そのとき、シャーペンを放り出した俺の右手にノアの温かい手が触れた。顔をあげると、ノアがいつもより困ったような顔をしている。
「……英語嫌いって、ちょっと寂しい」
あ。
しまった。アメリカ人に言うことじゃなかった。俺、デリカシーなさすぎ。
ノアが俺の右手に手を重ねてくる。
「涼介、英語は完璧に分かんなくてもいい。相手がなにかを伝えたいって分かることが大事」
ノアが静かに続けた。
「昨日オレたちに話しかけてきた人も、完璧な英語じゃなかった。英語圏の人じゃなかった」
「えっ、そうだったの?」
「うん。でも、なにが言いたいかは分かった。だから答えた。言語ってそういうものだろ?」
言葉に詰まった。
最初の日に「マジでってなに?」と聞いてきたノアを思い出す。すぐにその場で使って覚えて、フリック入力だって練習していた。
ノアが分からなくてためらったことなんて一回もなかった。
……ノア、努力家だ。まだ十六歳なのに、しっかりしてる。俺、かっこ悪いじゃん。
「……ノアってたまに大人っぽい」
「あっ、オレを年下だと思って馬鹿にしてる!」
「馬鹿にはしてないけど。でも年下じゃん」
「でも子供じゃない。アメリカでもみんなより年下。日本でも年下。どこ行っても同じ」
きゅっと寄った眉を見て、なんだか悪いことをした気分になった。ノアには嫌なことなんだ。
そこでノアが手を離して本を手に取った。急に手が涼しくなる。……なんか、手、あったかかった。
「……でも、この本は難しいよ」
「ええー、今から別の本を読むのやだ」
「じゃあ、涼介は日本語で理解するのを頑張れ」
ノアがいつも通り悪そうな顔でにやっとした。放課後の教室にいつもの雰囲気が戻ってくる。
「逆に涼介に聞きたいことがある」
「えっなに?」
ノアが鞄からプリントを取り出した。
「みんながレポートを書くから、オレにも課題が出た。日本に来て驚いたこととか不思議だと思ったこととか、留学して気づいたことについてクラスでスピーチをしろって言われた」
「実際日本に来て驚いたことはあるでしょ」
ノアはちょっと考えるような顔をした。
「学校は憧れの世界そのものだけど、不思議なこともある。授業の始まりに、起立礼着席って言うのも驚いた。なんでいちいち立ち上がってから座るんだろうって感じた」
「へえ、疑問に思ったこともなかった」
「学校を自分たちで掃除するのも驚いた。アメリカには清掃員の人がいる。オレが嬉しかったのはやっぱり制服。学校に来て同じ靴に履き替えると全員お揃いになる」
お揃い。ちょっとおもしろい視点だ。確かに、なんで同じ上履きを履くんだろう。
ノアはあれこれと日本の不思議について話した。俺のレポートと違って、話題には困らなさそうだ。まあ、ノアなら簡単にスピーチ原稿を作れるだろう。
それから、部活のない放課後は二人で課題に取り組んだ。
俺は英語とにらめっこ。ノアは英語で走り書きをしていて、たまに日本語を交ぜている。
「涼介、驚いたってどう書くの。辞書の字、小さすぎて分かんない」
「それ、画数が多いじゃん。ひらがなでよくない?」
「でも、オレは漢字で書きたい」
俺がルーズリーフ一枚に大きく「驚」を書くと、ノアは必死にそれを写した。
……でかい。まっすぐな線と曲がる線の区別がついてない。いや、それは俺の字が悪いのか?
でも、本人は満足そうだ。
「ノア、俺のこれもちょっと見て」
「どれ? ああ、それは」
俺のノートには英語が、ノアのノートには慣れない日本語が増えていく。
なんか、英語をやるのもいいって、初めて思ったかも。ノアとやるとちょっと楽しい。
俺は呑気にそんなことを考えていた。だから、ノアのスピーチ当日が来るまで、ノアがなにを発表するのかまったく気にしていなかった。
「じゃあ、新見、スピーチを」
「はい」
ガタ。ロングホームルームでノアが名指しされ、立ち上がる。教壇にあがる姿も堂々としていて、みんなも興味津々だ。
ノアは原稿を教卓に置くと、すっと息を吸った。
「僕が日本に来て一番驚いたのは日本語についてです」
……ん? そんなこと言ってたっけ?
