては簡単すぎるじゃん。
俺なんかあとで関係各所から怒られそうなんだけど。
それなのに冬馬くんが、「いけいけー!」とまた煽ってくる。
ゴクリと唾を飲み込むと、震える唇を開いた。
もうどうにでもなれ!
「か、海渡……」
「………」
「えっと、海渡?」
落ちる沈黙にスーッと血の気が引いていく。
もしかしなくても嫌だったか。
強要された名前呼びだけど、そういえば呼び捨てまでは許可されてなかったかもしれない。
「あっ、ごめん、海渡くん」
見ているうちに海渡くんの目の周りが赤くなった。
やばっ、めちゃくちゃ頭に血が上ってる!
「本当にごめん」
「……優里、別に怒ってるわけじゃない」
「そ、そうなのか?」
いやいや、目は口ほどにものを言うってやつだ。
俺が一歩後退りすると、海渡くんは三歩下がって顔を俯けた。
肩をいからせて、体の横に下ろした腕の先は、関節が白くなるほど強く拳を握っている。
まぁ、そもそも嫌だよな。
演技とはいえ、彼氏の前で他の男と絡まないといけないなんて。
俺だって恥ずかしくて仕方ない。
長澤が紙のメガホンを叩くと、弱々しく掠れた音が鳴った。
「うーん、これはこれで初々しくていいけど、ちょっとぎこちないな」
「え〜、僕、すっごくいいと思いました!ドキドキしちゃった」
長澤が漫画の表紙をポンとたたいた。
「いや、女子が求めてるのはこれじゃないんだよなぁ。あと、ガチガチすぎる。特に春山」
「監督、まだまだ練習が必要なようですねぇ」
長澤は一体どこを見て『初々しい』なんて思ったのか?
俺はライオンに睨まれたうさぎのような気分で、さっきから汗が止まらない。
ところで、冬馬くんはどの立場で言ってるの?
アシスタントかなにか?
ずいぶんとのんきですねぇ……。
それほど海渡くんのことを信用してるってことなんだろうし、いかんせん相手が俺だからか。
「よし、春山。この本、姉貴が布教しろって言ってたから貸す。これ呼んで勉強してくれ」
「あ、あぁ」
海渡くんは素直に手を伸ばして、『溺れる放課後』を受け取り、パラパラとめくり出した。
ひぇ、海渡くんとBL漫画って、俺の違和感が仕事しまくってる。
「ふーん」
海渡くんのその反応はどっちなんだ?
冬馬くんと付き合ってるくらいなんだから、こういうのに抵抗はないと思いたいけど、BLはファンタジーと評されることもあるし、好きな作品を否定されたらちょっとヘコむかも。
海渡くんはパタンと本を閉じると、なにも言わずに表紙をじっと見つめた。
頬を染めて見つめ合う二人の絵は、水彩画みたいな優しいタッチで、そこがまたエモいんだ。
「そ、その本、俺も読んだけどけっこう面白いよ。参考になると思う」
「優里、こういうのが好きなのか?」
「え?うん、まぁ、好きだな」
「……へぇ」
無表情な海渡くんから、心の内は一つも読み取れなかった。
「今日はここまでだな。また明日、と言いたいところなんだが、俺は委員会があるんだ。またどこかの教室とっておくから、明日は三人で練習してくれ。じゃ、お疲れ」
そう言いながら長澤が俺の方に歩いてくる。
硬そうな分厚い手を伸ばしてきたとき、海渡くんが正面からすばやく俺の両腕を引いた。
さっきの練習のときよりもずっと近くて、俺の口が海渡くんの右肩にぶつかると、思わず息が止まる。
海渡くんはその体制のまま、目だけを長澤に向けた。
「長澤、抱きつかないって条件だったよな?まさか、パートナーが変わったからって無効じゃないだろ?」
「ん?今のはただのねぎらいだろう」
「やめろ。優里に触るな」
「おう?悪かったな。今のはいい感じだったぞ。その調子でがんばれよ。はっはっは!」
長澤の手が海渡くんの背中をバンバン叩くと、かすかに触れ合う胸から振動が伝わる。
絵の具の独特なにおいよりも、どこか安心するあのにおいに満たされる。
長澤は豪快に笑いながら美術室を出ていった。
まさか、あの海渡くんが助けてくれたのか?
