先生、あのね。

三年生に進級した。

初めてのクラス替え。

少しだけ緊張しながら、新しいクラス名簿を見た。

良美ちゃんがいる。

藍ちゃんも同じクラスだ。

嬉しかった。

でも、その嬉しさはすぐに小さくなった。

担任の先生の名前を見た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

そこに、しもちゃんの名前はなかった。

春休みの間に、しもちゃんは転勤してしまった。

隣のクラスの今井先生も、赤ちゃんを産むためにお休みに入ると聞いた。

先生たちとのお別れ会で会えるのが、しもちゃんに会える最後の日だった。



* * *


三年一組の教室へ入る。

一年生と二年生の一組、二組が混ざって、新しいクラスができていた。

幼稚園からの友達、良美ちゃん。

これから先、さまざまな運命を共にすることになる、横峰和香ちゃん。

そして、いつも一緒にいた藍ちゃん。

新しい教室には、知っている顔がたくさんあった。

それでも、どこか落ち着かなかった。

教壇に立っていたのは、小西郁美先生。

兄弟班の遠足で、私を叱った先生だった。



* * *


小西先生の自己紹介が終わると、今度は私たちの番だった。

一人ずつ名前順に苗字を呼ばれ、返事をして、自分の名前を言う。

それだけの簡単な自己紹介だった。

私より先に、良美ちゃんの名前が呼ばれた。

緊張していた良美ちゃんは、自己紹介を失敗してしまった。

すると、小西先生はその場で良美ちゃんを叱った。

教室中に、不安な空気が立ちこめた。

大きな声で自分の名前を言う。

たったそれだけのことが、急に難しくなった。

いよいよ、私の番が来た。

震える足で立ち上がる。

「高江洲鮎海です。よろしくお願いします」

なんとか言い切って、席に座った。

ほっとした。

ふと見ると、良美ちゃんがこちらを見ていた。

私はニコッと笑い返した。

すると、良美ちゃんはそっぽを向いた。

子どもの私には、良美ちゃんが私にも同じ失敗をしてほしかったのだと思えた。

その日から、私と良美ちゃんの関係は大きく変わっていくことになる。

自己紹介は、まだ続いていた。

やがて、一人の男の子が立ち上がった。

「向井郁(むかいたかし)です。よろしくお願いします」

先生は名簿に目を落とすと、少し表情を変えた。

「『郁』という字は、『たかし』とは読みません」

教室が静まり返る。

先生は続けた。

「先生は、あなたのことを『いくくん』と呼びます」

向井くんは、何も言わなかった。

教室のみんなも、何も言えなかった。

その日から先生は、本当にずっと「いくくん」と呼び続けた。

私たち子どもも、先生に合わせるように「向井くん」と呼ぶようになった。

仲が悪かったわけではない。

でも、「たかしくん」と呼ぶ子は一人もいなかった。

そして、最後の順番。

横峰和香ちゃん。

和香ちゃんは立ち上がったものの、泣き出してしまった。

名前を言うことができなかった。

小西先生は、そんな和香ちゃんを叱った。

和香ちゃんは、次の日から学校に来られなくなった。



* * *



小西先生に怒られないようにしなくちゃ。

三年生が始まって最初の日、そう心に決めたのは、きっと私だけではなかったと思う。

自己紹介の日以来、和香ちゃんは学校へ来なくなった。

でも、元気にしていることは知っていた。

私の家と和香ちゃんの家は、家族ぐるみの付き合いがあった。

弟の悠太と和香ちゃんの妹は同い年。

お母さん同士も仲が良く、よく一緒に話をしていた。

だから、学校へ来ていない和香ちゃんが、私の家へ遊びに来ることもあった。

当時の私は、「不登校」という言葉を知らなかった。

しもちゃんと過ごした二年間。

学校は毎日行くものだと、当たり前に思っていた。

風邪をひいているわけではない。

だから、そのうち学校へ戻ってくるんだろう。

そんなふうに考えていた。

