父と見た空の続きへ-17歳、夢と自立のあいだで-

プロローグ
SNSでは、
「奨学金は借金だから借りるべきではない。」
という意見を見かけることがある。
もちろん、借りないという選択もある。
しかし、その代わりに何を武器に生きていくのかも考えなければならない。
資産もない、家業もない、特別なコネもない。
そういう普通の若者にとって、知識や技能はもっとも確実な資産だ。
学問や技術や資格は誰にも奪われない財産であるからだ。
「奨学金を借りるのが怖いのではない。本当に怖いのは、学ぶことをあきらめてしまうことだ。」


第一章 奨学金という選択
校庭には葉桜がそよいでいる。
彩は、この四月から高校三年。
父が亡くなって一年が過ぎようとしている。
理系特進クラスの教室では、進路希望調査が配られていた。
担任の佐々木先生は言った。
「彩、お前なら第一志望のA国立大学理学部天文学科を十分狙えるぞ。」
「奨学金も授業料免除の制度もある。」
「未来をあきらめるなよ。」

A国立大学理学部天文学科――
それは彩が生前の父と語り合った夢であった。
まだ五歳だったある冬の夜。
父は彩を家の前の空き地へ連れ出した。
「寒いよ。」
彩が頬をふくらませると、父は笑った。
「五分だけだ。今日はいいものを見せてやる。」
見上げた夜空には、たくさんの星が輝いていた。
父はそっと空を指さす。
「あれがオリオン座。冬の星空の王様だ。」
「四つの明るい星と、真ん中に並ぶ三つの星が王様の標しだ。」
彩にはただの点にしか見えなかった。
「どれ?」
「ほら、あそこだ。」
父は彩の肩を抱きながら教えてくれた。
「あ、本当だ。」
見つけた瞬間、星の並びが人の形のように見えた。
彩はうれしくなった。
その日から、星を見るのが好きになった。
小学校に入ると、父は星座早見盤を買ってくれた。
夏には一緒に天の川を探した。
流星群の夜には毛布を持って庭へ出た。
流れ星が一つ見えるたびに、
「見えた!」
と彩が叫び、
父も歓声をあげた。
中学になる頃には、彩の方が星座の名前を覚えていた。
そんなある日、父が言った。
「彩は空が好きなんだな。」
「うん。」
「じゃあ将来は天文学者かな。」
彩は真顔でうなずいた。
「なる。」
父は声を上げて笑った。
「じゃあA国立大学理学部天文学科へ行かないとな。」
「行くよ。」
その約束をした相手は、もういない。
父が亡くなって一年。
今でも彩は、あの冬の夜のオリオン座を見るたびに父を思い出す。
だからこそ、A国立大学理学部天文学科は、ただの志望校ではなかった。
父と交わした約束そのものだった。

昼休み、彩は友だちの葵、桜子、めぐみと将来について語った。
数学が学年トップの葵は、
「B国立大学教育学部数学科に行って、高校の数学の教師になりたい!」
と言った。
彩、桜子、めぐみは、
「さすが葵!自分の得意科目を生かせるね」と異口同音に答えた。
葵は、
「がんばりまーす」
と照れた。
彩は、
「奨学金は申請するの?」
と聞いた。
みんな、はしをとめて、葵に注目した。
葵は、
「両親から、『自分たちももらって大学をでたのだから、葵も奨学金を申請して少しは仕送りを減らせるように努力せよ』と言われているの。」
と答えた。
「しかし、受給資格を見ると無利子の奨学金には両親の年収制限があって、うちは共働きだから対象外だったの。」
「そうしたら、両親は『学費は出世払いで無利子で貸しつけるから十五年で返せと言ってきたの。さらには浪人したら、予備校費用も加算するって。』だから私、絶対ストレートで合格できるように頑張る!」
みんなは、
「さすがは葵の両親、高校の数学の先生だけあって、数字に厳しいね。」
葵は、
「うん、でも十八才になれば私たち大人だし、親に対して対等でいられるためには、それなりに己のことには責任があると思うの。」
みんなは、小さくうなずいた。

「桜子はどうするの?」
と尋ねたのは葵だった。
「うん。短大の保育科に行って保育士になりたいの。奨学金は申請するつもり。二年なのでそれほど大きい額じゃないけど、家から通える短大にいくつもりなので、授業料の足しにはなると思うの。返済も総額が少ないので、それほど負担にならないと思うし。」
「桜子は子供好きだからやりがいがある仕事だね。それと奨学金をとって、少しでも親の負担を減らそうとしているところが偉い!」と葵。
「そうそう、桜子は偉いよ!」
と彩とめぐみは賛同した。
「彩は?お父さんと約束したA国立大学理学部天文学科に行って、天文学者になるの?」
「うん。夢だけれどもね。葵や桜子の話はとても参考になったよ。ありがとう。奨学金や授業料免除のことをちゃんと調べて、しっかり考えるよ。自分の将来なんだからね。」
「頑張れ彩、夢をあきらめるな!」
とみんなは励ました。
「めぐみは?」
「私は、母が、十年前に父を亡くして苦労して私をここまで育ててくれたので、高校を卒業したら銀行に勤めて、少しでもお母さんに親孝行するつもり。」
めぐみの言葉を聞いて、彩はぎくりとした。
「自分だって父を一年前に亡くしたのに、いつまでも父との夢をおいかけてていいのかな……」
との迷いが頭をよぎった。
めぐみは、「彩、桜子、今SNSで『奨学金は借金だから借りるな』って盛んにいわれているけれども、怖くないの?」
彩と桜子は、どきっとした。
確かに、SNSでは『奨学金は借金だから借りるな』とながれている。
桜子が、
「でも奨学金を借りることよりも、自分の夢に必要な力を身につけないまま大人になる方が私は怖いと思う。」
と答えた。
彩ははっとした。
めぐみは小さくうなずいた。
「私は就職するつもりだけど、銀行の資格試験はたくさんあるって聞いてる。働きながら勉強していきたいな。」
彩は思った。
進学も就職も違う道だ。
でもみんな、自分の未来のために頑張ろうとしていることだけは同じだった。