俺がおやと思ってノアを見ると、ちょうど目が合った。にやっと笑う。その瞬間、嫌な予感がした。だが、ノアはそのまましゃべりだす。
「僕は隣の席の嵯峨君とよくしゃべります。でも、嵯峨君の日本語は本当に驚くことばかりです。嵯峨君の日本語はおかしいんです。ある日の昼休み、先生がプリントを配ってくれと嵯峨君に頼みました。嵯峨君は英語が苦手で、小テストのために勉強しなければいけませんでした。僕が大丈夫か聞くと、大丈夫と言いました。全然大丈夫そうじゃありませんでした」
俺が目を剥いた瞬間、ひとりがぷはっと噴き出した。
「あと、別にの使い方も不思議です。嵯峨君はよく僕に怒ります。怒ってるときに『別に』を使うことが多いです。別にいいのかと思ったのに、全然よくないみたいです」
クラス中がどっと沸き返った。教壇の横で椅子に座っている先生まで下を向いて笑っている。
「嵯峨君がまあいいけどと言うときも、だいたいよくありません。嵯峨君の日本語が一番難しいです。思ってることと言ってることが反対になることがあります。なんで嵯峨君は回りくどいのでしょうか。本人に聞いても、『別に』って言うに決まってます」
「ちょっと!」
思わず声をあげたが、周りが「まあまあ」と笑いながら宥めてくる。顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。
「最初は天邪鬼ってやつなのかと思いました。でも、僕がちょっと英語をしゃべったらすごいと興奮してました。素直なのか回りくどいのか、どっちなんでしょうか」
俺の公開処刑が始まった。でも、ノアのスピーチは真面目な時間だ。どこで止めていいのか、なにに突っ込んでいいのか分からない。クラスメイトはケラケラ笑っている。
「多分、今も頭の中でなにを言おうか考えてると思います。素直にやめろと言うのか――いや、別に平気だし! なんて強がろうとしてるのかもしれません。このスピーチが終わったあと、嵯峨君がなにを言うのか楽しみです。以上でスピーチを終わります」
教室は割れんばかりの拍手で埋め尽くされた。突っ伏してるのは俺だけ。日本に来て驚いたことについて発表するスピーチなのに、なんで俺の話なんだよ。
ノアが悪い顔で隣へ戻ってくる。ドーベルマン! 飼い主で遊ぶなって言ってんだろ!
「なんでそんなこと言うんだよ!」
思わず腹から声が出た。ノアが頬杖をついてにやりとする。
「べっつに~」
別にの使い方うますぎだろ! もう、ガチでムカつく!!
それから俺は一日中からかわれた。委員長っておもしろいんだね、なんて言われたけど、めちゃくちゃ恥ずかしい。さらっと英語が苦手なのもバラされたから、内部進学のレポート難しくない? なんて話まで振られる始末。
「じゃあ涼介、また明日ー!」
帰りの分かれ道、ノアは元気に手を振って帰っていった。その楽しそうな背中を見つめる。
……多分、今日の夜もまたぽんぽんスマホが鳴るんだろう。前ならうるさいって途中から無視してたのに、今は――まあいいけど。
ノアのスピーチが頭に蘇って、顔が熱くなる。
クソ、なんであいつは俺のことばっかり観察してんだよ。
その熱を振り切るように、俺は駆け出した。
「……英語嫌いって、ちょっと寂しい」
あ。
しまった。アメリカ人に言うことじゃなかった。俺、デリカシーなさすぎ。
ノアが俺の右手に手を重ねてくる。
「涼介、英語は完璧に分かんなくてもいい。相手がなにかを伝えたいって分かることが大事」
ノアが静かに続けた。
「昨日オレたちに話しかけてきた人も、完璧な英語じゃなかった。英語圏の人じゃなかった」
「えっ、そうだったの?」
「うん。でも、なにが言いたいかは分かった。だから答えた。言語ってそういうものだろ?」
言葉に詰まった。
最初の日に「マジでってなに?」と聞いてきたノアを思い出す。すぐにその場で使って覚えて、フリック入力だって練習していた。
ノアが分からなくてためらったことなんて一回もなかった。
……ノア、努力家だ。まだ十六歳なのに、しっかりしてる。俺、かっこ悪いじゃん。
「……ノアってたまに大人っぽい」
「あっ、オレを年下だと思って馬鹿にしてる!」
「馬鹿にはしてないけど。でも年下じゃん」
「でも子供じゃない。アメリカでもみんなより年下。日本でも年下。どこ行っても同じ」
きゅっと寄った眉を見て、なんだか悪いことをした気分になった。ノアには嫌なことなんだ。
そこでノアが手を離して本を手に取った。急に手が涼しくなる。……なんか、手、あったかかった。
「……でも、この本は難しいよ」
「ええー、今から別の本を読むのやだ」
「じゃあ、涼介は日本語で理解するのを頑張れ」
ノアがいつも通り悪そうな顔でにやっとした。放課後の教室にいつもの雰囲気が戻ってくる。
「逆に涼介に聞きたいことがある」
「えっなに?」
ノアが鞄からプリントを取り出した。
「みんながレポートを書くから、オレにも課題が出た。日本に来て驚いたこととか不思議だと思ったこととか、留学して気づいたことについてクラスでスピーチをしろって言われた」
「実際日本に来て驚いたことはあるでしょ」
ノアはちょっと考えるような顔をした。
「学校は憧れの世界そのものだけど、不思議なこともある。授業の始まりに、起立礼着席って言うのも驚いた。なんでいちいち立ち上がってから座るんだろうって感じた」
「へえ、疑問に思ったこともなかった」
「学校を自分たちで掃除するのも驚いた。アメリカには清掃員の人がいる。オレが嬉しかったのはやっぱり制服。学校に来て同じ靴に履き替えると全員お揃いになる」
お揃い。ちょっとおもしろい視点だ。確かに、なんで同じ上履きを履くんだろう。
ノアはあれこれと日本の不思議について話した。俺のレポートと違って、話題には困らなさそうだ。まあ、ノアなら簡単にスピーチ原稿を作れるだろう。
それから、部活のない放課後は二人で課題に取り組んだ。
俺は英語とにらめっこ。ノアは英語で走り書きをしていて、たまに日本語を交ぜている。
「涼介、驚いたってどう書くの。辞書の字、小さすぎて分かんない」
「それ、画数が多いじゃん。ひらがなでよくない?」
「でも、オレは漢字で書きたい」
俺がルーズリーフ一枚に大きく「驚」を書くと、ノアは必死にそれを写した。
……でかい。まっすぐな線と曲がる線の区別がついてない。いや、それは俺の字が悪いのか?