だから、係決めの時も、和香ちゃんの係が決まるものだと思っていた。

でも、小西先生は和香ちゃんの係を決めなかった。

教室にいるみんなには係があるのに。

子どもだった私は、その意味が分からなかった。

私は掃除係を希望した。

一年生、二年生の頃。

しもちゃんは、雑巾がけをすると、

「鮎海ちゃん、早くてすごいね」

と褒めてくれた。

教室の隅まで丁寧にほうきをかけた子には、

「わあ、きれい」

「教室がきれいだと、みんなが気持ちいいね。ありがとう」

そう言って笑ってくれた。

だから、一年一組のみんなには、掃除が好きな子が多かった。

褒めてもらうことが嬉しくて、自然とゴミを拾うようになっていた。

そしてもう一つ。

今度は、小西先生に怒られたくなかった。

だから、しもちゃんのクラスだった子どもたちは、みんな掃除係を希望した。

希望者が多く、じゃんけんになった。

今思えば、このじゃんけんが三年生を大きく変えた。

少し大げさかもしれない。

でも、本当にそう思う。

もしあの時勝っていたら、私の三年生は少し違っていたのかもしれない。

……もちろん、私は負けた。

一回負け。

二回負け。

何度じゃんけんをしても勝てない。

そして最後に残った係。

それが、レクリエーション係だった。

一緒になったのは、良美ちゃん、向井くん、そしてクラスで一番人気だった浩斗くん。

人気者の男の子がいるのに、不思議なくらい人気のない係だった。

理由は、すぐに分かった。

良美ちゃんがいたから。

女の子たちは、その係を選ばなかったのだ。



* * *


日直になると、黒板の端にある「日直」の欄へ、自分の名前を書く。

もちろん、漢字で。

ほとんどの子の名前は三文字か四文字。

小さな枠の中でも十分に書ききれた。

でも、私の名前は五文字。

「高江洲鮎海」

何度書いても、うまく収まらない。

消しては書き、書いては消す。

それを繰り返していた。

その日、一緒に日直だったのは向井くんだった。

困っている私を見て、向井くんが言った。

「鮎海ちゃん、俺の方に一文字書いていいよ」

私はその言葉に甘えることにした。

黒板には、こんなふうに名前を書いた。

日直 向井 郁 海
   高江洲 鮎

子ども同士なら、

「名前がつながっちゃった!」

そんなふうに笑い合って終わる話だったのかもしれない。

ところが、この教室では違った。

小西先生は黒板を見ると、声を上げて笑った。

「あら、郁海ちゃんと鮎ちゃんって誰かしら?」

「日直は男の子と女の子のはずなのに、二人とも女の子なのね」

教室にも笑いが広がった。

私は、ただ立ち尽くしていた。

こんな時は、先生が止めてくれるものだと思っていた。

でも、その教室では違った。

最後に小西先生は、必ずこう言うのだった。

「これだから、下石先生のクラスの子はだめなのよ」

向井くんは二年生まで二組だった。

だから、その言葉は私に向けられているのだと、私は感じた。

向井くんの「郁」という字のこと。

そして、しもちゃんのクラスだった私たち。

当時の私は、それぞれがどういう意味を持っていたのかは分からなかった。

三年一組の空気は、少しずつ変わっていった。

そして、それはここから加速していくことになる。



* * *



小西先生からのキツイ言葉は、少しずつ増えていった。

私には理由が分からなかった。

どうして私ばかりなのだろう。

何がいけなかったのだろう。

毎日楽しみだった学校が、少しずつ楽しくなくなっていった。

そんな頃、しもちゃんのお別れ会の日がやってきた。

しもちゃんは、いつもより少しだけおめかしをしていた。

胸にはきれいなお花がついていた。

「ああ、本当に行っちゃうんだ」

そう思った瞬間、とても悲しくなった。

みんなで歌を歌った。

一生懸命書いた手紙を渡した。

本当なら、それで終わるはずだった。

でも、私は我慢できなかった。

