「ノア」
翌日、俺は冷たい腹の奥底を必死に堪えて話しかけた。
「放課後、英語のスピーチについて教えてくれない?」
するとノアは一瞬黙った。その、一瞬がすごく怖い。でも、ノアはすぐに「いいよ」と言って教科書とノートをとんとんと端を揃えた。
「日本語の原稿はできたの」
「……未完成だけど」
「じゃあとりあえずそれだけでも英語に直すか」
ノアがそう言って承諾してくれたので、ほっとする。でも、まだ腹の奥がざわざわ言っている。
――相手に伝えることが大切です。
そうだ、俺から話しかけなきゃダメなんだ。メッセージも最初はノアからばっかりだった。それから、自分から送ることにした。今も同じだ。
放課後の教室で、俺が「異文化交流で学んだこと」と題した原稿をノアに見せると、ノアはその原稿をじっと眺めた。
沈黙が、怖い。前のノアだったら、「こんなのつまんない」とか「固すぎる」とか言いそうなのに、その感想もない。
「――まあ、いいんじゃない?」
しばらくして、ノアはそう言った。
「これが涼介の言いたいことなんだったら、オレがそれを直す必要はない」
俺が、言いたいこと。……本当に言いたいのは。
そこまで考えたとき、ノアがふうと小さく息をついて、原稿を机に置いた。
「じゃあ最初から訳してく?」
「えっと、これを直訳するんじゃなくて、こういう内容の簡単な英語にしてほしい。このまんまだと……固すぎるって、前にノアも言ってたし」
一言付け加えて、ノアをちらっと見る。ノアは「Huh.」と素っ気なく相槌を打って、シャーペンを取り出した。俺も電子辞書を叩いて知らない単語の発音を確認し、ひたすら原稿を訳していく。
教室にはシャーペンの動く音と電子辞書を叩く音だけが響く。――ノア、どうして態度を変えたの? そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「これでいい」
最後の文を英語に直すと、ノアがそう言った。はっとする。結局ノアに肝心なことを聞けなかった。
「えっと、ノア」
慌てて呼びかけたが、ノアはさっとペンケースを鞄にしまって立ち上がった。
「残りの原稿も頑張って」
それじゃあ。そんな言葉だけ残して、ノアはコートを手に教室を出ていった。思わず俯く。ありがとうの一言さえ伝えられなかった。
だが、すぐに頭を振る。また原稿を考えて、ノアに話しかけよう。自分から行くって決めたんだから。
そのあと教室に残って原稿の続きを書き、翌日は休み時間に「ノア」と話しかけた。
「昨日の続き書いたんだけど」
「早い。どうなった?」
俺が原稿を見せると、ノアは身を乗り出してきて、さらさらっとシャーペンを走らせる。ノアから伝わってくる熱が懐かしい。俺は「ありがと」と言って、次の休み時間にまた原稿を書き、またノアに見せた。
家に帰って電子辞書の発音を繰り返し聞いて、ノアが訳してくれた文の発音を練習する。でも、どこで息継ぎすればいいのか分からない。
「ノア」
翌日、終礼の前に思い切って言う。
「今日の放課後も教えてくれない? 発音とか分からないところも出てきて」
「オレ、試験勉強をしたいから三十分でいい?」
「充分だよ。ありがとう」
すると、ノアがちらっと歯を見せて苦笑するように笑った。
「涼介、試験前なのに大変だ」
心にぱっと熱が散った。
ノアが名前を呼んでくれた。笑顔を向けてくれた。
思わず、「だって頼まれちゃったし」と答えてしまう。
「涼介は嫌なことを嫌って言えない」
「そうだけど、ここまで来たら仕方ないじゃん。やるしかない」
「そういうところ、涼介は真面目」
「……せっかく、ノアも手伝ってくれてるんだし、最後まで頑張りたい」
思い切ってノアの名前を出すと、ノアはぱちぱちっと二、三回瞬きをしてから、小さくふふっと笑った。
「手伝うなんて、大袈裟だ。英語に直してるだけだよ」
