教頭先生と約束した。
「四年生になったら学校へ行く」
約束を守るため、私は久しぶりに学校へ向かった。
それでも怖かった。
一人では行けない。
だから、藍ちゃんと一緒に登校した。
いつものように、藍ちゃんのお母さんも一緒だった。
今思えば、学校へ慣れるために、たくさんの人が私を支えてくれていたのだと思う。
正門へ着くと、いつものように中川先生が立っていた。
「鮎海ちゃん、藍ちゃん、おはよう」
私は辺りを見回した。
「教頭先生は?」
中川先生は優しく教えてくれた。
教頭先生は転勤になったこと。
そして、小西先生も転勤になったことを。
教頭先生は最後まで約束を守ってくれた。
子どもだった私は、ただ「約束を守ってくれた」と思っていた。
その裏に大人たちの事情があったことを知るのは、もっと後、中学生になってからだった。
その年は、校長先生も替わっていた。
教室へ向かう。
四年一組。
黒板には、大きく名前が書かれていた。
西城舞子(さいじょうまいこ)
新しい担任の先生だった。
クラス替えはない。
変わったのは先生だけだった。
教室へ入ると、教壇には西城先生が立っていた。
中川先生が、私と藍ちゃんを簡単に紹介してくれる。
西城先生は少しかがみ、私たちと目線を合わせて言った。
「西城舞子です」
「これから一年間、一緒に勉強しましょう」
そう言って、優しく笑ってくれた。
私たちも自己紹介をして、席へ向かった。
そこには、見慣れた机と椅子があった。
でも、一つだけ去年と違うことがあった。
私たちの机には、一人ひとり名前の書かれたシールが貼られていた。
二組には、それがない。
二組は、そのまま大村先生が担任だからだ。
先生たちが、私たちのために整えてくれた教室。
たくさんの配慮が詰まった教室だった。
春と一緒に、私を取り巻く環境は大きく変わっていった。
* * *
西城先生との学校生活は、とても楽しかった。
教室には、先生が飼っているゴールデンハムスターがいた。
名前は、チビ太。
夜行性のチビ太からすれば、小学校のにぎやかな教室で暮らすなんて、ずいぶん迷惑な話だったと思う。
そんなチビ太のお世話をするために、新しく「生き物係」ができた。
「この係は、じゃんけんでは決めません」
西城先生はそう言った。
「命を預かる大切なお仕事だから、先生が決めます」
教室が静かになる。
先生は、一人ずつ、三人の名前を呼んだ。
私と奈都ちゃん――通称なっちん――。そして生き物が大好きな男の子。ザリガニに指を挟まれても平気な顔をしている。
おとなしい生き物博士だった。
みんなジャンガリアンハムスターを飼っていた。
ゴールデンハムスターは初めてだった。
「ジャンガリアンよりずっと大きいのに、チビ太なんだ」
そんなことを思った記憶がある。
しかも、後になってチビ太はメスだったことが分かった。
名前はチビ太のまま。
それも、今では楽しい思い出である。
そして、生き物係は本当は四人だった。
もう一人は、和香ちゃん。
学校へ来られる日は少なかったけれど、
「和香ちゃんが来た時は、一緒にお世話をしてね」
西城先生はそう言っていた。
和香ちゃんの家にも、ゴールデンハムスターがいたからだ。
学校へ来られる日があったら、一緒にチビ太のお世話をする。
西城先生は、和香ちゃんの居場所も、ちゃんと残してくれていた。
* * *
新年度になると、毎年先生方を送り出すお別れ会がある。
みんなで歌を歌い、お世話になった先生へ手紙を書く。
歌の練習は好きだった。
でも、手紙だけは書けなかった。
お礼を書く相手は、小西先生だった。
私の手元の紙には、
「小西先生へ」
そして最後に、
「高江洲鮎海より」
と書かれているだけだった。
その先が、一文字も書けない。
今の私なら、皮肉の一つでも書けるのかもしれない。
あの日の出来事を、淡々と書き並べることだってできるだろう。
でも、当時の私は小学四年生だった。
感謝なんてできない。
「ありがとう」なんて思えない。
教室のみんなが一生懸命手紙を書いている。
私は白い紙を見つめることしかできなかった。
そんな私に気づいた西城先生は、何も聞かずに一枚の国語のプリントを机の上へ置いた。
「これをやっていていいよ」
私は黙ってプリントに向かった。
みんなと同じように鉛筆を動かしていた。
提出した手紙は、最後まで白紙のままだった。
* * *
お別れ会の前日。
私は学校へ行きたくないと言った。
どうしても会いたくなかった。
西城先生は静かに言った。
「お手紙は書かなくていい」
「歌も歌いたくなかったら歌わなくていい」
「でも、学校へ来ることだけ約束して」
その約束さえ、私には苦しかった。
それでも私は、二時間目から学校へ行った。
保健室へ行こうとも思った。
でも、その日は中川先生のところへ行くことを許されなかった。
当時の私には、それが意地悪に思えた。
いつも優しい西城先生が、その日だけは鬼に見えた。
もちろん、それは私の目にそう映っただけだった。
お別れ会が始まる。
歌わなくてもいい。
手紙を渡さなくてもいい。
ただ、その場にいる。
私は震えながら、時間が過ぎるのを待っていた。
みんなは小西先生を囲み、
「寂しい」
「ありがとうございました」
そう言って別れを惜しんでいた。
私は輪の一番後ろに立っているだけだった。
ようやく、お別れ会が終わった。
小西先生は学校を去っていった。
とても長い時間に感じた。
でも、本当は一時間ほどだった。
私には、その一時間が永遠のようだった。
* * *
みんなが帰ったあと、私は西城先生に聞こうと思っていた。
「どうして中川先生のところへ行かせてくれなかったの?」
「西城先生も、私に意地悪するの?」
そう聞こうと思っていた。
でも、私が口を開くより先に、西城先生がそっと頭をなでてくれた。
「よく頑張ったね」
「鮎海ちゃんは、小西先生に負けなかったんだよ」
「強いね」
その言葉で、ようやく気づいた。
西城先生は、私に我慢をさせたかったわけじゃない。
逃げないで乗り越えられた。
私はもう、小西先生にも、あの日の恐怖にも負けていない。
そう思うことができた。