「しもちゃん、行かないで」

泣きながら、しもちゃんに抱きついてしまった。

しもちゃんは、いつものように優しく背中を撫でてくれた。

「大丈夫、大丈夫」

「いつかまた会えるよ」

「小西先生とも仲良くね」

「鮎海ちゃん、大丈夫」

その「大丈夫」は、何度も私を助けてくれた魔法の言葉だった。

それでも、その日は涙が止まらなかった。

今でも時々思う。

あの日、笑顔で「またね」と言えていたら。

何か違っていたのだろうか、と。

もちろん、本当のことは分からない。

でも、そんなことを考えてしまうくらい、私はしもちゃんとの別れが悲しかった。

泣き止めなかった私は、保健室で休むことになった。

迎えてくれたのは、中川先生だった。

何も聞かず、そばにいてくれた。

帰り道は、藍ちゃんと、藍ちゃんのお母さん。

そして私のお母さん。

四人でゆっくり歩いて帰った。

桜が咲いていたのか、風が吹いていたのか。

そんなことは覚えていない。

ただ、しもちゃんがいなくなったことだけは、今でもはっきり覚えている。


* * *


しもちゃんのお別れ会が終わってから、小西先生の厳しい言葉は更に増えていった。

その矛先は、さまざまだった。

勉強が得意だった藍ちゃん。

でも、体育は少し苦手だった。

できないことがあるたびに、小西先生は藍ちゃんにも厳しい言葉をかけるようになった。

私は少しずつ気づき始めていた。

体育の時間に、藍ちゃんと一緒にいると、私も怒られる。

それは、子どもなりの思い込みだったのかもしれない。

でも、当時の私には紛れもない事実に思えた。

気づけば、私と藍ちゃんは少しずつ距離を置くようになっていた。

朝、一緒に登校することもなくなった。

休み時間も、それぞれ別に過ごすことが増えた。

私たちだけではない。

教室のみんなが、「怒られないように」。

そのことだけを考えて学校へ来ているようだった。

体育も勉強も、私は特に苦手ではなかった。

だから、授業中に怒られることはほとんどなかった。

でも、私には別の苦手なことがあった。

給食を食べるのが遅い。

謝ったところで、早く食べられるようになるわけではない。

だから私は、毎日のように小西先生に叱られていた。

怖い。

怖い。

怖い。

給食を食べ終え、食べるのが遅かった子たちが全員叱られる。

それが終わると、ようやく先生が教室からいなくなる時間がやってくる。

子どもたちが自由に過ごせる、唯一の時間だった。

その日も私は叱られて意気消沈し、自分の席に座ってぼんやりしていた。

教室では、男子たちが下敷きを振り回して遊んでいた。

そのうちの一人の手が滑り、下敷きが私の方へ飛んできた。

次に覚えているのは、左目のあたりに走った痛みだった。

びっくりして泣きわめいているクラスメイトもいた。

当の私は、何が起きたのか理解できていなかった。

ただただ痛い。

それだけだった。

誰かが先生を呼びに行った。

小西先生が急いで戻ってきた。

強い力で布を顔に当てられ、視界が真っ暗になった。

「大丈夫、大丈夫よ。先生がいるからね。」

小西先生は私を抱きしめて、背中をさすってくれた。

あれ?

しもちゃんと一緒?

優しい先生なの?

次に覚えているのは、保健室のベッドの上だった。

片目を塞がれた状態で、とにかく痛い。

泣きたい。

でも、泣けない。

涙が傷にしみるから、泣くともっと痛いのだ。

そこへ小西先生が、二人の男子を連れてきた。

「高江洲さんに謝りなさい」

二人は、

「僕じゃない」

「僕じゃない」

「こいつが!」

と、責任を押しつけ合っていた。

すると小西先生は、二人の頬を一回ずつ叩いた。

大泣きする二人に、何度も謝れと怒り続ける。

正座をさせて、床に頭をこすりつけさせた。

「痛い、痛い」

二人は泣いていた。

痛くて泣きたいのは私なのに。

涙がしみるから、私は泣けない。

許してあげなくちゃいけないのかな?