でも、本人は満足そうだ。
「ノア、俺のこれもちょっと見て」
「どれ? ああ、それは」
俺のノートには英語が、ノアのノートには慣れない日本語が増えていく。
なんか、英語をやるのもいいって、初めて思ったかも。ノアとやるとちょっと楽しい。
俺は呑気にそんなことを考えていた。だから、ノアのスピーチ当日が来るまで、ノアがなにを発表するのかまったく気にしていなかった。
「じゃあ、新見、スピーチを」
「はい」
ガタ。ロングホームルームでノアが名指しされ、立ち上がる。教壇にあがる姿も堂々としていて、みんなも興味津々だ。
ノアは原稿を教卓に置くと、すっと息を吸った。
「僕が日本に来て一番驚いたのは日本語についてです」
……ん? そんなこと言ってたっけ?
俺がおやと思ってノアを見ると、ちょうど目が合った。にやっと笑う。その瞬間、嫌な予感がした。だが、ノアはそのまましゃべりだす。
「僕は隣の席の嵯峨君とよくしゃべります。でも、嵯峨君の日本語は本当に驚くことばかりです。嵯峨君の日本語はおかしいんです。ある日の昼休み、先生がプリントを配ってくれと嵯峨君に頼みました。嵯峨君は英語が苦手で、小テストのために勉強しなければいけませんでした。僕が大丈夫か聞くと、大丈夫と言いました。全然大丈夫そうじゃありませんでした」
俺が目を剥いた瞬間、ひとりがぷはっと噴き出した。
「あと、別にの使い方も不思議です。嵯峨君はよく僕に怒ります。怒ってるときに『別に』を使うことが多いです。別にいいのかと思ったのに、全然よくないみたいです」
クラス中がどっと沸き返った。教壇の横で椅子に座っている先生まで下を向いて笑っている。
「嵯峨君がまあいいけどと言うときも、だいたいよくありません。嵯峨君の日本語が一番難しいです。思ってることと言ってることが反対になることがあります。なんで嵯峨君は回りくどいのでしょうか。本人に聞いても、『別に』って言うに決まってます」
「ちょっと!」
思わず声をあげたが、周りが「まあまあ」と笑いながら宥めてくる。顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。
「最初は天邪鬼ってやつなのかと思いました。でも、僕がちょっと英語をしゃべったらすごいと興奮してました。素直なのか回りくどいのか、どっちなんでしょうか」
俺の公開処刑が始まった。でも、ノアのスピーチは真面目な時間だ。どこで止めていいのか、なにに突っ込んでいいのか分からない。クラスメイトはケラケラ笑っている。
「多分、今も頭の中でなにを言おうか考えてると思います。素直にやめろと言うのか――いや、別に平気だし! なんて強がろうとしてるのかもしれません。このスピーチが終わったあと、嵯峨君がなにを言うのか楽しみです。以上でスピーチを終わります」
教室は割れんばかりの拍手で埋め尽くされた。突っ伏してるのは俺だけ。日本に来て驚いたことについて発表するスピーチなのに、なんで俺の話なんだよ。
ノアが悪い顔で隣へ戻ってくる。ドーベルマン! 飼い主で遊ぶなって言ってんだろ!
「なんでそんなこと言うんだよ!」
思わず腹から声が出た。ノアが頬杖をついてにやりとする。
「べっつに~」
別にの使い方うますぎだろ! もう、ガチでムカつく!!
それから俺は一日中からかわれた。委員長っておもしろいんだね、なんて言われたけど、めちゃくちゃ恥ずかしい。さらっと英語が苦手なのもバラされたから、内部進学のレポート難しくない? なんて話まで振られる始末。
「じゃあ涼介、また明日ー!」
帰りの分かれ道、ノアは元気に手を振って帰っていった。その楽しそうな背中を見つめる。
……多分、今日の夜もまたぽんぽんスマホが鳴るんだろう。前ならうるさいって途中から無視してたのに、今は――まあいいけど。
ノアのスピーチが頭に蘇って、顔が熱くなる。
クソ、なんであいつは俺のことばっかり観察してんだよ。
その熱を振り切るように、俺は駆け出した。