私は西城先生の腕の中で、声をあげて泣いた。
* * *
あの日を境に、保健室へ行けなくなることはなかった。
西城先生が「今日は保健室へ行かないで頑張ろう」と言った日は、後にも先にも、あの日だけだった。
怪我をしたら保健室。
熱が出たら保健室。
私が保健室へ行く理由は、ほかの子どもたちと同じになっていった。
だからといって、中川先生と会わなくなったわけではない。
校庭で遊んでいると、
「転ばないようにね〜」
と手を振ってくれる。
朝の当番で正門に立てば、
「おはよう」
と笑顔で挨拶をしてくれる。
私たちの関係は、少しずつ「保健室の先生と子ども」に戻っていった。
給食に鶏肉が出る日は、保健室へ交換に行った。
向井くんも一緒だった。
* * *
四年生は、穏やかな一年だった。
毎日が平和だった。
西城先生の授業は楽しかった。
悪いことをした時は叱る。
でも、それ以外では怒らない。
その姿は、とても自然だった。
小西先生の時代、悪いことをしても叱られなかった浩斗くんは、西城先生にはよく叱られていた。
「やっぱり、浩斗くんが悪いことをしていたんだ」
クラスのみんなも、そんな空気を感じていたと思う。
それでも、浩斗くんは人気者だった。
顔がよくて、運動神経もいい。
勉強もそこそこできる。
浩斗くんのことを好きな女の子がたくさんいた。
でも、私はまったく興味がなかった。
浩斗くんのお母さんと私のお母さんが少し仲良しだったので、休日に一緒に遊ぶことがあった。
その日、大きなゴキブリが出た。
浩斗くんは泣きながら私の後ろへ隠れた。
そこまではよかった。
でも次の瞬間、私の背中を何度も押して、ゴキブリの方へ差し出したのである。
「やーめーてー!」
私は必死だった。
結局、ゴキブリを倒したのは悠太だった。
悠太は得意げな顔で言った。
「ひろくん、ゴキブリ怖いの? 女の子守れないとメガレンジャーになれないよ」
そして、なぜか私まで怒られた。
「お姉ちゃんもゴキブリ倒せないと、大きくなっても鶴姫みたいになれないよ!」
ドヤ顔だった。
それ以来、浩斗くんは私の中で「かっこいい男の子」ではなくなった。
どうしてあんなに人気があるのか、本気で分からなかった。
良美ちゃんも、浩斗くんが大好きだった。
ほかの子より少し大人びていて、
「教壇の陰で話した」
「カーテンの陰で話した」
そんな話を嬉しそうにしていた。
浩斗くんが話しかけてくれたことも、自慢だったのだろう。
そのたびに、浩斗くんが好きな女の子たちは、少しだけやきもちを焼いていた。
* * *
そんな「浩斗くん一強」の四年一組に、二学期、大きな変化が訪れる。
亮平くんが転校してきた。
サッカーが、とにかく上手かった。
それまで、サッカーもバスケットボールも一番だった浩斗くんに、初めてライバルが現れた。
悔しそうな顔をしている浩斗くんを見て、私は少しだけ胸がすっとした。
「やーい、弱虫浩斗」
「悔しかったら、ゴキブリ倒してみろ」
心の中でそう思っていた。
亮平くんが転校してきて、四年一組はさらににぎやかになった。
学校は、ますます楽しい場所になっていった。
* * *
二学期はイベントが盛りだくさんだった。
運動会に、音楽会、移動教室。
中でも運動会は、一年で一番の大イベントだった。
大玉転がし。
玉入れ。
徒競走。
ダンス。
クラス対抗リレー。
さらに私は、一輪車クラブの演技にも参加した。
* * *
クラス対抗リレーは、一組と二組の人数がほぼ同じだった。
和香ちゃんが来ていないことを前提にすれば、誰かが余分に走る必要もない。
走る順番は、みんなで決めた。
スタートとアンカーだけは立候補制。
私はスタートを希望した。
理由は単純だった。
バトンを受け取るのが苦手だったから。
スタートなら、自分で走り始めればいい。
女子は同じ理由で、ほとんどがスタート希望だった。
その中で一番足が速かった私は、一走を任されることになった。
男子はアンカー希望が多かった。
浩斗くんも、亮平くんも立候補した。
でも、選ばれたのは梅ちゃんだった。
球技は少し苦手だったけれど、とにかく足が速い。
運動会当日に誰かが体調を崩した時に備えて、私も梅ちゃんも、バトンを渡す練習と受け取る練習の両方をしていた。
* * *
運動会が近づいた頃、久しぶりに和香ちゃんが学校へ来た。
和香ちゃんは運動神経が良かった。
足も速い。
ダンスは練習に参加していなかったこともあり、自分から「出ない」と決めた。
徒競走は、順番を調整すれば済む。
問題になったのは、クラス対抗リレーだった。
一人増えれば、走る順番を決め直さなければならない。
そこで、和香ちゃんが言った。
「アンカーをやりたい」
教室が静かになった。
三年生の出来事は、亮平くん以外みんな知っている。
学校へ来られた日は、優しくしなくちゃいけない。
そんな空気が教室にはあった。
西城先生は口を出さなかった。
「みんなで話し合って決めたことを大切にしよう」
そう言って見守っていた。
沈黙を破ったのは、亮平くんだった。
「みんなで走って決めた順番だろ」
「和香が入るなら、真ん中だ」
和香ちゃんは首を振る。
「絶対アンカーがいい」
「私も走って決める」
教室のみんなが驚いた。
和香ちゃんは、梅ちゃんと勝負すると言い出した。
四年生だったから、まだ男女の体力差はそれほど大きくない。
勝負の結果は分からない。
でも、みんなの気持ちは一つだった。
「梅ちゃんに走ってほしい」
そんな声が自然と集まった。
次に和香ちゃんは、私のところへ来た。
「鮎海ちゃん、代わって」
何度もそう言った。
同じ保健室登校をしていた私なら、譲ってくれると思ったのかもしれない。
私は何も言えなかった。
どうしたらいいのか分からなかった。
その時も、亮平くんが口を開いた。
「真ん中を走るのが、なんで嫌なんだよ」
和香ちゃんは黙ってしまった。
今にも泣き出しそうだった。
そこで初めて、西城先生が口を開いた。
「そこまでにしよう」
そう言って、和香ちゃんの背中をそっとなでた。
「みんなで決めたことだから、和香ちゃんは真ん中を走ろう」
「アンカーをやりたかったら、来年は順番を決める日に学校へ来ようね」