そう思ったことを覚えている。

目の近くの怪我だったので、事態は大きくなった。

遠足の時に助けてくれた中川先生が教頭先生とお母さんを連れて保健室に来た。

血のついた洋服から新しい洋服に着替え、私は教頭先生とお母さんと一緒に病院へ行った。

教頭先生と直接関わった、最初の出来事だった。

幸い、眼球に傷はなかった。

瞼に傷がついただけで済んだ。

眼帯をしてお母さんと家に帰ると、お父さんと悠太がいた。

幼稚園のお迎えがあるので、お父さんも急いで帰ってきていたのだろう。

私の眼帯を見ると、悠太は、

「お姉ちゃん、かっこいい」

と言って触ろうとした。

すぐにひどく叱られて、今度は悠太が大泣きした。

さっきから、泣きたいのは私だ。

ただ、涙がしみるから泣けない。

泣かなかったことを病院の先生に褒められた。

「泣かないで、偉いね」

そうか。

泣かないと、褒められるのか。

泣かないようにしよう。


* * *


下敷き事件があってから、三年一組はさらに活気を失った。

教室は静かになり、お昼休みに遊ぶ子もほとんどいなくなった。

それでも、事件は起きる。

ある日の道徳の時間。

係活動の報告を、一つずつ発表することになった。

それぞれの係が前へ出て、何をしたのかを話していく。

その日、向井くんは風邪で学校を休んでいた。

前へ出たのは、私と良美ちゃん、そして浩斗くんの三人だった。

レクリエーション係には、報告できる活動が何もなかった。

だって、誰も遊ばない。

だから、係でできる仕事がないのだ。

どうしよう。

そう思っていると、良美ちゃんが小さな声で言った。

「かげおくりをしたことにしよう」

ちょうどその頃、国語で『ちいちゃんのかげおくり』を習ったばかりだった。

子どもだった私たちは、その場しのぎの嘘をついた。

もちろん、大人をだませるはずがない。

小西先生はすぐに気づいた。

「かげおくりをした人、いる?」

先生は教室のみんなに何度も尋ねた。

誰も手を挙げなかった。

それでも、良美ちゃんは言った。

「本当にやりました」

その後のことは、ところどころしか覚えていない。

気がつくと、私と良美ちゃんは教室の床に正座をしていた。

木の床は古く、傷んだ部分から小さな釘が出ていた。

左足に、その釘が当たる。

痛い。

少しだけ正座を崩そうとした。

その瞬間、小西先生に見つかった。

肩を押さえられた。

逃げられなかった。

すると、良美ちゃんが言った。

「鮎海ちゃんに、嘘をつこうって言われました」

私は、言葉が出なかった。

良美ちゃんは先に席に戻った。

残ったのは、私一人だった。

悲しかった。

怖かった。

誰も助けてくれない。

そんな気持ちだけが、胸いっぱいに広がっていった。

やがて、釘が当たっていたところから血が出ていることに気づいた。

私は保健室へ行くことになった。

中川先生は、傷を見ながら優しく聞いた。

「どうしたの?」

私は答えた。

「転びました」

本当のことは言えなかった。

手当てが終わると、中川先生は、

「教室へ戻ろうか」

と声をかけてくれた。

でも、私は首を振った。

「嫌だ」

泣かないと褒めてもらえる。

だから、泣かないようにしよう。

そう決めたばかりだった。

でも、もう我慢できなかった。

私は中川先生の前で、大声をあげて泣いた。

そこから先のことは、あまり覚えていない。

気がつくと、幼稚園の水色のスモックを着た悠太と、お母さんが迎えに来ていた。

「ねえちゃん、かえろう!」

悠太が私の手を握る。

その横で、中川先生は、お母さんに私の怪我の様子を説明してくれていた。

その日の帰り道のことは覚えていない。

でも、悠太の小さな手のぬくもりだけは、今でも忘れていない。



* * *



「頭が痛い」

それが、私の初めての嘘だった。

「今日は学校に行けない」

「熱があるの」

お母さんは何も言わず、体温計を私の脇にはさんだ。

もちろん、熱なんてなかった。

それでも私は言い張った。

「頭が痛い」

「今日は学校を休む」

両親は、ただのわがままだと思っていたのだろう。

そこへ起きてきたお父さんが言った。

「頭が痛いなら、今日は休みなさい」

私は学校を休むことに成功した。

でも、子どもの嘘は長く続かない。

学校を休めた安心から、私は家でいつものように過ごしてしまった。

それを見たお母さんは笑って言った。

「あら、元気じゃない」

「明日は学校へ行くのよ」

……失敗した。

頭が痛いなら、ずっと頭が痛いふりをしなければいけなかった。

次の日、私は嘘を変えた。

今度は、お腹が痛いことにした。

来る日も来る日も、

「お腹が痛い」

そう言って学校を休んだ。

そのたびに、藍ちゃんが学校のプリントを届けてくれた。

何日も休んでいる私を心配した藍ちゃんは、お母さんに学校であったことを話した。

その話は、藍ちゃんのお母さんから私のお母さんへ。

そして、お父さんへ伝わった。

ある日、お父さんが静かに聞いた。

「学校で何かあったのか」

私は首を横に振った。

「何もない」

「お腹が痛いだけ」

お父さんは少し考えてから言った。