ノアがまた笑ってくれた。頬が熱くなる。
そのまま教室に残って英語に取り組む。貴重な三十分だ。なのに、ノアと普通に話したくて、無駄にしゃべりかけてしまう。
「……culture. ここで一回区切ればいい?」
「そう。cultureってもう一回発音してみて」
「culture」
「Okay.次」
ノアは淡々と言って次の文を英訳する。
……前だったら、「Good!」「今のよかった」とか大袈裟に褒めてくれただろうな。あっさりとした対応がまだ寂しい。
また次の文を見る。……あれ、短い。俺にもできそう。
「これ、俺が英語にしてみていい?」
「もちろん」
えっと、これはI think から始めればいいのかな。電子辞書で単語を調べて書いてみる。
「Perfect!」
突然ノアが声を大きくしたのでびくっとした。
「すごい。英語合ってるよ!」
「え、ホント?」
「うん! 涼介、さすが!」
一瞬前のノアが戻ってきた。ノアもはっとしたのか、すぐに笑顔を引っ込める。だが、ちらっとノアを見ると、ノアもこちらを見ていた。お互い同時に照れて笑う。
放課後の教室に以前の空気が少し漂った。ノアに褒められたのが嬉しくて、「次もやりたい」と辞書を引く。
次の一文も書いてみる。シャーペンがさらさらと動いて、手を止めた。
「……なんか、俺にもできそう」
「なにが?」
「英語が。授業でやってるときは、日本語をそのまま英語にしなきゃいけないと思ってた。でも、言いたいことを簡単にすれば、俺でも英語にできるかも」
「できるよ。完璧な英語じゃなくても通じればいいって前に言った」
「……なんのときだっけ」
「Oh, あんなに星の王子さまを教えたのに覚えてない」
ノアがオーバーに肩をすくめ、笑った。口を開けて、前みたいにははっと笑う。
ノアが、笑ってくれた。嬉しい。英語のスピーチ、頑張ってみたい。ノアに言われると、本当にできるかもしれないと思えてくる。
翌日、俺は冷たい腹の奥底を必死に堪えて話しかけた。
「放課後、英語のスピーチについて教えてくれない?」
するとノアは一瞬黙った。その、一瞬がすごく怖い。でも、ノアはすぐに「いいよ」と言って教科書とノートをとんとんと端を揃えた。
「日本語の原稿はできたの」
「……未完成だけど」
「じゃあとりあえずそれだけでも英語に直すか」
ノアがそう言って承諾してくれたので、ほっとする。でも、まだ腹の奥がざわざわ言っている。
――相手に伝えることが大切です。
そうだ、俺から話しかけなきゃダメなんだ。メッセージも最初はノアからばっかりだった。それから、自分から送ることにした。今も同じだ。
放課後の教室で、俺が「異文化交流で学んだこと」と題した原稿をノアに見せると、ノアはその原稿をじっと眺めた。
沈黙が、怖い。前のノアだったら、「こんなのつまんない」とか「固すぎる」とか言いそうなのに、その感想もない。
「――まあ、いいんじゃない?」
しばらくして、ノアはそう言った。
「これが涼介の言いたいことなんだったら、オレがそれを直す必要はない」
俺が、言いたいこと。……本当に言いたいのは。
そこまで考えたとき、ノアがふうと小さく息をついて、原稿を机に置いた。
「じゃあ最初から訳してく?」
「えっと、これを直訳するんじゃなくて、こういう内容の簡単な英語にしてほしい。このまんまだと……固すぎるって、前にノアも言ってたし」
一言付け加えて、ノアをちらっと見る。ノアは「Huh.」と素っ気なく相槌を打って、シャーペンを取り出した。俺も電子辞書を叩いて知らない単語の発音を確認し、ひたすら原稿を訳していく。
教室にはシャーペンの動く音と電子辞書を叩く音だけが響く。――ノア、どうして態度を変えたの? そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「これでいい」