その言葉で、話し合いは終わった。
私は、うまく決まったんだと思っていた。
でも翌日から、和香ちゃんはまた学校へ来なくなった。
運動会にも、来ることはなかった。
* * *
四年生の移動教室は、山あいの宿泊施設で過ごす二泊三日だった。
私はもともと、移動教室のような宿泊行事が苦手だった。
集団行動が嫌なのではない。
家以外では、なかなか眠れないからだ。
当時は、生理が始まってまだ間もない頃だった。
移動教室の日程には重ならないと思っていて、母もナプキンをそれほど多く持たせていなかった。
ところが予想に反して、生理が来てしまった。
その時、助けてくれたのが中川先生だった。
中川先生は、こういうことを想定してナプキンをたくさん用意していた。
足りなくなった私にも分けてくれた。
さらに、寝ている間に布団を汚してしまっても大丈夫なように、誰にも目立たないよう、こっそり私の布団にバスタオルを敷いてくれた。
生理だった女子は、私を含めて三人ほどいた。
大勢とは別の時間に、一緒にお風呂へ入った。
* * *
生理だけでなく、体毛など、身体の成長にも個人差が出始める年頃だった。
そういえば、その少し前。
中川先生は、四年生の女子だけを集めた授業もしてくれていた。
男子が担任の先生と体育をしている間の、女子だけの座学だった。
ほかの女子たちは体育ができないことを不満がっていたが、私は中川先生が授業をしてくれること自体が嬉しかった。
中川先生から教わったのは、羽つき・羽なしナプキンのこと、生理用ショーツのこと、スポーツブラのことなど。
身体が変わり始める女の子が実際に必要になる知識を、かなり具体的に教えてくれた。
中川先生が四年生の私たちにしてくれた、唯一の授業だった。
* * *
そして迎えた、移動教室の夜。
大変だった。
同室の藍ちゃんが羽蟻を見つけ、
「ハーリー!」
と大騒ぎ。
藍ちゃんの家は厳しく、同じように普段家庭で厳しくされていた子たちは、親のいない移動教室でかなり羽目を外していた。
その騒ぎもあって、私はますます眠れない。
ところが、散々「ハーリー!」と騒いでいた藍ちゃん本人は、電池が切れたように突然眠ってしまった。
私は一人、眠れない。
その夜だったかは確定できないものの、みんなが寝たあとに中川先生と話をした記憶がある。
翌日は、眠いまま行事に参加した。
山にも登った。
夜にはレクリエーションやキャンプファイヤーもあった。
疲れているのに、二日目の夜もやっぱり眠れなかった。
結局、二泊三日まともに眠れず、私はこの移動教室で生まれて初めて目の下にクマを作った。
* * *
そして、帰りのバス。
隣に座っていた美紀ちゃんが具合を悪くして、吐いてしまった。
私はエチケット袋を持って、美紀ちゃんの背中をさすりながら、中川先生を呼ぼうとした。
なるべく目立たないようにしたかった。
「せんせー! 美紀がゲロ吐いた!」
と大声で先生を呼んでしまった子がいて、周囲から一斉に注目されることになった。
最後の最後まで散々だった。
学校へ戻ると、母が迎えに来ていた。
中川先生はすぐ母のところへ行き、移動教室中に私にどんなことがあったのかを伝え、
「ゆっくり寝かせてあげてください」
と言ってくれた。
私はリュックを母に預け、自転車の後ろに乗った。
ようやく家へ帰れる安心感からか、後ろでこっくりこっくりしながら帰った。
* * *
――ただし。
これだけのことがあった移動教室で、私の中の最大の事件は別にある。
山登りの途中か、あとに食べたソフトクリーム。
選べた味は、バニラとぶどう。
私はせっかくだからと、ぶどうを選んだ。
あまり美味しくなかった。
家に帰って母にそのことを話したら、酔っ払っていた父が横から言った。
「バカだな。そういうところはバニラがうまいに決まってるんだ。自然豊かな場所の牛乳は美味いんだから、余計な味を選んだお前が悪い」
父は笑っていた。
その言葉が妙に残って、それ以来、私はどこへ行ってもソフトクリームはバニラを選ぶようになった。
ところが、大人になって父と出かけたある日。
父を見ると――
普通にバニラ以外のソフトクリームを食べていた……。
* * *
今度は芸術の秋。
音楽会の練習が始まった。
ピアノ、リコーダー、鉄琴、木琴、ドラム。
小学校にある楽器が勢ぞろいして、みんなで合奏をする。
ここでも四年一組は、恒例のじゃんけん大会だった。
さすがにピアノだけは例外。
習っている子しか弾けないので、藍ちゃんが担当することになった。
希望する楽器が決まらなかった子は、リコーダーになる。
一番人気は鉄琴だった。
どうしてあんなに人気だったのか、今でも分からない。
クラスの半分以上が手を挙げていた。
鉄琴も木琴も二台ずつあるので、一台につき二人。
鉄琴は四人。
木琴も四人だった。
私は木琴に手を挙げた。
理由は単純。
木目がかわいくて、マレットに毛糸が巻いてあるのもかわいかったから。
演奏したことなんて、もちろんない。
もう一人、木琴に手を挙げたのが向井くんだった。
理由は、リコーダーが苦手だから。
手が小さくて、指が届きにくかったのだと思う。
でも、向井くんは身長を気にしていたので、そのことには触れなかった。
それが私なりの優しさだった。
木琴は、私と向井くんに決まった。
一方、鉄琴とドラムは大激戦。
白熱したじゃんけん大会の末、担当が決まった。
すると、鉄琴じゃんけんに負けた子たちが言い始めた。
「向井くんと鮎海ちゃんだけ、じゃんけんしてないなんてずるい」
その声を聞いた西城先生が、すぐに話し始めた。
「みんな、一番やりたい楽器でじゃんけんをしたんだよ」
「向井くんと鮎海ちゃんは、木琴が一番やりたかった」
「鉄琴のじゃんけんには参加していないよ」
「それは、本当にずるいことなのかな?」
教室は静かになった。
助かった。
文句を言っていた中には、良美ちゃんもいたからだ。
私は心の中で、
「西城先生、大好き」
と思っていた。
第二希望の木琴には、鉄琴じゃんけんに負けた子たちも流れてくる。
再びじゃんけん。
木琴担当は、
私。
向井くん。
良美ちゃん。