「何もないなら学校へ行きなさい」

「でも、誰かに嫌なことをされたなら言いなさい」

「無理に学校へ行かなくてもいいから」

その言葉を聞いても、私は本当のことを言えなかった。

代わりに口から出たのは、

「良美ちゃんと喧嘩してる」

「意地悪されてる」

という言葉だった。

嘘ではなかった。

でも、本当の理由でもなかった。

子どもの私には、それ以上説明することができなかった。

その結果、私が学校へ行けないのは、良美ちゃんとの関係が原因なのだと大人たちには伝わった。

それも無理はない。

藍ちゃんの家族も、私の家族も、学校を信じていた。

先生は子どもを守ってくれる。

学校は安心できる場所だ。

みんなそう信じていた。

しもちゃんが作ってくれた信頼関係のおかげで。



* * *



「良美ちゃんとのことが原因なら、お席を離します。だから、ぜひ学校へ来てくださいね」

電話の向こうから聞こえてきたのは、小西先生の声だった。

受話器越しの先生は、学校で見る先生とはまるで別人のように優しかった。

その声を聞いたお母さんは言った。

「席を替えてくれるんだって。よかったね」

私は小さくうなずいた。

本当は、そういう問題ではなかった。

でも、「違う」と言える空気ではなかった。

後から知ったことだけれど、同じような電話は、和香ちゃんの家にもかかっていた。

席替えをするから、学校へ来てほしい。

私たちは、同じ日に学校へ戻った。

教室へ入ると、小西先生は笑顔で私を迎えた。

「気づいてあげられなくてごめんね」

「席を替えるから、また楽しく学校へ来てね」

その言葉を聞いて、お母さんは安心したように私の手を離した。

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

本当に席は替わっていた。

良美ちゃんは、教室の一番奥の端。

私は、先生の目の前。

そして、しばらく日直をしていなかった私と和香ちゃんは、その日二人で日直をすることになった。

教室の花に水をあげる。

メダカに餌をあげる。

黒板を消す。

給食の前と後のあいさつをする…。

その日の給食は、カレーライスだった。

和香ちゃんは野菜が苦手で、早くも泣いていた。

私は二年生の頃の自分を思い出した。

人参が食べられなかった私。

しもちゃんが教えてくれた方法を思い出し、和香ちゃんに小さな声で伝えた。

「小さくして、お肉の下に隠してみたら?」スプーンで野菜をつぶした。

その瞬間だった。

「食べ物で遊んではいけません」

小西先生の声が教室に響いた。

私は慌てて答えた。

「遊んでいません」

「苦手だから、小さくしただけです」

先生は何も言わず、その場は終わった。

私は少しだけ安心した。

でも、それは始まりに過ぎなかった。

私は牛乳が苦手だった。

いつもは向井くんが、自分の牛乳を半分飲み、その空いた分に私の牛乳を移してくれていた。

それが、その日は小西先生に見つかった。

私たちは二人そろって叱られた。

向井くんは言った。

「僕は背が小さいから、鮎海ちゃんが牛乳を分けてくれているんです」

私をかばってくれたのだ。

ようやく席へ戻った時には、カレーはもう冷たくなっていた。

教室のみんなも、私たちを見ていて手が止まっていた。

人気メニューのカレーだったのに、その日は誰もおかわりをしなかった。

給食の時間は、とっくに終わっていた。

でも、日直は「ごちそうさま」のあいさつをしなければならない。

私は先生のところへ行った。

「先生、ごちそうさまのあいさつをしてもいいですか」

返事はなかった。

聞こえなかったのかと思い、私は席へ戻った。

その直後だった。

小西先生は突然立ち上がり、私の髪をつかんだ。

椅子から引きずり下ろされる。

床へ倒れた私に、先生は怒鳴った。

「どうしてそんなことも分からないの!」

その後のことは、断片的にしか覚えていない。

給食のトレーが床へ落ちる音。

食器が割れる音。

ドンっという低くて鈍い音


そして、私は学校へ行けなくなった。


* * *


翌日から私は

家で泣き、暴れ、

「学校へは行かない」

と繰り返すようになった。

その出来事を目の前で見ていた和香ちゃんも、再び学校へ来られなくなった。

当時、教室で何があったのか。

子どもだった私には分からなかったことも多い。

それでも、あの日を境に、学校は私にとって安心できる場所ではなくなった。


* * *


学校へ行けなくなった私は、毎朝お父さんに言った。

「お腹が痛い」

本当のことをお母さんに話したら、

「学校へ行きなさい」

と言われるような気がしていた。

だから、お父さんにだけ言っていた。

何日も続くと、お父さんも不思議に思ったのだろう。

ある朝、お父さんは言った。

「今日は早く帰ってくるから、夜に話そう」

そう言って仕事へ向かった。

その日、お父さんは本当に早く帰ってきた。

正確な時間は覚えていない。

でも、弟の悠太がまだ起きていた。

だから、いつもよりずっと早かったことだけは覚えている。

お父さんはお母さんに言った。

「悠太を寝かせてきて」

悠太が眠ったあと、お母さんも部屋へ戻ってきた。

