先生、あのね。

五年生になり、クラス替えが行われた。

和香ちゃんと向井くんとは別のクラスになった。

良美ちゃんや藍ちゃんをはじめ、これまで一緒に過ごしてきた友達も何人か同じクラスだった。

担任は、産休から戻ってきた今井玲子先生。

一年生、二年生の頃、隣のクラスの先生だった。

二組は、いかにも優しそうなおじさん先生の松井先生。

もう、学校へ行くことが怖いとは思わなくなっていた。

先生が変わるたびに不安になることもない。

安心して学校へ通えるようになっていた。

それは、西城先生と中川先生のおかげだった。

けれど、その二人とも、この春で学校を去ることになっていた。



* * *



西城先生と中川先生がいなくなる。

寂しかった。

でも、それ以上に感謝を伝えたかった。

新年度のお別れ会で、二人の先生に手紙を渡すことになった。

学校で配られた手紙用紙では、とても足りない。


西城先生には、

「先生のクラス、楽しかった」

「先生、ありがとう」

「西城先生が大好きだよ」

そう書いた。

心からの感謝だった。

そして最後は、中川先生。

私が立ち直るまで、一番長い時間を一緒に過ごしてくれた先生。

感謝してもしきれなかった。

とてもとても長いお手紙になった。



* * *


お別れ会の日。

二人の先生に、書いた手紙を渡した。

別れ際、中川先生はいつもの笑顔で言った。

「鮎海ちゃん、手はしっかり洗うのよ」

「もう五年生だよ。ちゃんとできる」

そう言うと、中川先生は笑った。

私も笑った。



* * *



のばら学級

五年一組は平凡だった。

特別良いこともなければ、特別悪いこともない。

授業も分かる。

でも、飛び抜けて楽しいわけでもない。

そんな中、今井先生に小さな違和感を覚える出来事があった。

* * *

私の通う小学校には、「のばら学級」という支援学級があった。

私の学年には三人。

ダウン症の慶太と颯太。

そして、支援学級と通常学級の間くらいで学んでいた智くん。

五年生になると、智くんは二組で勉強することになった。

慶太と颯太は、毎週水曜日だけ一組へ給食を食べに来る。

慶太と颯太は、私の幼なじみだった。

慶太のおばあちゃんに、カエルのおへそを作ってもらったこともある。

お母さん同士が仲良く、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。

だから私にとって二人は、「支援学級の子」ではなく、「慶太と颯太」だった。

慶太は穏やかな子だった。

一方、颯太は幼稚園の頃から、私の髪を引っ張るのが大好きだった。

「鮎海ちゃん!」

そう言いながら髪を引っ張る。

痛い。

何度「やめて」と言っても、やめてくれない。

だから私は颯太が苦手だった。

五年生になって髪は短くなった。

それでも颯太は私の髪を引っ張る。

「颯太、やめて」

そう言うと、今井先生がやってきた。

「高江洲、颯太くんに優しくしましょう」

「だって、颯太が……」

「颯太くん、と呼びなさい」

「みんな平等に接しなさい」

私は心の中で思った。

先生は私のことを呼び捨てなのに。

慶太と颯太は幼なじみだ。

小さい頃からずっと呼び捨てだった。

必要以上に手伝うことにも違和感があった。

慶太は自分で給食を食べられる。

家では、自分でカレーのおかわりもよそっている。

でも過剰にお世話されている。

手伝わない私は意地悪だと言われたりもする。



* * *



その日の帰り、私は慶太のお母さんに学校であったことを話した。

すると、おばちゃんは笑って言った。

「鮎海は、今まで通りでいいよ」

「必要な時は助けてあげて」

「でも、何でもやってあげる必要はないの」

「友達なんだから、慶太って呼んでいい」

「おばちゃんから学校にも話しておくね」

その言葉を聞いて、安心した。

西城先生は、

「誰でも、だめなことはだめ」

そう教えてくれた。

でも今井先生は、

「のばら学級の子には優しくしましょう」

という考え方だった。

なんで、いつも通りじゃだめなんだろう。

その違いに、私は初めて戸惑った。



* * *


五年二組

智くんが入った五年二組では、大きな問題が起きていた。

私が最初に異変を知ったのは、教室の外から聞こえてきた大きな音だった。

