先生、あのね。


一年生と二年生。

私は学校生活の基礎を、すべてしもちゃんから教わった。


* * *


真新しい赤いランドセルを背負って、私は教室へ入った。

教室には色とりどりの花飾りが並び、入学の日を迎える子どもたちを優しく迎えてくれていた。

教壇には、紺色のスカートスーツを着た先生が立っていた。

見るからに優しそうな、まあるい雰囲気の先生。

それが、しもちゃんだった。

しもちゃんは、とても綺麗な字で黒板に大きく名前を書いた。

**下石 茜 先生**

子どもでも読めるように、名前にはふりがなが添えられていた。

「みんなと一年間、一緒にお勉強する下石茜です」

そう言って微笑む先生を、私たちはきょとんとした表情で見つめていた。

すると先生は、にっこり笑って言った。

「しもちゃんって呼んでね」

それが、しもちゃんとの出会いだった。

しもちゃんは、とにかく字が綺麗で、優しい先生だった。

テストで満点を取ると、

「鮎海ちゃん、よく頑張ったね」

そう言って、いつも頭を優しく撫でてくれた。

私は、しもちゃんに褒めてもらいたくて、夢中でドリルに取り組んだ。

そうそう、まだ私の自己紹介をしていませんでしたね。

私は、高江洲鮎海(たかえすあゆみ)。

しもちゃんは、いつも「鮎海ちゃん」と呼んでくれました。


* * *


幼稚園が少し遠かった私には、小学校へ入学しても知っている友達がほとんどいなかった。

同じ幼稚園だったのは、佐伯良美ちゃん。

私は一組、良美ちゃんは二組。

仲の良い友達とはクラスが別々になってしまった。

入学式の日は、とても緊張した。

知らない子ばかりの教室。

ちゃんと友達ができるのかな。

そんな不安でいっぱいだった。

でも、そんな私に小さな奇跡が起きる。

同じマンションに住んでいた藤本藍ちゃんが、同じクラスだったのだ。

お母さん同士が気づき、「ほら、藍ちゃんも一組だったよ」と私たちを引き合わせてくれた。

その日から、藍ちゃんとは毎朝マンションの下で待ち合わせをして学校へ通った。

藍ちゃんは一人っ子。

私は弟がいた。

「一緒に行きましょう」

そう言って、藍ちゃんのお母さんは毎朝学校まで送ってくれた。

今思えば、本当にありがたいことだった。

帰りは六年生のお兄さん、お姉さんたちと一緒に下校する。

それが、あの頃は当たり前だった。

藍ちゃんのお母さんは、とても教育熱心な人だった。

だから藍ちゃんだけは、みんなのように「しもちゃん」とは呼ばなかった。

「下石先生」

いつもきちんと先生をそう呼んでいた。

きっと、お母さんとの約束だったのだろう。

一方、私の家はというと、

「学校が楽しいなら、それが一番」

そんな家庭だった。

今思うと、正反対の家庭環境だったのに、私たちはとても仲が良かった。

藍ちゃんは、お母さんに怒られないように宿題を頑張っていた。

私は、しもちゃんに褒めてもらいたくて宿題を頑張っていた。

同じ宿題でも、理由は全然違った。

宿題が終わると、午後五時の鐘が鳴るまで公園で遊んでよかった。

毎日、宿題を終えると、お母さんは弟と私に三十円ずつお小遣いをくれた。

近所の駄菓子屋さんへ行くためのお金だ。

弟は、その三十円を毎日全部使って、お菓子を買っては食べきってしまう。

でも私は違った。

大好きだったブタメンは六十円。

一日では買えない。

だから二日分のお小遣いを貯めて、二日に一度の楽しみにしていた。

弟は、

「お姉ちゃんだけブタメンずるい!」

と泣いていたけれど、

「ずるくないよ。私は貯めたんだもん」

そう答えていた。

今思えば、そんなふうにお金を貯められたのも、しもちゃんが教えてくれた算数のおかげだったのかもしれない。

幼稚園だった弟には、まだ「貯める」という考えは少し難しかったのだ。

藍ちゃんは、「勉強のできる子になってほしい」という期待の中で育った。

私は、ただしもちゃんに褒めてもらいたくて勉強していた。

その違いは、子どもの私には分からなかった。

でも今なら思う。

藍ちゃんにも、藍ちゃんなりの苦労があったのだろう、と。


* * *


季節は移ろい、朝顔を育てる季節になった。

一人ひとりに青いプランターが配られ、自分だけの朝顔を育てる。

種を植え、水をあげ、毎日観察日記を書く。

一年生らしい、大切な勉強だった。

ところが、私の朝顔はなぜか成長が遅かった。

みんなの朝顔が芽を出しても、私のプランターには土しか見えない。

みんなが双葉になった頃、ようやく小さな芽が顔を出した。

何をするにも、ワンテンポ遅い。

だから観察日記も、みんなより進みが遅かった。

同じ日に植えた。

学校も休んでいない。

それなのに、どうして私だけ。

その頃の子どもは、少し違うだけで不思議がる。

「鮎海ちゃんの朝顔だけ変なの」

そう言われるたびに、胸がぎゅっと苦しくなった。

ある日の帰り道。

私は自分の朝顔に向かって、小さな声で話しかけていた。

「みんなと同じくらい、早く大きくなってね」

すると、後ろから優しい声が聞こえた。

「鮎海ちゃん、何してるのかな?」

しもちゃんだった。

私は、朝顔のことを話した。

みんなに笑われること。

自分だけ成長が遅いこと。

泣きながら、全部話した。

しもちゃんは私のプランターをのぞき込むと、優しく笑って言った。