私は学校であったことを、泣きながら話した。

途中で何度も言葉が詰まった。

泣いて、泣いて、泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。

翌朝、目が覚めると、一時間目が終わる頃だった。

起こされなかったことに驚いた。

お母さんは言った。

「もう学校へ行かなくていいよ」

その言葉に、少しだけ安心した。

でも、お母さんは続けた。

「今日だけは寝坊していい」

「明日からはちゃんと朝起きて、悠太の幼稚園バスのお見送りをしようね」

私はうなずいた。

その頃には、藍ちゃんのお母さんと和香ちゃんのお母さんから、それぞれ子どもたちが話したことが伝わっていた。

三人の話は一致していた。

それを聞いたお父さんは、学校へ行くことを決めた。

私が学校へ行けなくなった理由を話すために。



* * *



数日後。

教頭先生と小西先生が、家庭訪問に来ることになった。

小西先生が謝りたいと言っている、と聞いた。

私は会いたくなかった。

「嫌だ」

そう言った。

すると、お父さんが言った。

「教頭先生も一緒に来る」

「もしまた何かあっても、お父さんも、お母さんも、教頭先生もいる」

「大丈夫だから」

私は怖かった。

それでも、うなずいた。

玄関のドアが開いた。

部屋へ入ってきた小西先生は、座るなり泣き始めた。

そして言った。

「私はそんなこと覚えていません」

「もし本当にそんなことをしていたなら謝ります」

少し間を置いて、私を見た。

「鮎海ちゃん」

「先生、そんなことしていないわよね?」

私は何も言えなかった。

怖かった。

泣きたかった。

でも、涙も出なかった。

私は、お母さんの後ろへ隠れた。

先生は泣き続けていた。

私は思った。

このままでは、帰ってくれない。

小さな声で言った。

「……私の嘘です」

「ごめんなさい」

先生は涙をぬぐいながら言った。

「そうよね」

「先生、そんなことしてないわよね」

先生は泣き止んだ。

そして、帰っていった。

やっと終わった。

そう思った瞬間、張りつめていたものが切れたように、私は泣き出した。

しばらくして、玄関のドアがもう一度開いた。

教頭先生だけが戻ってきた。

私は思った。

――まだ帰ってもらえないんだ。

教頭先生は静かに言った。

「鮎海さんに、お話があります」

教頭先生は顔が怖かった。いやだ。

でも、話を聞かなければいけない。

そんな空気だった。

私は、小さくうなずいた。

教頭先生は、静かに私へ話しかけた。

「鮎海ちゃんは、お勉強が嫌いかな?」

私は首を横に振った。

「じゃあ、お勉強は好き?」

少し考えてから答えた。

「算数は好きです」

教頭先生は、にっこり笑った。

「じゃあ、教頭先生と算数のお勉強する?」

私は答えられなかった。

学校には、小西先生がいる。

その学校へ行くことが、まだ怖かった。

すると、教頭先生は言った。

「じゃあ、教頭先生がおうちに来て、一緒に算数を勉強しようか」

私は小さくうなずいた。

「よし、決まり」

「一緒にお勉強しよう」

教頭先生が来られる日に合わせて、家で算数を教えてもらうようになった。

そんな日が、しばらく続いた。

ある日、教頭先生が聞いた。

「鮎海ちゃん、学校へ行ってみない?」

私は首を横に振った。

絶対に行かない。

そう思っていた。

教頭先生は、それ以上何も言わなかった。

少し間をおいてから、こう続けた。

「教室には行かないよ」

「中川先生のところへ通ってみない?」

私は、何を言われたのか分からなかった。

「中川先生、知っているよね?」

私はうなずいた。

「保健室なら行けるんじゃないかなって、教頭先生は思ったんだけど。どうかな?」

少しだけ考えた。

「……行ってみる」

翌日、お母さんと教頭先生と一緒に学校へ行った。

向かった先は、教室ではなかった。

保健室だった。

そこには、私の机が置いてあった。

そして、和香ちゃんの机も。

校庭側の扉には、開け閉めのできるカーテンが付けられていた。

教頭先生は言った。

「ここで、中川先生と教頭先生と一緒に勉強しよう」

私はうなずいた。

「うん」

そうして、私と和香ちゃんの保健室登校が始まった。

教頭先生と中川先生が、保健室に小さな教室を作ってくれた。

使い慣れた机と椅子。

ランドセルを入れる棚。

下駄箱まで行かなくてもいいように、上履きを置く場所まで用意されていた。

ここへ、まず一週間通ってみよう。

それが、私たちの目標だった。

帰りたくなったら、中川先生に言えばいい。

お母さんへ電話をして、迎えに来てもらえる。

給食は、中川先生と一緒に保健室で食べる。

教頭先生や中川先生がいない時間は、好きなドリルをやる。

休み時間は、何をしていてもいい。

それが、私たちの保健室登校だった。

校庭側の扉には、カーテンが付いていた。

普段は開いている。

でも、三年一組が校庭で体育をする時間や、全校朝礼の時だけは閉めることになっていた。

私たちが開けたいと思った時は、開けてもいい。

そんな約束だった。