そういえば、冬馬くんに長澤から俺を守るよう言われてたもんな。
「海渡くん、背中大丈夫?」
「くそ!あの筋肉バカ」
見上げた海渡くんの顔はまさに『溺れる放課後』の攻めそのものだし、長澤に筋肉攻撃を受けそうになった余韻もあってか、俺の鼓動が早くなったのも仕方ない。
「ひゅ〜、海渡かっこいい〜」
それなのに、口笛を吹くまねをしてそう言った冬馬くんの顔を、俺はなぜか見ることができなかった。
傷だらけの大きな作業テーブルと、教室の端に乱雑にまとめられたキャンバス、ちょっと不気味な石膏像。
絵の心得なんてないし、成績は三しかとったことないけど、不思議と落ち着く空間だ。
カップルコンテストの練習はぜひ見学したいと冬馬くんが言って、放課後、俺たちは四人で美術室に集まった。
長澤はまるで舞台監督かのように、木の椅子に足を組んで座り、丸めた紙をメガホンにしている。
その左手には一冊の本。
「いんちょー、それなぁに?」
長澤の隣に座った冬馬くんが、目をキラキラさせた。
「練習するにあたっての参考文献だ。姉貴にすすめられた」
なんだよ、参考文献なんて堅苦しい言い方して、漫画じゃないか。
しかも、俺も読んだことがある、『溺れる放課後』というBL漫画だ。
目立たない地味な主人公が、学校一のイケメンクール男子と恋をする話で、最後にはタイトル通り、溺れそうなくらい愛される。
俺が溺愛系の作品ばかり見るようになってしまったきっかけの作品だった。
くっ……長澤のお姉さん、いいチョイスするなぁ。
どうやら俺の『長澤は仲間』思考は、お姉さんから生まれたものだったらしい。
「じゃあ、早速始めるぞー!」
長澤がメガホンを口に当てて、くぐもった声で叫ぶ。
「とりあえず、二人もっと寄れ」
前に立たされた俺と海渡くんとの距離は、五メートルくらいある。
おずおずと海渡くんと目を合わせると、お互いに一歩近寄った。
「それじゃ遠いぞ〜!もっともっと!」
そう言ったのは冬馬くんで、にこにこしながら拳を突き上げている。
いや、この人面白がってますやん!
曲がりなりにもあなたの彼氏さんですよ?
「ちょっ、と、冬馬くん……」
海渡くんは頭の後ろをかくと、冬馬くんの言葉に従うようにゆっくり歩いてきて、動かない俺の目の前で立ち止まった。
見つめられている気配に顔を上げられない。
いつも肩をぶつけられる距離にはいるけど、それは横並びの状態であって、正面からは慣れていない。
「よしよし。次は見つめ合って!」
もうやけくそになって、キッと睨むように見上げると、思った通り切れ長の二重がじっと俺を見ていた。
だけど、それはいつもの不機嫌な顔じゃなく、どこか真剣な表情で、黒目がかすかに揺れている。
はいはい、そんな表情もイケメンですね。
俺も真面目に練習しないとな。
「次、名前を呼ぶ!あ、呼び捨てな」
呼び捨て……!
こんなの、いつも俺を『優里』と呼ぶ海渡くんにとっては簡単すぎるじゃん。
俺なんかあとで関係各所から怒られそうなんだけど。
それなのに冬馬くんが、「いけいけー!」とまた煽ってくる。
ゴクリと唾を飲み込むと、震える唇を開いた。
もうどうにでもなれ!
「か、海渡……」
「………」
「えっと、海渡?」
落ちる沈黙にスーッと血の気が引いていく。
もしかしなくても嫌だったか。
強要された名前呼びだけど、そういえば呼び捨てまでは許可されてなかったかもしれない。
「あっ、ごめん、海渡くん」
見ているうちに海渡くんの目の周りが赤くなった。
やばっ、めちゃくちゃ頭に血が上ってる!