そして、浩斗くん。
嫌な予感しかしなかった。
でも、浩斗くんが好きな良美ちゃんは、絶対に浩斗くんと組みたがる。
私は向井くんと組むことになるだろう。
向井くんも、そう思っていたと思う。
ところが、浩斗くんが言った。
「鮎海ちゃんと組みたい」
「……なんで?」
私は固まった。
嫌とも言えない。
西城先生は、みんなに聞いた。
「それでいい?」
もちろん、良美ちゃんは反対した。
私は心の中で、
「ナイス、良美ちゃん」
と思った。
西城先生は笑って言った。
「じゃあ、公平に決めようね」
グーとチョキだけを使って、同じ人数になるまで分かれる「グーチー」で決めることになった。
その時、浩斗くんが小声で言った。
「鮎海ちゃん、グー出して」
「俺と組もう」
こっそり言ったつもりなのだろう。
でも、向井くんにも、良美ちゃんにも聞こえていた。
私は向井くんと目を合わせた。
二人で小さくうなずく。
そして私はチョキ。
向井くんもチョキ。
良美ちゃんはグー。
一回で決まった。
これで、良美ちゃんに意地悪されることもない。
ゴキブリが出て、浩斗くんに盾にされることもない。
私の音楽会は平和だ。
そう思った。
「鮎海、裏切ったな」
浩斗くんは私をにらんだ。
もちろん、その一言で西城先生に叱られていた。
こうして、音楽会の練習が始まった。
演奏する曲は『ティキティキ』。
今でも覚えている。
歌えるくらいだ。
夏らしい曲だった気がする。
どうして秋の音楽会で演奏したのかは、今でも分からない。
平和な音楽会になる。
私は、そう思っていた。
* * *
音楽室での練習が終わり、本番と同じように体育館で練習をするようになった。
その頃から、向井くんの様子がおかしかった。
何か言いたそうなのに、ずっと言わない。
「どうしたの?」
「西城先生、呼ぼうか?」
そう聞いても、
「呼ばなくていい」
と首を振るだけ。
なんだろう。
給食ではいつも通り私の牛乳を半分飲んでくれていたから、お腹が痛いわけではなさそう。
良美ちゃんは浩斗くんの隣でご機嫌だし、意地悪されている様子もない。
思い当たることが、何もなかった。
帰る時間になって、私はもう一度聞いた。
「向井くん、どうしたの?」
すると向井くんは、意を決したように言った。
「俺、こんなに牛乳飲んでるのに、なんで鮎海ちゃんの方が背が高いんだよ」
「鮎海ちゃん、半分しか飲んでないじゃん!」
私は言葉を失った。
……そういうことだったの?
思っていたのと違いすぎて、笑いそうになった。
でも、向井くんは本気で悩んでいる。
笑うわけにはいかなかった。
なんて答えようか困っていると、ちょうど西城先生が通りかかった。
「どうしたの?」
きっと先生は、音楽会の練習で困ったことがあったのだと思ったのだろう。
向井くんは西城先生にも聞いた。
「先生」
「俺、こんなに牛乳飲んでるのに、なんで背が伸びないのかな」
「だって、鮎海ちゃんは半分しか飲んでないのに」
本気で拗ねていた。
西城先生は笑いながら言った。
「小学生のうちは、女の子の方が成長が早いのよ」
「向井くんは、中学生になったら鮎海ちゃんより大きくなるから大丈夫」
その言葉を聞いて、向井くんは安心したように笑った。
* * *
音楽会当日。
みんながきれいに並んで見えるように、小さい子のための踏み台が用意されていた。
向井くんは少しだけ、拗ねた顔をしていた。
* * *
向井くんの悩み 番外編
向井くんは、とにかく身長を気にしていた。
でも私は、
「西城先生がそのうち伸びるって言ってるんだから、大丈夫なのに」
そう思っていた。
その理由が分かったのは、音楽会が終わってすぐのことだった。
帰り道、向井くんがぽつりと言った。
「奏美ちゃんがさ、背が高い男の子が好きなんだって」
「……えーーーーーーーーーーーーーーっ!」
思わず大きな声が出た。
私の頭の中は大混乱だった。
どうして?
なんでそんなこと言うの?
だって、奏美ちゃんは向井くんのことが好きなのに。
向井くんは不思議そうな顔をしている。
「鮎海ちゃん、なんでそんなに驚くんだよ」
「女の子って、みんな背が高い人が好きなんだろ?」
違う。
そうじゃない。
でも、言えない。
「奏美ちゃんは向井くんのことが好きなんだよ」
その一言は、私の口から言ってはいけない気がした。
でも、本当にどうして奏美ちゃんはそんなことを言ったんだろう。
向井くんがますます不安になるだけじゃない。
「鮎海ちゃん、なんとか言ってよ」
「あ……うん」
「そんなことないと思う!」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
「あっ、今日、悠太と帰る約束してた!」
そう言って、私は約束なんてしていない弟を迎えに、一年生の教室へ逃げた。
あの時は、何も言えなかった。
* * *
二学期が終わり、三学期。
平和な毎日だった。
朝、学校へ行き、
チビ太のお世話をして、
メダカに餌をあげる。
そして、西城先生の楽しい授業を受ける。
毎日が当たり前のように過ぎていった。
もちろん、小さな出来事はたくさんあった。
友達の家へ遊びに行った時、お母さんが出してくれた冷凍バナナが固すぎて食べられなかったこと。
チビ太が脱走して、西城先生の机の下で大量のうんちをしてしまったこと。
給食のレーズンパンが人気なくて、私は残っていたレーズンだけをほじって食べていたら、食べすぎて鼻血を出し、保健室へ行ったこと。
向井くんが牛乳を飲みすぎて、お腹を壊したこと。
良美ちゃんが、ついに浩斗くんに振られたこと。
お習字で墨汁のふたを閉め忘れ、教室を大惨事にしてしまったこと。
家庭科で味噌作りをする日に、風邪が流行して学級閉鎖寸前になったこと。
今思えば、本当にどこにでもある小学生の日常だった。
でも、私にはその「どこにでもある毎日」が、とても幸せだった。
何事もなく学校へ通えること。
友達と笑えること。
先生の授業を受けられること。
三年生の私には、それが当たり前ではなかったからだ。
そうして、穏やかな日々は過ぎていった。
月日は流れ、四年生も終わりを迎える。
また、恩師との別れの季節がやってきた。