それでも、私と和香ちゃんは開けることができなかった。

藍ちゃんのお母さんから聞いた話では、小西先生は以前より穏やかになったそうだ。

それでも、私は会いたくなかった。

和香ちゃんも同じだった。

それから私たちは、一日も早退することなく保健室へ通った。


* * *


三日ほどたった頃だった。

給食の時間になると、向井くんが保健室へやって来た。

目的は、牛乳だった。

牛乳を飲んで、少しだけ私たちと話をする。

そして昼休みになると、そのまま保健室の扉から校庭へ飛び出していく。

「向井くん、ちゃんと下駄箱から行きなさーい!」

中川先生が笑いながら声をかける。

「こらー!」

向井くんは振り返って笑うだけ。

そのやり取りは、毎日のように続いた。

保健室には、少しずつ笑顔が戻ってきていた。

ある日のこと。

その日は珍しく、教頭先生も保健室で一緒に給食を食べていた。

給食を食べ終わる頃になると、いつものように向井くんが牛乳を飲みにやって来た。

向井くんは、背が小さいことを気にしていた。

背の高い教頭先生を見上げながら、

「どうしたら身長って伸びるんですか?」

と真剣に質問している。

その姿がおかしくて、みんなで笑った。

教頭先生は、三年一組の教室にもよく行っていたようだ。

子どもたちの顔も名前も、みんな覚えてくれていた。

ふと、教頭先生が聞いた。

「そういえば、どうしてみんな向井くんのことを『たかしくん』って呼ばないの?」

私は当たり前のように答えた。

「『郁』っていう漢字は、『たかし』って読まないから変なんだって」

「だから小西先生が、『むかいいくくん』って呼ぶの」

和香ちゃんも続けた。

「でも、本当はいくくんじゃないから、みんな向井くんって呼ぶんだよ」

私たちにとっては、それが当たり前だった。

何もおかしいことだとは思っていなかった。

教頭先生は何も言わなかった。

中川先生も何も言わなかった。

静かな保健室で、二人は顔を見合わせていた。

その時だった。

中川先生の目が、少し潤んでいることに気づいた。

どうして涙ぐんでいたのか。

私には、その理由が分からなかった。



* * *



ある日の給食は、鶏肉のおかずだった。

中川先生は鶏肉が苦手だった。

だから、その日は私とおかずを交換した。

私は鶏肉が大好き。

高江洲家のすき焼きは、鶏肉で作るのが当たり前だった。

だから、不思議になって聞いた。

「中川先生、すき焼き食べられないの?」

甘じょっぱくて、とってもおいしいすき焼き。

あれが食べられないなんて、かわいそう。

そう思っていた。

すると、中川先生は笑って言った。

「先生、すき焼き大好きよ」

私は首をかしげた。

「え? どうして?」

鶏肉が食べられないのに、どうしてすき焼きは食べられるんだろう。

聞いてみると、中川先生の家では、すき焼きは牛肉で作るのだという。

唐揚げも、豚肉で作ることがあると教えてくれた。

私はびっくりした。

同じ料理でも、おうちによって材料が違う。

それでも、おいしく食べられる。

子どもの私には、それが大発見だった。

その話をどこで聞いていたのだろう。

向井くんは、それから給食に唐揚げが出る日になると、真っ先に保健室へ来るようになった。

そして、もう一つ忘れられない出来事がある。

中川先生は、鶏肉が出る日は家からふりかけを持ってきていた。

「おとなのふりかけ」

私は一度も食べたことがなかった。

だって、高江洲家では、お父さんが酔っぱらうとよく言っていたから。

「おとなのふりかけは、大人しか食べられない」

「子どもが食べたら死んじゃうぞ」

私は、それを本気で信じていた。

その日、和香ちゃんが言った。

「先生、ふりかけほしい」

中川先生は何の迷いもなく、「おとなのふりかけ」を和香ちゃんのご飯にかけた。

私は大慌てだった。

「先生、だめ!」

「和香ちゃんが死んじゃう!」

中川先生も、和香ちゃんも、きょとんとしている。

どうして私がそんなに慌てているのか、分からなかったのだ。

それもそのはず。

お父さんの冗談を、私が本気で信じていただけだった。

和香ちゃんは、おとなのふりかけがかかったご飯を一口、また一口と食べていく。

しかし、何も起こらない。

「鮎海ちゃんも食べる?」

そう聞かれたけれど、私は首をぶんぶん横に振った。

すると、中川先生が笑いながら言った。

「じゃあ、和香ちゃんが明日も元気に学校へ来たら、鮎海ちゃんも食べてみる?」

「うん!」

次の日。

和香ちゃんは、いつも通り元気に保健室へやって来た。

私は念のため、教頭先生にも聞いてみた。

「おとなのふりかけって、本当に子どもが食べても大丈夫?」

教頭先生も中川先生も、笑いながら言った。

「もちろん大丈夫」

その日の夜、お父さんにも聞いてみた。

すると、お父さんは笑っていた。

「そんなこと言ったっけ?」

どうやら、お父さん自身は冗談で言ったことさえ忘れていたらしい。

私は少しだけ安心した。

そして、初めて「おとなのふりかけ」を食べた。



* * *



その後、私は普段の授業を保健室で受け、音楽や図工など、先生が代わる授業にはクラスのみんなと一緒に参加するようになっていった。

