【勇者×偽物】~離婚は半年後の予定です~


一階の廊下の先、両開きの図書室の扉の前で、アキアがきゅっと振り返った。
膝下のエプロンドレスの裾を直しながら、息を整えて笑っている。

「ほっ!追ってこなくてよかったですね、奥さま!」
「はぁ、はぁ、お、おう……」

若い女性の体力をバカにしていたわけではないが……と、ジノが肩で息をする。
邸の中を全力疾走するのに、こんなに息が切れることがあるのか。
大体、こういう邸宅の中って普通走ったりしないんじゃなかろうか、と思うものの……頼んだのは自分である。

顔を上げて、改めてアキアに向き合う。

「ありがとな、そんでさ、あのさ、……その"奥さま"ってのはやめられないのか……?」

ジノの困り顔に、きょとん、とアキアの目がまん丸くなった。あー……、と小さく笑ったのち、こちらも困ったように人差し指を立てた。

「アキアは"ジノ様"でもいいんですがね、姉のミルヴァに叱られますよ。奥さまが」
「おっ、俺が……?」
「ええ。『奥様としての自覚をうんたらかんたら~』って」

申し訳なさそうに笑いながらも、図書室の扉を開けるアキア。
けれどその横顔には、先ほどとは打って変わって、どこか安心させるような気配があった。



――ギッ、と重い扉が開いて、紙と古木の香りがジノの肌に触れた。

図書室の中は静かで、高い書架には本が整然と並び、薄い木漏れ日が窓から差し込んでいる。書物の香りと陽だまりの空気が入り混じる、まるで別世界のような空間。

「ここなら……、ふふ、リック様は読書が嫌いなので、来ないかと」
「ああ……、……」

ジノが無言で椅子に腰を下ろすと、アキアはそっとお茶の用意に向かう。
その背に目をやりながら、ジノの肩の力がようやく――ほんの少しだけ、抜けていった。

騒がしく、濃く、どうしようもなく温かい"家庭"の中で。
詐欺師は、逃げ場のような隠れ場所に、今日初めてたどり着いた。


――しん、と、静寂。

さっき、ジノ、と名前を叫んで追ってくるかと思われた勇者も、去り際にちらりと視線をやれば、楽しそうに笑っていた。

ひとつ、ため息。

(……なんで俺ここにいるんだ……?)

それは、過程の話ではなく、そもそもの存在として。
自分は詐欺師で罪人で、勇者の名を(かた)って捕らえられていたはずで。
結婚だなんだと言われて、半年経っても無理だったら出てってもいいと言われて。

「…………」

床に敷かれた厚い絨毯。書き物机と椅子が二脚。
西の壁には庭を望める窓がついており、陽がちょうどそこから差している。

腰を上げて、窓辺へ。庭に目をやれば、エンがセノールと並んで花壇の手入れをしていて……ぼやりと、それを眺めた。

――執事は、上級職じゃないのか。……庭師は、そうじゃない。けれど、今もにこやかに世間話をしながら、ああやって庭いじりをしている。

ドマは、まぁやや荒い口調だった。アキアは、ああして主人に逆らって笑っている。
ミルヴァもそれを見て、咎めるでもなく見逃してくれた。

それを、ただ笑ってよしとしているような、勇者。


(……変な家だな)

窓枠に手をかけ、開ける。キィ、と小さな音がして、気持ちのいい風が舞い込んだ。
ざわ、と庭の低木が揺れる音がする。草の匂いも少々。


「おやジノ様、図書室ですか」

窓の音に振り返ったセノールが、穏やかに笑う。エンも、つばの広い帽子を押さえている。朴訥で、無表情のようでいて、口元に小さな笑みが見えた。
木枠に肘をかけて、――ジノも眉を下げて口元を緩める。

「……アイツから逃がしてもらいました」
「ほほ、それはよろしいことで。ごゆっくりなさってください」


ガチャ、と背後で音がして振り返れば、アキアがお茶を持ってきたところ。窓辺で庭を見やるジノに、もう一つ笑顔を向ける。

「奥さま、リック様より言伝(ことづて)です」
「な、なんだよ……」
「『会えない時間が愛を育むよね!♡』とのことでした」

……ジノ、頭を抱える。ごゆっくりなんてできないかもしれない。頭が頭痛で痛い。
気を紛らわすように、パッと顔を上げた。アキアが書き物机にお茶を置いてくれたので、そこへ腰かけながら、聞いてみる。

「そうだ、俺よくわかんないんだけど、……使用人の数って普通はこのくらいなのか?」
「いいえ、めちゃ少ないです!」
「だ……だよな?」

返ってきた答えに、ジノもややほっとする。自分が無知なわけではなかったようだ。

「もとは国王陛下が、少なくとも十二人はいないと、ってリック様に掛け合ったそうなのですが」
「十二人……」
「リック様が、"一人もいらない"と駄々をこねたらしく」

それは果たして"駄々"なのか……?頷きながら、ジノが言葉の続きを待つ。

「もう折衷案です。必要最低限で、五人」
「それで……屋敷が回るんだな……みんながすごいんだな?」
「まぁ、ありがとうございます!ですが、リック様がお掃除、お洗濯、お料理をやりたがるっていうのも大きいですかね。我々としては、仕事をとられる形にはなるんですが」

ふふっ、とアキアが笑う声で、ジノも思わず口角を緩めた。明るく快活だったその声は、図書室という隠れ場所に合わせ、今は控えめで柔らかい。
口にした紅茶は、少し渋めでジノの好みに合う。ここまでの使用人たちの態度で、不服ながらも、アレが大切にされている主人だとわかってしまう。

「そうだ、奥さまからも言ってくださいよ。使用人の仕事とるなーって。ついでにもうちょっと使用人増やせーって!」
「いや俺そんな権限ないよ」
「ありますよ、奥さまなんですから」


サァッと風が芝生を撫でる音がして、庭を渡って来た一陣は、そのまま図書室へと流れ込んできた。
……少し困った顔をして、小さな音を立てながら、ジノがカップを受け皿に置けば――アキアも小さく笑ったままだった。

「なーんにも執着しなかったリック様が、唯一連れてきたのが奥さまなんです。我々は、嬉しいですよ」
「…………そーかい」
「ええ、そーです」

……どうにもやりようのない困惑が、一拍、……二拍。

「……俺、アイツより年上なんだけど」
「多分気にしてないですね」
「……、……子ども、産めないけど」
「それリック様に言ったら、『視野に入れてくれてるの!?』って襲われますからね」
「んぐっ……!!」

思わず、あぶねぇ!と、詰まった息を整える。
今の助言は助かった。本当に助かった。"結婚相手に適さないぞ"の意味合いで、ポロっとリックの前で言ってしまいそうですらあった。

「あ、ありがとうアキア……!」
「うふふ、いいえ」

穏やかな話し声と心地の良い風は、少しずつ、ジノの居場所を形作っていった。
背中を丸めたジノに、アキアの声がやさしくかかる。

「図書室の扉、開けておきますね。風、通したほうが気持ちいいですから」

そのまま軽やかな足取りで、栗色の髪は部屋を出ていった。

しん――と、また静寂が戻る。
開かれた窓から風が通り抜け、書架の隙間に染みわたる。

"らしくない場所"のはずだった。なのにどうしてだろう――心だけは、少し休まっていた。