ガシャーン。

花瓶が割れる音。

その直後、一組の教室へ向井くんが飛び込んできた。

「誰か先生、呼んできて!」

そう言い残して、すぐに二組へ戻っていった。

後で聞いた話では、自習時間に智くんが暴れてしまったらしい。

でも私は、その場を見たわけではない。

私が知っているのは、花瓶が割れる音と、慌てて先生を呼びに来た向井くんの姿だけだった。


* * *


翌日、学年集会が開かれた。

先生たちは、

「智くんに優しくしましょう」

「意地悪をしてはいけません」

と話をした。

また「優しくしましょう」なんだ。

私は少し違和感を覚えた。

何があったのか分からないのに、とにかく優しくしなさいと言われることに、素直に納得できなかった。

でも、事態は私が思っていたよりずっと深刻だった。

その集会中、智くんに向かって、

「のばらに帰れ」

そんなコールが始まった。

コールを始めたのは和香ちゃんだった。

和香ちゃんの声に、どんどんほかの子たちの声が重なった。

そのあと、一組だけ先に教室へ戻された。

だから、この出来事がどう終わったのか、私は知らないままだ。

* * *

翌日からも、五年二組ではトラブルが続いていた。

智くんをめぐる喧嘩が絶えなかった。

松井先生だけでは止められず、今井先生まで二組へ駆けつけることが増えた。

そのたびに、一組は自習になる。

一組にいた私たちは、隣の教室から聞こえてくる大きな物音を聞くことしかできなかった。

そんな日が続き、毎週水曜日に行われていた慶太と颯太との給食も中止になった。

正直、少しだけほっとした。

颯太に髪を引っ張られることがなくなったからだ。

三年生の出来事以来、私は誰であっても頭を触られることが苦手になっていた。

突然髪をつかまれ、床へ引きずり下ろされたあの日の記憶は、簡単には消えなかった。

颯太に悪気がないことは分かっている。

それでも、苦手なものは苦手だった。

いつの頃からか、智くんのお母さんが学校へ来る姿をよく見かけるようになった。

泣いている姿を見たこともある。

そして、いつしか智くんは学校へ来なくなった。

隣の教室から何かが割れる音も、聞こえなくなった。

その後も、二組ではいじめの標的が入れ替わっていたらしい。

後から聞いた話では、その中心に和香ちゃんがいた時期もあったという。

私はその話を聞いて、本当に驚いた。

でも、何が起きていたのか、本当のことは分からない。


* * *


三年生で学校が怖くなり、四年生でようやく穏やかな毎日を取り戻した。

だから私は、その穏やかな日常を失わないために、一つのことを覚えた。

無でいること。

目立たない。

余計なことは言わない。

誰かの味方にも敵にもならない。

自分が次の標的にならないように、それだけを考えて学校へ通っていた。

もう、中川先生はいない。

私にとって、保健室はもう避難場所ではなかった。

助けてくれた大好きな先生たちは、もう誰もこの学校にはいない。

私は、大人の表情や教室の空気の変化に、とても敏感な子どもになっていた。

だから学校では、「慶太くん」「颯太くん」と呼ぶようになった。

* * *

季節は流れ、運動会。

入場行進の係を決めることになった。

「慶太くんと颯太くん、それぞれ一人ずつペアを決めます」

智くんが通常学級へ行ったことで、今年初めて必要になった係だった。

亮平くんはすぐに言った。

「俺、慶太くんと歩く」

慶太も嬉しそうだったし、クラスのみんなも納得した。

問題は颯太だった。

じゃんけんで決めるのは違う。

勝って係になるのも変だし、負けた人と組むのも颯太に失礼な気がした。

私は心の中で存在を消した。

空気になろう。

颯太と歩くことが嫌なんじゃない。

髪を引っ張られるのが嫌なのだ。

沈黙を破ったのは、颯太だった。

「鮎海ちゃん」

「鮎海ちゃん」

私を指さしている。

先生も、クラスのみんなも笑顔になった。

「よかったね」

そんな空気だった。

最悪だ。

そう思ったのは、きっと私だけだった。

断ることはできなかった。

* * *

その週の土曜日。

私はお母さんに言った。

「髪、切りたい」

「あら、先週切ったばかりじゃない」

お母さんは笑った。

でも、私には大事な理由があった。