「本当にごめん」
「……優里、別に怒ってるわけじゃない」
「そ、そうなのか?」
いやいや、目は口ほどにものを言うってやつだ。
俺が一歩後退りすると、海渡くんは三歩下がって顔を俯けた。
肩をいからせて、体の横に下ろした腕の先は、関節が白くなるほど強く拳を握っている。
まぁ、そもそも嫌だよな。
演技とはいえ、彼氏の前で他の男と絡まないといけないなんて。
俺だって恥ずかしくて仕方ない。
長澤が紙のメガホンを叩くと、弱々しく掠れた音が鳴った。
「うーん、これはこれで初々しくていいけど、ちょっとぎこちないな」
「え〜、僕、すっごくいいと思いました!ドキドキしちゃった」
長澤が漫画の表紙をポンとたたいた。
「いや、女子が求めてるのはこれじゃないんだよなぁ。あと、ガチガチすぎる。特に春山」
「監督、まだまだ練習が必要なようですねぇ」
長澤は一体どこを見て『初々しい』なんて思ったのか?
俺はライオンに睨まれたうさぎのような気分で、さっきから汗が止まらない。
ところで、冬馬くんはどの立場で言ってるの?
アシスタントかなにか?
ずいぶんとのんきですねぇ……。
それほど海渡くんのことを信用してるってことなんだろうし、いかんせん相手が俺だからか。
「よし、春山。この本、姉貴が布教しろって言ってたから貸す。これ呼んで勉強してくれ」
「あ、あぁ」
海渡くんは素直に手を伸ばして、『溺れる放課後』を受け取り、パラパラとめくり出した。
ひぇ、海渡くんとBL漫画って、俺の違和感が仕事しまくってる。
「ふーん」
海渡くんのその反応はどっちなんだ?
冬馬くんと付き合ってるくらいなんだから、こういうのに抵抗はないと思いたいけど、BLはファンタジーと評されることもあるし、好きな作品を否定されたらちょっとヘコむかも。
海渡くんはパタンと本を閉じると、なにも言わずに表紙をじっと見つめた。
頬を染めて見つめ合う二人の絵は、水彩画みたいな優しいタッチで、そこがまたエモいんだ。
「そ、その本、俺も読んだけどけっこう面白いよ。参考になると思う」
「優里、こういうのが好きなのか?」
「え?うん、まぁ、好きだな」
「……へぇ」
無表情な海渡くんから、心の内は一つも読み取れなかった。
「今日はここまでだな。また明日、と言いたいところなんだが、俺は委員会があるんだ。またどこかの教室とっておくから、明日は三人で練習してくれ。じゃ、お疲れ」
そう言いながら長澤が俺の方に歩いてくる。
硬そうな分厚い手を伸ばしてきたとき、海渡くんが正面からすばやく俺の両腕を引いた。
さっきの練習のときよりもずっと近くて、俺の口が海渡くんの右肩にぶつかると、思わず息が止まる。
海渡くんはその体制のまま、目だけを長澤に向けた。
「長澤、抱きつかないって条件だったよな?まさか、パートナーが変わったからって無効じゃないだろ?」
「ん?今のはただのねぎらいだろう」
「やめろ。優里に触るな」
「おう?悪かったな。今のはいい感じだったぞ。その調子でがんばれよ。はっはっは!」
長澤の手が海渡くんの背中をバンバン叩くと、かすかに触れ合う胸から振動が伝わる。
絵の具の独特なにおいよりも、どこか安心するあのにおいに満たされる。
長澤は豪快に笑いながら美術室を出ていった。
まさか、あの海渡くんが助けてくれたのか?
そういえば、冬馬くんに長澤から俺を守るよう言われてたもんな。
「海渡くん、背中大丈夫?」
「くそ!あの筋肉バカ」
見上げた海渡くんの顔はまさに『溺れる放課後』の攻めそのものだし、長澤に筋肉攻撃を受けそうになった余韻もあってか、俺の鼓動が早くなったのも仕方ない。
「ひゅ〜、海渡かっこいい〜」
それなのに、口笛を吹くまねをしてそう言った冬馬くんの顔を、俺はなぜか見ることができなかった。