「四年生になったら学校へ行く」
約束を守るため、私は久しぶりに学校へ向かった。
それでも怖かった。
一人では行けない。
だから、藍ちゃんと一緒に登校した。
いつものように、藍ちゃんのお母さんも一緒だった。
今思えば、学校へ慣れるために、たくさんの人が私を支えてくれていたのだと思う。
正門へ着くと、いつものように中川先生が立っていた。
「鮎海ちゃん、藍ちゃん、おはよう」
私は辺りを見回した。
「教頭先生は?」
中川先生は優しく教えてくれた。
教頭先生は転勤になったこと。
そして、小西先生も転勤になったことを。
教頭先生は最後まで約束を守ってくれた。
子どもだった私は、ただ「約束を守ってくれた」と思っていた。
その裏に大人たちの事情があったことを知るのは、もっと後、中学生になってからだった。
その年は、校長先生も替わっていた。
教室へ向かう。
四年一組。
黒板には、大きく名前が書かれていた。
西城舞子(さいじょうまいこ)
新しい担任の先生だった。
クラス替えはない。
変わったのは先生だけだった。
教室へ入ると、教壇には西城先生が立っていた。
中川先生が、私と藍ちゃんを簡単に紹介してくれる。
西城先生は少しかがみ、私たちと目線を合わせて言った。
「西城舞子です」
「これから一年間、一緒に勉強しましょう」
そう言って、優しく笑ってくれた。
私たちも自己紹介をして、席へ向かった。
そこには、見慣れた机と椅子があった。
でも、一つだけ去年と違うことがあった。
私たちの机には、一人ひとり名前の書かれたシールが貼られていた。
二組には、それがない。
二組は、そのまま大村先生が担任だからだ。
先生たちが、私たちのために整えてくれた教室。
たくさんの配慮が詰まった教室だった。
春と一緒に、私を取り巻く環境は大きく変わっていった。
* * *
西城先生との学校生活は、とても楽しかった。
教室には、先生が飼っているゴールデンハムスターがいた。
名前は、チビ太。
夜行性のチビ太からすれば、小学校のにぎやかな教室で暮らすなんて、ずいぶん迷惑な話だったと思う。
そんなチビ太のお世話をするために、新しく「生き物係」ができた。
「この係は、じゃんけんでは決めません」
西城先生はそう言った。
「命を預かる大切なお仕事だから、先生が決めます」
教室が静かになる。
先生は、一人ずつ、三人の名前を呼んだ。
私と奈都ちゃん――通称なっちん――。そして生き物が大好きな男の子。ザリガニに指を挟まれても平気な顔をしている。
おとなしい生き物博士だった。
みんなジャンガリアンハムスターを飼っていた。
ゴールデンハムスターは初めてだった。
「ジャンガリアンよりずっと大きいのに、チビ太なんだ」
そんなことを思った記憶がある。
しかも、後になってチビ太はメスだったことが分かった。
名前はチビ太のまま。
それも、今では楽しい思い出である。
そして、生き物係は本当は四人だった。
もう一人は、和香ちゃん。
学校へ来られる日は少なかったけれど、
「和香ちゃんが来た時は、一緒にお世話をしてね」
西城先生はそう言っていた。
和香ちゃんの家にも、ゴールデンハムスターがいたからだ。
学校へ来られる日があったら、一緒にチビ太のお世話をする。
西城先生は、和香ちゃんの居場所も、ちゃんと残してくれていた。
* * *
新年度になると、毎年先生方を送り出すお別れ会がある。
みんなで歌を歌い、お世話になった先生へ手紙を書く。
歌の練習は好きだった。
でも、手紙だけは書けなかった。
お礼を書く相手は、小西先生だった。
私の手元の紙には、
「小西先生へ」
そして最後に、
「高江洲鮎海より」
と書かれているだけだった。
その先が、一文字も書けない。
今の私なら、皮肉の一つでも書けるのかもしれない。
あの日の出来事を、淡々と書き並べることだってできるだろう。
でも、当時の私は小学四年生だった。
感謝なんてできない。
「ありがとう」なんて思えない。
教室のみんなが一生懸命手紙を書いている。
私は白い紙を見つめることしかできなかった。
そんな私に気づいた西城先生は、何も聞かずに一枚の国語のプリントを机の上へ置いた。
「これをやっていていいよ」
私は黙ってプリントに向かった。
みんなと同じように鉛筆を動かしていた。
提出した手紙は、最後まで白紙のままだった。
* * *
お別れ会の前日。
私は学校へ行きたくないと言った。
どうしても会いたくなかった。
西城先生は静かに言った。
「お手紙は書かなくていい」
「歌も歌いたくなかったら歌わなくていい」
「でも、学校へ来ることだけ約束して」
その約束さえ、私には苦しかった。
それでも私は、二時間目から学校へ行った。
保健室へ行こうとも思った。
でも、その日は中川先生のところへ行くことを許されなかった。
当時の私には、それが意地悪に思えた。
いつも優しい西城先生が、その日だけは鬼に見えた。
もちろん、それは私の目にそう映っただけだった。
お別れ会が始まる。
歌わなくてもいい。
手紙を渡さなくてもいい。
ただ、その場にいる。
私は震えながら、時間が過ぎるのを待っていた。
みんなは小西先生を囲み、
「寂しい」
「ありがとうございました」
そう言って別れを惜しんでいた。
私は輪の一番後ろに立っているだけだった。
ようやく、お別れ会が終わった。
小西先生は学校を去っていった。
とても長い時間に感じた。
でも、本当は一時間ほどだった。
私には、その一時間が永遠のようだった。
* * *
みんなが帰ったあと、私は西城先生に聞こうと思っていた。
「どうして中川先生のところへ行かせてくれなかったの?」
「西城先生も、私に意地悪するの?」
そう聞こうと思っていた。
でも、私が口を開くより先に、西城先生がそっと頭をなでてくれた。
「よく頑張ったね」
「鮎海ちゃんは、小西先生に負けなかったんだよ」
「強いね」
その言葉で、ようやく気づいた。
西城先生は、私に我慢をさせたかったわけじゃない。
逃げないで乗り越えられた。
私はもう、小西先生にも、あの日の恐怖にも負けていない。
そう思うことができた。
私は西城先生の腕の中で、声をあげて泣いた。