最後の文を英語に直すと、ノアがそう言った。はっとする。結局ノアに肝心なことを聞けなかった。
「えっと、ノア」
慌てて呼びかけたが、ノアはさっとペンケースを鞄にしまって立ち上がった。
「残りの原稿も頑張って」
それじゃあ。そんな言葉だけ残して、ノアはコートを手に教室を出ていった。思わず俯く。ありがとうの一言さえ伝えられなかった。
だが、すぐに頭を振る。また原稿を考えて、ノアに話しかけよう。自分から行くって決めたんだから。
そのあと教室に残って原稿の続きを書き、翌日は休み時間に「ノア」と話しかけた。
「昨日の続き書いたんだけど」
「早い。どうなった?」
俺が原稿を見せると、ノアは身を乗り出してきて、さらさらっとシャーペンを走らせる。ノアから伝わってくる熱が懐かしい。俺は「ありがと」と言って、次の休み時間にまた原稿を書き、またノアに見せた。
家に帰って電子辞書の発音を繰り返し聞いて、ノアが訳してくれた文の発音を練習する。でも、どこで息継ぎすればいいのか分からない。
「ノア」
翌日、終礼の前に思い切って言う。
「今日の放課後も教えてくれない? 発音とか分からないところも出てきて」
「オレ、試験勉強をしたいから三十分でいい?」
「充分だよ。ありがとう」
すると、ノアがちらっと歯を見せて苦笑するように笑った。
「涼介、試験前なのに大変だ」
心にぱっと熱が散った。
ノアが名前を呼んでくれた。笑顔を向けてくれた。
思わず、「だって頼まれちゃったし」と答えてしまう。
「涼介は嫌なことを嫌って言えない」
「そうだけど、ここまで来たら仕方ないじゃん。やるしかない」
「そういうところ、涼介は真面目」
「……せっかく、ノアも手伝ってくれてるんだし、最後まで頑張りたい」
思い切ってノアの名前を出すと、ノアはぱちぱちっと二、三回瞬きをしてから、小さくふふっと笑った。
「手伝うなんて、大袈裟だ。英語に直してるだけだよ」
ノアがまた笑ってくれた。頬が熱くなる。
そのまま教室に残って英語に取り組む。貴重な三十分だ。なのに、ノアと普通に話したくて、無駄にしゃべりかけてしまう。
「……culture. ここで一回区切ればいい?」
「そう。cultureってもう一回発音してみて」
「culture」
「Okay.次」
ノアは淡々と言って次の文を英訳する。
……前だったら、「Good!」「今のよかった」とか大袈裟に褒めてくれただろうな。あっさりとした対応がまだ寂しい。
また次の文を見る。……あれ、短い。俺にもできそう。
「これ、俺が英語にしてみていい?」
「もちろん」
えっと、これはI think から始めればいいのかな。電子辞書で単語を調べて書いてみる。
「Perfect!」
突然ノアが声を大きくしたのでびくっとした。
「すごい。英語合ってるよ!」
「え、ホント?」
「うん! 涼介、さすが!」
一瞬前のノアが戻ってきた。ノアもはっとしたのか、すぐに笑顔を引っ込める。だが、ちらっとノアを見ると、ノアもこちらを見ていた。お互い同時に照れて笑う。
放課後の教室に以前の空気が少し漂った。ノアに褒められたのが嬉しくて、「次もやりたい」と辞書を引く。
次の一文も書いてみる。シャーペンがさらさらと動いて、手を止めた。
「……なんか、俺にもできそう」
「なにが?」
「英語が。授業でやってるときは、日本語をそのまま英語にしなきゃいけないと思ってた。でも、言いたいことを簡単にすれば、俺でも英語にできるかも」
「できるよ。完璧な英語じゃなくても通じればいいって前に言った」
「……なんのときだっけ」
「Oh, あんなに星の王子さまを教えたのに覚えてない」
ノアがオーバーに肩をすくめ、笑った。口を開けて、前みたいにははっと笑う。
ノアが、笑ってくれた。嬉しい。英語のスピーチ、頑張ってみたい。ノアに言われると、本当にできるかもしれないと思えてくる。