和香ちゃんは、それでも教室には行きたくないと言った。

だから、音楽や図工の時間になると、和香ちゃんは保健室に残り、私は音楽室や図工室へ向かう。

少しずつ、私たちは別々の時間を過ごすようになった。

図工の時間。

絵の具まみれになった手を軽く洗い、給食が待っている保健室へ戻った。

私の手を見た中川先生は、

「その手でそのまま給食はダメ。やり直し!」

そう。

中川先生は保健の先生。

衛生面には厳しい。

保健室で絵の具を使うわけにはいかないので、和香ちゃんはクーピーやクレヨンで塗り絵をしていた。

だから、手はそんなに汚れない。

一方の私は図工室で絵の具まみれ。

時には爪にボンドまでくっついている。

そんな汚い手のまま給食を食べることは、当然許してもらえない。

「まだ汚い。やり直し!」

何度も手を洗いに戻された。

四時間目が図工の日は、和香ちゃんと揃って給食を食べることもなかった。

* * *

月日は流れ、三学期が始まった。

私と和香ちゃんは、変わらず保健室へ通っていた。

その頃になると、教頭先生をはじめ、学校の先生たちはどこか忙しそうだった。

今思えば、私たちのことを話し合っていたのだと思う。

四年生になったら、どうするのか。

保健室登校は、一時的なものになるはずだった。

教頭先生は、保健室で学校に慣れ、少しずつ教室へ戻れるようにと考えてくれていたのだろう。

でも、その願いが叶わなくなる出来事が起きた。

それは、教頭先生が学校にいない日に起きた。

体育の授業中。

小川浩斗くんが怪我をして、小西先生に連れられて保健室へ入ってきた。

その時、中川先生はちょうど職員室へ行っていて、保健室にはいなかった。

私と和香ちゃんは、一瞬で体が固まった。

幸い、浩斗くんの怪我は大したことがなく、すぐに校庭へ戻っていった。

保健室には、私たち二人と小西先生だけが残った。

小西先生は私たちに言った。

「教室へ行こう」

そう言って、私の手を引く。

私たちは何も答えられなかった。

まるで、お化け屋敷へ入った時のように体が動かない。

二人で首を横に振ることしかできなかった。

教頭先生。

中川先生。

助けて。

そう叫びたかった。

でも、声は出なかった。

涙も出ない。

ただ、和香ちゃんと手を握り合い、震えていた。

その頃、校庭では向井くんが浩斗くんに聞いていた。

「小西先生はどうしたの?」

「中川先生がいなかったから、片付けしたら戻るって。」

そう聞いた向井くんは、慌てて隣のクラスの先生を呼びに行った。

その時のことは見ていない。

これは、後になって知った話である。

隣のクラスの大村先生は状況を見ると、向井くんに言った。

「中川先生、呼んできて」

向井くんは、すぐに職員室へ走っていったという。

私が覚えているのは、保健室の中のことだけだ。

小西先生は泣きながら言った。

「こんなに謝っているのに、どうして許してくれないの」

「どうして教室へ来てくれないの」

その声が、とても怖かった。

しばらくして、向井くんが中川先生たちを連れて保健室へ来た。

私と和香ちゃんは、校長室へ避難することになった。

その日は一日、校長室で過ごすことになった。

真っ黒な大きなソファに座って、泣いている和香ちゃんと一緒に。



* * *



次の日から、私はまた学校へ行けなくなった。

家で過ごす毎日。

中川先生と教頭先生は、何度も家へ来てくれた。

「ごめんね。」

そう謝ってくれた。

でも、二人が悪いわけではない。

たまたま中川先生が職員室へ行っていた。

たまたま教頭先生が学校にいなかった。

ただ、それだけだった。

今までも先生たちは、ずっと保健室にいたわけではない。

授業もあれば、会議もある。

職員室へ行くことだってある。

運命が少しだけいたずらをした。

それだけだった。

子どもだった私にも、それは分かっていた。

それでも、恐怖の方が勝ってしまった。

もう保健室へ行くこともできなかった。

三学期の間、私は学校へ戻ることはなかった。

中川先生も教頭先生も、無理に学校へ来るようには言わなかった。

三年生の三月。

教頭先生が家へ来てくれた。

四年生の話をするためだった。

「四年生になったら、小西先生じゃない先生にするからね。」

私の通っていた小学校では、一人の担任が二年間持ち上がるのが普通だった。

だから、一年生と二年生はしもちゃんが担任だった。

私は教頭先生に言った。

「しもちゃんだったら、学校へ行く。」

教頭先生は、ごまかさなかった。

「下石先生には、新しい学校があるんだ。」

「ごめんね。」

「それはできない。」

子どもだからといって、嘘はつかなかった。

その代わり、教頭先生は約束してくれた。

「小西先生には会わせない。」

「だから、学校へ来てほしい。」

私は知っていた。

教頭先生は、約束を守る人だということを。

約束を守らなかったのは、教頭先生ではない。

だから私は信じることができた。

私にとって、教頭先生はヒーローだ。

どんな悪者にも負けない、正義の味方だった。

「四年生になったら学校へ行く。」

私は教頭先生と約束した。