* * *
あの日を境に、保健室へ行けなくなることはなかった。
西城先生が「今日は保健室へ行かないで頑張ろう」と言った日は、後にも先にも、あの日だけだった。
怪我をしたら保健室。
熱が出たら保健室。
私が保健室へ行く理由は、ほかの子どもたちと同じになっていった。
だからといって、中川先生と会わなくなったわけではない。
校庭で遊んでいると、
「転ばないようにね〜」
と手を振ってくれる。
朝の当番で正門に立てば、
「おはよう」
と笑顔で挨拶をしてくれる。
私たちの関係は、少しずつ「保健室の先生と子ども」に戻っていった。
給食に鶏肉が出る日は、保健室へ交換に行った。
向井くんも一緒だった。
* * *
四年生は、穏やかな一年だった。
毎日が平和だった。
西城先生の授業は楽しかった。
悪いことをした時は叱る。
でも、それ以外では怒らない。
その姿は、とても自然だった。
小西先生の時代、悪いことをしても叱られなかった浩斗くんは、西城先生にはよく叱られていた。
「やっぱり、浩斗くんが悪いことをしていたんだ」
クラスのみんなも、そんな空気を感じていたと思う。
それでも、浩斗くんは人気者だった。
顔がよくて、運動神経もいい。
勉強もそこそこできる。
浩斗くんのことを好きな女の子がたくさんいた。
でも、私はまったく興味がなかった。
浩斗くんのお母さんと私のお母さんが少し仲良しだったので、休日に一緒に遊ぶことがあった。
その日、大きなゴキブリが出た。
浩斗くんは泣きながら私の後ろへ隠れた。
そこまではよかった。
でも次の瞬間、私の背中を何度も押して、ゴキブリの方へ差し出したのである。
「やーめーてー!」
私は必死だった。
結局、ゴキブリを倒したのは悠太だった。
悠太は得意げな顔で言った。
「ひろくん、ゴキブリ怖いの? 女の子守れないとメガレンジャーになれないよ」
そして、なぜか私まで怒られた。
「お姉ちゃんもゴキブリ倒せないと、大きくなっても鶴姫みたいになれないよ!」
ドヤ顔だった。
それ以来、浩斗くんは私の中で「かっこいい男の子」ではなくなった。
どうしてあんなに人気があるのか、本気で分からなかった。
良美ちゃんも、浩斗くんが大好きだった。
ほかの子より少し大人びていて、
「教壇の陰で話した」
「カーテンの陰で話した」
そんな話を嬉しそうにしていた。
浩斗くんが話しかけてくれたことも、自慢だったのだろう。
そのたびに、浩斗くんが好きな女の子たちは、少しだけやきもちを焼いていた。
* * *
そんな「浩斗くん一強」の四年一組に、二学期、大きな変化が訪れる。
亮平くんが転校してきた。
サッカーが、とにかく上手かった。
それまで、サッカーもバスケットボールも一番だった浩斗くんに、初めてライバルが現れた。
悔しそうな顔をしている浩斗くんを見て、私は少しだけ胸がすっとした。
「やーい、弱虫浩斗」
「悔しかったら、ゴキブリ倒してみろ」
心の中でそう思っていた。
亮平くんが転校してきて、四年一組はさらににぎやかになった。
学校は、ますます楽しい場所になっていった。
* * *
二学期はイベントが盛りだくさんだった。
運動会に、音楽会、移動教室。
中でも運動会は、一年で一番の大イベントだった。
大玉転がし。
玉入れ。
徒競走。
ダンス。
クラス対抗リレー。
さらに私は、一輪車クラブの演技にも参加した。
* * *
クラス対抗リレーは、一組と二組の人数がほぼ同じだった。
和香ちゃんが来ていないことを前提にすれば、誰かが余分に走る必要もない。
走る順番は、みんなで決めた。
スタートとアンカーだけは立候補制。
私はスタートを希望した。
理由は単純だった。
バトンを受け取るのが苦手だったから。
スタートなら、自分で走り始めればいい。
女子は同じ理由で、ほとんどがスタート希望だった。
その中で一番足が速かった私は、一走を任されることになった。
男子はアンカー希望が多かった。
浩斗くんも、亮平くんも立候補した。
でも、選ばれたのは梅ちゃんだった。
球技は少し苦手だったけれど、とにかく足が速い。
運動会当日に誰かが体調を崩した時に備えて、私も梅ちゃんも、バトンを渡す練習と受け取る練習の両方をしていた。
* * *
運動会が近づいた頃、久しぶりに和香ちゃんが学校へ来た。
和香ちゃんは運動神経が良かった。
足も速い。
ダンスは練習に参加していなかったこともあり、自分から「出ない」と決めた。
徒競走は、順番を調整すれば済む。
問題になったのは、クラス対抗リレーだった。
一人増えれば、走る順番を決め直さなければならない。
そこで、和香ちゃんが言った。
「アンカーをやりたい」
教室が静かになった。
三年生の出来事は、亮平くん以外みんな知っている。
学校へ来られた日は、優しくしなくちゃいけない。
そんな空気が教室にはあった。
西城先生は口を出さなかった。
「みんなで話し合って決めたことを大切にしよう」
そう言って見守っていた。
沈黙を破ったのは、亮平くんだった。
「みんなで走って決めた順番だろ」
「和香が入るなら、真ん中だ」
和香ちゃんは首を振る。
「絶対アンカーがいい」
「私も走って決める」
教室のみんなが驚いた。
和香ちゃんは、梅ちゃんと勝負すると言い出した。
四年生だったから、まだ男女の体力差はそれほど大きくない。
勝負の結果は分からない。
でも、みんなの気持ちは一つだった。
「梅ちゃんに走ってほしい」
そんな声が自然と集まった。
次に和香ちゃんは、私のところへ来た。
「鮎海ちゃん、代わって」
何度もそう言った。
同じ保健室登校をしていた私なら、譲ってくれると思ったのかもしれない。
私は何も言えなかった。
どうしたらいいのか分からなかった。
その時も、亮平くんが口を開いた。
「真ん中を走るのが、なんで嫌なんだよ」
和香ちゃんは黙ってしまった。
今にも泣き出しそうだった。
そこで初めて、西城先生が口を開いた。
「そこまでにしよう」
そう言って、和香ちゃんの背中をそっとなでた。
「みんなで決めたことだから、和香ちゃんは真ん中を走ろう」
「アンカーをやりたかったら、来年は順番を決める日に学校へ来ようね」
