ライちゃんじゃなくて、この声で君とお話ができたら

新しい制服に新しい通学用のリュック。柚木志優(ゆずきしゆう)は自室の姿見を見ながら学校指定のブレザーに身を包んだ自分の姿を眺める。ネクタイは曲がってないか、制服にシワがないかチェックを怠らない。

 鏡の前で口角を上げて笑顔を見せる。よし、変じゃない。あとはクラスの自己紹介の時間でヘマをしなければ完璧だ。
 志優は机上に置いていたパペット人形のアライグマを手に取って、右手に嵌めると人形に向かって話し掛けた。
 オレンジの頭部に白い耳。茶色い胴体がフカフカな毛ざわりの彼は志優の幼いころからの唯一の友達だ。

「ライちゃん、僕大丈夫かな。ちゃんと自己紹介できるかな」

 すると、ライ太ことライちゃんはこう云う『大丈夫だよ。志優ならできる‼鏡の前で沢山練習したでしょ?』って。
 志優は大きく頷き、瞼を閉じる。深く息を吐いた後、目を開いた。
 意を決したように鏡の前の自分に向かって「榮中(さかえちゅう)から来ました。柚木志優(ゆずきしゆう)です」と、この後行われるであろう、クラスメイトの前で披露する自己紹介の練習をする。

 中学を卒業し、高校の入学式を終えた。
 人間関係は最初が肝心とよく言ったもので、いよいよ高校生活が始まる今日。志優にとって今後の学校生活を左右する最も一大イベントであった。

「志優ー?準備できたの?」

 部屋の襖が叩かれ、母親の声が聞こえてくる。志優は慌ててライちゃんを右手に持ったまま、通学リュックを左手に取ると襖を開けた。
 襖を開けた先には志優の母親、梓紗(あずさ)が立っていた。
 
「志優、制服似合うわね」

 これからパートの仕事へ向かう彼女も紅を引き、ばっちり化粧をした満面の笑顔で志優に笑いかけてくる。
 母に褒められるのは嬉しくもあり、恥ずかしかった志優は顔を赤く染めた。
 それでも志優が小学校1年のときからい今まで、女手1つで自分を育ててくれた母親には感謝しかない。
 
 志優は御礼を言おうと口を開けて試みるが言葉が喉をつっかえて出てこなかった。
 
 やっぱりだめか……。

 自分の声で言葉が出せないことに落ち込んでいると「ライちゃん」と梓紗は、志優が手にしているパペット人形に向かって話し掛けてきた。

「志優のことよろしくね」

 志優の友達であるライ太は梓紗がプレゼントしてくれたもの。幼い時のトラウマから声が出せなくなってしまった志優に母親が与えてくれたおまじない。
『困ったり、辛かったり、お母さんに話せないことがあったらこの子に話すのよ。そしたら志優のこと助けてくれるから』その言葉と共に受け取ったライちゃんは志優の心強い味方になっていた。
 
 ライ太の力を借りれば声を発することは怖くない。
 いつもであれば強いストレスで自分の母親に向けてすら発することができない言葉も、ライ太がいれば。
 ライ太が相手なら苦にならない。
 
「うん、任せて。ありがとう。母さんも気を付けてね。志優も頑張ってくるって」

 志優は右手を曲げて、ライ太をお辞儀させると大きく手を振るような動作をした。
 リビングに出て朝食を食べ終えた志優は梓紗から手作りお弁当を受け取り、ライ太をリュックに忍ばせると笑顔で見送られながら家を出る。

 自宅の団地を出て数歩歩いたところで、志優は足を止めた。
 リュックの肩紐を強く握って唇を噛みしめる。

 梓紗の前では笑顔で出てきたものの、正直不安だった。中学の時は志優の声のことで、上手く同級生の輪の中に馴染めなくて殆ど保健室通いだった。高校も二の舞を踏むのではないかと怖くなる。

 梓紗に心配をされていた自覚があった志優は敢えて中学校からのクラスメイトの居ない高校を受験した。
 晴れて受かった高校でまた保健室通いなどをして梓紗に心配をかけたくない。

 その為にも自分が何事もなく自己紹介を終え、クラスに馴染み友達を作ることが一番の親孝行であると思った。

 梓紗も言ったようにライ太がいるから大丈夫。でもみんなの前で、ライ太と一緒に喋るわけないはいかない。自分の力で自己紹介をしなければならない。
 
 ふと桜花びらが、俯いて落としていた志優の肩にひらひらと落ちてくる。
 志優は顔を上げると、桜の木を眺めた。

 自分は変わるんだと決めたんだから、そんな弱気じゃダメだ。
 ライ太と練習したんだから、今までしてきたように話せばいいだけ。なんの怖いことも無い。

 志優はネガティブになりそうな気持ちを無理矢理払拭させると、一歩前へと歩みを進めた。