颯太と入場することになったから。

少しでも髪を短くしておきたかった。

髪を切ってくれるのは、颯太のお母さんだった。

子どもが生まれる前は美容師さんだったので、いつも家のベランダで切ってくれる。

「先週も切ってもらったのに、ごめんね」

そう言うと、おばちゃんは笑った。

「いいのよ」

「颯太が髪を引っ張っちゃうんだもん」

「鮎海が嫌がるのも無理ないわ」

その時だった。

ベランダに私たちが出ると、颯太が泣き出した。

これも、いつものことだった。

颯太は、私の髪が短くなるのが嫌なのだ。

私は心の中で思う。

「だったら、引っ張るなよ」

幼い頃から、この繰り返しだった。

髪が長ければ、私が泣く。

髪を切れば、颯太が泣く。

五年生になった私は、もう泣かなかった。

その代わり、嫌なことは嫌だとはっきり言うようになっていた。

家では、それでよかった。

幼なじみ同士だから。

でも、学校では違う。

今井先生がいる。

叱られるのが怖いというより、

「また説明しなきゃいけない」

そんな気持ちの方が強かった。

いつの頃からか、私の中で今井先生は「怖い先生」ではなく、「めんどうな先生」になっていた。



* * *



運動会当日。

髪を短く切った。

紅白帽もかぶる。

これで颯太対策はばっちりだ。

髪の毛さえ引っ張られなければ、私と颯太は仲がいい。

入場行進が始まる前。

颯太は緊張した様子で、何度も言う。

「鮎海ちゃん、みぎ」

「鮎海ちゃん、ひだり」

「失敗しても大丈夫だよ」

「今からそんなに練習したら、疲れちゃうよ」

そう言いながら、私はしぶしぶ付き合った。

少しだけ、めんどくさいなぁと思いながら。

無事に入場行進は終わった。

颯太は満足そうに言った。

「鮎海ちゃん、バイバイ」

そして、のばら学級へ戻っていった。

……でも、颯太って、このあとダンスに出るんじゃなかったっけ。

まぁ、いいか。

* * *

五年生の運動会は、それ以外に大きな出来事は何もなかった。

赤組だったのか、白組だったのか。

どちらが勝ったのかも、もう覚えていない。

* * *



海の移動教室

行き先は静岡県。

私には、とても楽しみにしていた行事があった。

イルカショーの見学だ。

苦手な宿泊行事も、イルカショーのためなら耐えられる。

生理が来る周期でもない。

私はわくわくしながらバスに乗った。

だが、最初のパーキングエリアで絶望する。

生理が来た。

なんで。

なんでなんだ。

予定ではなかったので、完全に油断していた。

ひとまずトイレットペーパーをパンツにたくさん敷いて、急いでバスへ戻る。

大きな荷物用のリュックからナプキンを取り出し、もう一度トイレに並んだ。

だが、時間切れ。

集合時間になってしまった。

二回目のトイレ休憩まで、ずっとひやひやしながら過ごした。

次のパーキングエリアでは、真っ先にトイレへ走った。

たくさん敷いておいたトイレットペーパーのおかげで、なんとか無事だった。

よかった。

しかし、問題はこれからだ。

生理が来る予定ではなかったので、ナプキンは数枚しか持ってきていない。

宿に着いたら、保健室の先生に助けてもらおう。

そう思っていた。

ところが、保健室の先生も予備のナプキンを持っていなかった。

「今井先生に聞いてみてね」

そう言われた。

仕方なく、今井先生のところへ行った。

生理になってしまったこと。

ナプキンがなくて困っていること。

分けてほしいこと。

事情を伝えた。

すると、

「どうして用意していないの。準備が悪い。」

「先生に頼るんじゃない。そういうものは自分で用意するのよ」

「ちゃんとしなさい」

怒られた。

そして結局、ナプキンは分けてもらえなかった。

困った。

次は音楽の先生のところに行ってみるか。

大きなため息が出た。

そんなときだった。

「鮎ちゃん!! こっちこっち!」

優紀ちゃんが私を呼んだ。

大きな巾着袋を持った優紀ちゃんに連れられ、トイレへ向かう。

「これあげる」

巾着袋の中身は、全部ナプキンだった。

「え? いいの? 優紀ちゃんも生理くるから持ってるんじゃないの?」

「ううん。お母さんがたくさん持っていけって言うから、いっぱい持ってるの。」

ありがとう、優紀ちゃん。

私は優紀ちゃんと、優紀ちゃんのお母さんの優しさに触れた。