その言葉で、話し合いは終わった。
私は、うまく決まったんだと思っていた。
でも翌日から、和香ちゃんはまた学校へ来なくなった。
運動会にも、来ることはなかった。
* * *
四年生の移動教室は、山あいの宿泊施設で過ごす二泊三日だった。
私はもともと、移動教室のような宿泊行事が苦手だった。
集団行動が嫌なのではない。
家以外では、なかなか眠れないからだ。
当時は、生理が始まってまだ間もない頃だった。
移動教室の日程には重ならないと思っていて、母もナプキンをそれほど多く持たせていなかった。
ところが予想に反して、生理が来てしまった。
その時、助けてくれたのが中川先生だった。
中川先生は、こういうことを想定してナプキンをたくさん用意していた。
足りなくなった私にも分けてくれた。
さらに、寝ている間に布団を汚してしまっても大丈夫なように、誰にも目立たないよう、こっそり私の布団にバスタオルを敷いてくれた。
生理だった女子は、私を含めて三人ほどいた。
大勢とは別の時間に、一緒にお風呂へ入った。
* * *
生理だけでなく、体毛など、身体の成長にも個人差が出始める年頃だった。
そういえば、その少し前。
中川先生は、四年生の女子だけを集めた授業もしてくれていた。
男子が担任の先生と体育をしている間の、女子だけの座学だった。
ほかの女子たちは体育ができないことを不満がっていたが、私は中川先生が授業をしてくれること自体が嬉しかった。
中川先生から教わったのは、羽つき・羽なしナプキンのこと、生理用ショーツのこと、スポーツブラのことなど。
身体が変わり始める女の子が実際に必要になる知識を、かなり具体的に教えてくれた。
中川先生が四年生の私たちにしてくれた、唯一の授業だった。
* * *
そして迎えた、移動教室の夜。
大変だった。
同室の藍ちゃんが羽蟻を見つけ、
「ハーリー!」
と大騒ぎ。
藍ちゃんの家は厳しく、同じように普段家庭で厳しくされていた子たちは、親のいない移動教室でかなり羽目を外していた。
その騒ぎもあって、私はますます眠れない。
ところが、散々「ハーリー!」と騒いでいた藍ちゃん本人は、電池が切れたように突然眠ってしまった。
私は一人、眠れない。
その夜だったかは確定できないものの、みんなが寝たあとに中川先生と話をした記憶がある。
翌日は、眠いまま行事に参加した。
山にも登った。
夜にはレクリエーションやキャンプファイヤーもあった。
疲れているのに、二日目の夜もやっぱり眠れなかった。
結局、二泊三日まともに眠れず、私はこの移動教室で生まれて初めて目の下にクマを作った。
* * *
そして、帰りのバス。
隣に座っていた美紀ちゃんが具合を悪くして、吐いてしまった。
私はエチケット袋を持って、美紀ちゃんの背中をさすりながら、中川先生を呼ぼうとした。
なるべく目立たないようにしたかった。
「せんせー! 美紀がゲロ吐いた!」
と大声で先生を呼んでしまった子がいて、周囲から一斉に注目されることになった。
最後の最後まで散々だった。
学校へ戻ると、母が迎えに来ていた。
中川先生はすぐ母のところへ行き、移動教室中に私にどんなことがあったのかを伝え、
「ゆっくり寝かせてあげてください」
と言ってくれた。
私はリュックを母に預け、自転車の後ろに乗った。
ようやく家へ帰れる安心感からか、後ろでこっくりこっくりしながら帰った。
* * *
――ただし。
これだけのことがあった移動教室で、私の中の最大の事件は別にある。
山登りの途中か、あとに食べたソフトクリーム。
選べた味は、バニラとぶどう。
私はせっかくだからと、ぶどうを選んだ。
あまり美味しくなかった。
家に帰って母にそのことを話したら、酔っ払っていた父が横から言った。
「バカだな。そういうところはバニラがうまいに決まってるんだ。自然豊かな場所の牛乳は美味いんだから、余計な味を選んだお前が悪い」
父は笑っていた。
その言葉が妙に残って、それ以来、私はどこへ行ってもソフトクリームはバニラを選ぶようになった。
ところが、大人になって父と出かけたある日。
父を見ると――
普通にバニラ以外のソフトクリームを食べていた……。
* * *
今度は芸術の秋。
音楽会の練習が始まった。
ピアノ、リコーダー、鉄琴、木琴、ドラム。
小学校にある楽器が勢ぞろいして、みんなで合奏をする。
ここでも四年一組は、恒例のじゃんけん大会だった。
さすがにピアノだけは例外。
習っている子しか弾けないので、藍ちゃんが担当することになった。
希望する楽器が決まらなかった子は、リコーダーになる。
一番人気は鉄琴だった。
どうしてあんなに人気だったのか、今でも分からない。
クラスの半分以上が手を挙げていた。
鉄琴も木琴も二台ずつあるので、一台につき二人。
鉄琴は四人。
木琴も四人だった。
私は木琴に手を挙げた。
理由は単純。
木目がかわいくて、マレットに毛糸が巻いてあるのもかわいかったから。
演奏したことなんて、もちろんない。
もう一人、木琴に手を挙げたのが向井くんだった。
理由は、リコーダーが苦手だから。
手が小さくて、指が届きにくかったのだと思う。
でも、向井くんは身長を気にしていたので、そのことには触れなかった。
それが私なりの優しさだった。
木琴は、私と向井くんに決まった。
一方、鉄琴とドラムは大激戦。
白熱したじゃんけん大会の末、担当が決まった。
すると、鉄琴じゃんけんに負けた子たちが言い始めた。
「向井くんと鮎海ちゃんだけ、じゃんけんしてないなんてずるい」
その声を聞いた西城先生が、すぐに話し始めた。
「みんな、一番やりたい楽器でじゃんけんをしたんだよ」
「向井くんと鮎海ちゃんは、木琴が一番やりたかった」
「鉄琴のじゃんけんには参加していないよ」
「それは、本当にずるいことなのかな?」
教室は静かになった。
助かった。
文句を言っていた中には、良美ちゃんもいたからだ。
私は心の中で、
「西城先生、大好き」
と思っていた。
第二希望の木琴には、鉄琴じゃんけんに負けた子たちも流れてくる。
再びじゃんけん。
木琴担当は、
私。
向井くん。
良美ちゃん。
そして、浩斗くん。