「確かに、鮎海ちゃんの朝顔は、みんなより少し小さいね」

私はうつむいた。

でも、しもちゃんは続けた。

「でもね、鮎海ちゃん。みんなの朝顔が咲いている頃、鮎海ちゃんの朝顔は、まだ葉っぱかもしれないね」

「でも、みんなの朝顔が咲き終わって枯れてしまったあとに、鮎海ちゃんの朝顔だけ、遅れてきれいな花を咲かせるかもしれないよ」

「その方が、なんだか特別で素敵でしょう?」

「先生と一緒に、楽しみに待っていようね」

不思議だった。

さっきまで泣いていたのに、私はもう笑っていた。

しもちゃんは、どんな出来事も、その子に合った言葉へと変える魔法を持っていた。

私は、その魔法に何度も助けられた。

そして、本当に。

私の朝顔は、一番最後まで咲いていた。

あの日、しもちゃんと一緒に見上げた朝顔を、私は大人になった今でも、はっきりと覚えている。


* * *


となりの二組には、幼稚園で仲良しだった良美ちゃんがいた。

ある日、二組の教室へ行ってみて、私は驚いた。

暗い。

もちろん、電気が消えているわけじゃない。

でも、何かが暗い。

子どもだった私は、その違和感をうまく言葉にできなかった。

だから家に帰ると、お母さんにこう話した。

「二組って、なんだか暗い」

お母さんは少しだけ苦笑いをした。

きっと、お母さんには私が感じたものが分かっていたのだと思う。

今、大人になって振り返ると、あれは教室の空気の重さだったのかもしれない。

一年一組は、毎日学校へ行くのが楽しみな子が多かった。

それに比べて二組は、学校へ行きたくないと言う子が多い。

お母さんたちが集まった時、そんな話をしていたのを聞いたことがある。

幼稚園から仲良しだった良美ちゃんも、その一人だった。

後になって、お母さんから聞いた。

良美ちゃんのお母さんも、娘が学校へ行きたがらないことを、とても心配していたそうだ。

同じ学校。

同じ学年。

それなのに、教室が違うだけで、こんなにも空気が違うことがある。

子どもだった私は、その不思議さだけを感じていた。


* * *


しもちゃんのおかげで、私は学校が大好きだった。

毎日学校へ行くのが楽しみで仕方がない。

特別なことがあったわけではない。

ごく普通の小学生として、のびのびと毎日を過ごしていた。

今、大人になって振り返ると、その「普通」がどれほど幸せだったのか分かる。

しもちゃんがあの時こうしてくれた。

あの言葉が嬉しかった。

そんな思い出が、私の中には数えきれないほど残っている。


* * *


季節は巡り、チューリップの球根を植える頃になった。

朝顔の種を採り終えたあと、しばらく何も植えられていなかった青いプランター。

そこへ今度は、小さな球根を植える。

春になれば、正門の脇には色とりどりのチューリップが咲く。

卒業式や入学式の日。

たくさんの子どもたちや家族の写真を彩る、大切な花だった。

朝顔がゆっくり育ったことがあった私は、今度はチューリップも心配で仕方がなかった。

「しもちゃん、見て」

「大丈夫かな」

何度もしもちゃんを呼んでは、プランターを見てもらっていた。

そんな毎日だった。

気づけば、用務員のおばさんともすっかり顔なじみになっていた。

毎日真剣にプランターをのぞき込む一年生を、おばさんはいつも優しく見守ってくれていた。

ある日の帰り際、おばさんが空を見上げて言った。

「今日は雨が降るから、早く帰りなさいね」

そう言うと、ランドセルに黄色い雨カバーをかけてくれた。

「おばちゃんが、チューリップを見ておいてあげるから」

その言葉が嬉しかった。

でも、黄色い雨カバーをつけているのは私だけだった。

「鮎ちゃん、それ変なの」

友達に笑われた。

少しだけ恥ずかしかった。

けれど、歩き始めてしばらくすると、本当に雨が降り出した。

濡れていく友達のランドセル。

でも、私のランドセルだけは濡れなかった。

私は少し得意げに笑った。

「変じゃないもん」

「おばちゃんが、すごいんだ」

その日、私は誇らしい気持ちで家まで歩いた。

今思えば、おばさんは空を読むのが上手だったのかもしれない。

でも、子どもの私にとっては、雨を当てられる魔法使いみたいな人だった。


* * *


六年生の卒業式が近づく頃。

学校中のチューリップが、少しずつ花を咲かせ始めた。

みんなのプランターには、色とりどりの花。

でも――

私のチューリップだけは、まだ小さなつぼみのままだった。

毎日見ていた。

水もあげた。

大切に育ててきた。

それなのに、やっぱり私だけ遅かった。

卒業式の日。

先生たちは、正門の前へチューリップを並べていた。

卒業生が写真を撮るためだ。

花がきれいに見えるように、一つひとつ場所を変えていく。

私のチューリップは、花が咲いていないから、そっと門の端へ移された。

私は悲しかった。

六年生のお兄さん、お姉さんには、たくさん遊んでもらった。

その卒業の日を、私のチューリップも一緒に彩ってほしかった。

「しもちゃん……」

「やっぱり、みんなと一緒がよかった」

私は泣いた。

しもちゃんは、いつものように優しく頭を撫でながら言った。

「大丈夫」

「大丈夫だから」

その言葉は、朝顔の前でかけてもらった言葉と同じだった。