たくさんのナプキンのおかげで、その後は安心して過ごすことができた。


* * *


二日目。

待ちに待った水族館だ。

念願のイルカショーを見た。

かわいい。

私もイルカと仲良くなりたいな。

一緒に泳いでみたいな。

そんな気持ちが胸いっぱいに広がった。

そして、お土産を買う時間になった。

三千円の入った茶封筒が配られる。

今井先生がいう

「お父さん、お母さんが持たせてくれたお小遣いです。大切に使いましょう」


私は家族にイルカのお土産を買った。

父と母には、イルカの灰皿。

弟と自分には、イルカのキーホルダー。

残ったお金では、イルカの形をしたお菓子を買った。

大満足だった。

だが。

集合場所では、仁王立ちの今井先生に怒られた。

「大切に使いなさいと言ったのに、どうして言うことが聞けないの!」

最終日のお土産代を残しておかなければならなかったらしい。

知らんがな。

「大切に使いましょう」だけでは、そこまで分からない。

私は、家族にイルカショーが楽しかったことを伝えたくて、お土産を買った。

私にとっては、大切な思い出のために使ったお金だった。

結局、最終日のお土産屋さんには欲しいものがなかった。

家に帰ってキーホルダーを渡すと、悠太は、

「おれ、かいじゅうがよかった」

なんて言っていた。


* * *


後日、優紀ちゃんが家に遊びに来ていた。

帰り際、お母さんが優紀ちゃんを呼び止めた。

「優紀ちゃん、これ借りていたものだから、お母さんに返しておいてくれる?」

そう言って、黒い袋を渡した。

中身はナプキンだった。

優紀ちゃんは家に帰り、その袋をお母さんに渡した。

事情を聞いた優紀ちゃんのお母さんは、私のお母さんに電話をくれた。

「いいのに〜。お互い様よ」

そう言っていたらしい。

* * *

翌日。

学校へ行くと、優紀ちゃんが自由帳に何かを書きながら話しかけてきた。

「うちのお母さんがね、今井玲子先生じゃなくて、今井冷子先生だねって言ってたんだ」

玲子じゃなくて、冷子。

冷たい子。

ぴったりだ。

「生理なんて仕方ないことなのに、あんなに怒ることないのにね。気にしちゃダメよって、お母さんが言ってたよ」

そう教えてくれた。

やっぱり、仕方ないよね。

今井先生に言われた、

「準備が悪い」

その言葉が、ずっと心に引っかかっていた。

私が悪かったのかな。

ちゃんと用意していなかった私がいけなかったのかな。

でも、生理が来る予定ではなかった。

それでも怒られたから、私が悪いのだと思っていた。

優紀ちゃんのお母さんの言葉で、その引っかかりがようやく解けていった。

それと同時に、今井先生への不信感は強くなった。


* * *


学芸会

五年生の学芸会は、海賊の劇だった。

やる気のある赤海賊と、やる気のない青海賊の話。

私は青海賊だった。

青海賊は、私以外は全員男子だった。

良美ちゃんは、

「鮎海ちゃんは男好きだから、男子ばっかりの役に立候補した」

なんて言いふらしている。

実に厄介だ。

そして、男好きではない。

歌って踊れる、かっこいい男の子が好きなのだ。

そう、テレビに出ているアイドルが好きなだけ。

この当時は『8時だJ』にはまっていた。

中でも、年の近い辰巳雄大くんが大好きだった。


* * *


劇中には、「海賊体操」というものがあった。

赤海賊と青海賊では動作が違う。

青海賊は、恥ずかしいポーズだらけだった。

こんな姿、辰巳くんに見られたら……。

なんて思って、やりたくなかった。

良美ちゃんたちは、私の背後でぼそぼそと言う。

「ちゃんとやれよ」

「さぼるな」

「ばか」

「この男好き」

嫌な感じだ。

そして良美ちゃんは、今井先生に向かって大きな声で叫んだ。

「今井先生〜! 高江洲さんが真面目に練習しません!」

私の心の中は、

うわ、めんどくさい。

だった。

すると今井先生は、

「高江洲はやる気のない海賊役なんだから、真面目に見えないのはいいことなのよ」

と言った。

たまにはいいこと言うじゃん、今井先生。

納得のいかない良美ちゃんは、私をにらみつけた。

ニヤニヤが止まらなかった。


* * *


ほかには何も起こらなかった気がする。

学芸会について覚えているのは、それくらいだ。