嫌な予感しかしなかった。
でも、浩斗くんが好きな良美ちゃんは、絶対に浩斗くんと組みたがる。
私は向井くんと組むことになるだろう。
向井くんも、そう思っていたと思う。
ところが、浩斗くんが言った。
「鮎海ちゃんと組みたい」
「……なんで?」
私は固まった。
嫌とも言えない。
西城先生は、みんなに聞いた。
「それでいい?」
もちろん、良美ちゃんは反対した。
私は心の中で、
「ナイス、良美ちゃん」
と思った。
西城先生は笑って言った。
「じゃあ、公平に決めようね」
グーとチョキだけを使って、同じ人数になるまで分かれる「グーチー」で決めることになった。
その時、浩斗くんが小声で言った。
「鮎海ちゃん、グー出して」
「俺と組もう」
こっそり言ったつもりなのだろう。
でも、向井くんにも、良美ちゃんにも聞こえていた。
私は向井くんと目を合わせた。
二人で小さくうなずく。
そして私はチョキ。
向井くんもチョキ。
良美ちゃんはグー。
一回で決まった。
これで、良美ちゃんに意地悪されることもない。
ゴキブリが出て、浩斗くんに盾にされることもない。
私の音楽会は平和だ。
そう思った。
「鮎海、裏切ったな」
浩斗くんは私をにらんだ。
もちろん、その一言で西城先生に叱られていた。
こうして、音楽会の練習が始まった。
演奏する曲は『ティキティキ』。
今でも覚えている。
歌えるくらいだ。
夏らしい曲だった気がする。
どうして秋の音楽会で演奏したのかは、今でも分からない。
平和な音楽会になる。
私は、そう思っていた。
* * *
音楽室での練習が終わり、本番と同じように体育館で練習をするようになった。
その頃から、向井くんの様子がおかしかった。
何か言いたそうなのに、ずっと言わない。
「どうしたの?」
「西城先生、呼ぼうか?」
そう聞いても、
「呼ばなくていい」
と首を振るだけ。
なんだろう。
給食ではいつも通り私の牛乳を半分飲んでくれていたから、お腹が痛いわけではなさそう。
良美ちゃんは浩斗くんの隣でご機嫌だし、意地悪されている様子もない。
思い当たることが、何もなかった。
帰る時間になって、私はもう一度聞いた。
「向井くん、どうしたの?」
すると向井くんは、意を決したように言った。
「俺、こんなに牛乳飲んでるのに、なんで鮎海ちゃんの方が背が高いんだよ」
「鮎海ちゃん、半分しか飲んでないじゃん!」
私は言葉を失った。
……そういうことだったの?
思っていたのと違いすぎて、笑いそうになった。
でも、向井くんは本気で悩んでいる。
笑うわけにはいかなかった。
なんて答えようか困っていると、ちょうど西城先生が通りかかった。
「どうしたの?」
きっと先生は、音楽会の練習で困ったことがあったのだと思ったのだろう。
向井くんは西城先生にも聞いた。
「先生」
「俺、こんなに牛乳飲んでるのに、なんで背が伸びないのかな」
「だって、鮎海ちゃんは半分しか飲んでないのに」
本気で拗ねていた。
西城先生は笑いながら言った。
「小学生のうちは、女の子の方が成長が早いのよ」
「向井くんは、中学生になったら鮎海ちゃんより大きくなるから大丈夫」
その言葉を聞いて、向井くんは安心したように笑った。
* * *
音楽会当日。
みんながきれいに並んで見えるように、小さい子のための踏み台が用意されていた。
向井くんは少しだけ、拗ねた顔をしていた。
* * *
向井くんの悩み 番外編
向井くんは、とにかく身長を気にしていた。
でも私は、
「西城先生がそのうち伸びるって言ってるんだから、大丈夫なのに」
そう思っていた。
その理由が分かったのは、音楽会が終わってすぐのことだった。
帰り道、向井くんがぽつりと言った。
「奏美ちゃんがさ、背が高い男の子が好きなんだって」
「……えーーーーーーーーーーーーーーっ!」
思わず大きな声が出た。
私の頭の中は大混乱だった。
どうして?
なんでそんなこと言うの?
だって、奏美ちゃんは向井くんのことが好きなのに。
向井くんは不思議そうな顔をしている。
「鮎海ちゃん、なんでそんなに驚くんだよ」
「女の子って、みんな背が高い人が好きなんだろ?」
違う。
そうじゃない。
でも、言えない。
「奏美ちゃんは向井くんのことが好きなんだよ」
その一言は、私の口から言ってはいけない気がした。
でも、本当にどうして奏美ちゃんはそんなことを言ったんだろう。
向井くんがますます不安になるだけじゃない。
「鮎海ちゃん、なんとか言ってよ」
「あ……うん」
「そんなことないと思う!」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
「あっ、今日、悠太と帰る約束してた!」
そう言って、私は約束なんてしていない弟を迎えに、一年生の教室へ逃げた。
あの時は、何も言えなかった。
* * *
二学期が終わり、三学期。
平和な毎日だった。
朝、学校へ行き、
チビ太のお世話をして、
メダカに餌をあげる。
そして、西城先生の楽しい授業を受ける。
毎日が当たり前のように過ぎていった。
もちろん、小さな出来事はたくさんあった。
友達の家へ遊びに行った時、お母さんが出してくれた冷凍バナナが固すぎて食べられなかったこと。
チビ太が脱走して、西城先生の机の下で大量のうんちをしてしまったこと。
給食のレーズンパンが人気なくて、私は残っていたレーズンだけをほじって食べていたら、食べすぎて鼻血を出し、保健室へ行ったこと。
向井くんが牛乳を飲みすぎて、お腹を壊したこと。
良美ちゃんが、ついに浩斗くんに振られたこと。
お習字で墨汁のふたを閉め忘れ、教室を大惨事にしてしまったこと。
家庭科で味噌作りをする日に、風邪が流行して学級閉鎖寸前になったこと。
今思えば、本当にどこにでもある小学生の日常だった。
でも、私にはその「どこにでもある毎日」が、とても幸せだった。
何事もなく学校へ通えること。
友達と笑えること。
先生の授業を受けられること。
三年生の私には、それが当たり前ではなかったからだ。
そうして、穏やかな日々は過ぎていった。
月日は流れ、四年生も終わりを迎える。
また、恩師との別れの季節がやってきた。