四人が真剣に話しているのを見て、誠司と翼がちょっかいをかけてきた。
「オレたちは卒業したら、警察学校に入って警察官になるんだ!」
誠司は胸を張った。
「警察学校も大変らしいぞ。法律も覚えなきゃいけないし、体力訓練もあるしな。」
翼は笑った。
「だから今から勉強も筋トレも頑張ってるんだ。」
めぐみは、感心したように言った。
「誠司、翼。警察学校受験に向けて頭と体を鍛えてね!」
葵は、
「かっこいいな。誠司、翼の警察官姿、見てみたいなー!」
桜子は、
「正義感の強い二人にはぴったりだね!」
彩は、
「二人とも、夢に向かってがんばってね!」
と、みんなと一緒に、誠司と翼にエールをおくった。

***

放課後、彩は進路指導室によった。
進路指導の河合先生にA国立大学理学部天文学科のパンフレットと奨学金や授業料免除の書類をもらった。
彩の家庭事情を知っていた河合先生は、
「これも参考になるかもしれないので読んでみて。」
と冊子数冊を大きな封筒に入れて渡した。


第二章 母との進路相談
家に帰ると、母方の景子伯母さんが来ていた。
景子叔母さんは、
「彩ちゃん、お帰り。」
というなり、
「彩ちゃん、お父さんを亡くしてお母さんもパートでたいへんね。」
「彩ちゃんは頭いいのだから、地方公務員試験を受けて市役所で働くのはどう?」
とだけいって、帰って行った。
叔母さんは自分や母を心配して、声をかけてくれたのはわかっている。
その一方で彩は、
「めぐみのように大学を諦めて、就職しなければだめなのか。」
と複雑な思いにとらわれた。

母は夕食の片付けをしながら言った。
「彩、A国立大学理学部天文学科に行かせてあげたいよ。本当は行かせてあげたい。」
彩は黙っていた。
「お父さんもそう思っていたし。」
流しの前で母の手が止まった。
「でも、お母さんの収入じゃ無理だと思う。」
母はうつむいた。
「ごめんね。」
母が謝ると、彩は胸が苦しくなった。
母は悪くない。
父が生きていた頃だって余裕のある暮らしではなかった。
それでも父と母は、彩が進学したいと言えば応援してくれた。
父はよく言っていた。
「勉強したいと思ったら遠慮するな。」
「知識は誰にも奪われない財産だからな。」
その言葉を思い出すたびに、彩は進学を諦めたくなかった。

母は続けた。
「授業料免除や奨学金もあるし、方法はあると思うの。でも、借金を背負わせるのは申し訳なくて……」
「私は、A国立大学理学部天文学科に行きたいの。」
母は黙ってうなずいた。
「授業料免除と奨学金でなんとかなると思う。」
そう言いながらも、彩は、自分の声に自信がないことがわかった。

***

夕食後、彩は自分の机に向かった。
奨学金のパンフレットを開く。
貸与額、月五万円。
四年間で二百四十万円。
返済期間十五年。
紙の上の数字を指でなぞる。
「大学に入る前から借金か……」
SNSのフレーズが頭の中を流れ、
ため息が漏れた。
第一志望のA国立大学のパンフレットには、授業料免除の手続きがかかれていた。
母子家庭の彩なら申請すれば免除されることがわかった。
これで年間の授業料約五十五万を免除されるとおもうと、少し心が軽くなった。
だが、A国立大学は自宅から通えない。
それどころか、自宅から通える国立大学自体がない。
ノートを開き、計算を始めた。
下宿代 六万円。
食費 三万円。
光熱費と通信費 一万円。
教科書代や雑費を入れれば、月に十二万円は必要だ。
奨学金を引いても七万円足りない。
七万円。
時給千円なら七十時間。
一か月に七十時間働くことになる。
頭の中で数字だけが増えていく。
講義。
実験。
レポート。
試験。
それにバイト七十時間。
ノートの端に書かれた数字を見つめながら、ふと思った。
「何のために大学へ行くんだろう。」
「学ぶためではないのか。」
「研究するためではないのか。」
「生活費を稼ぐために毎晩働くなら、高校を卒業して就職するのと何が違うのだろう。」
窓の外は真っ暗だった。
「やっぱり、進学は無理かも。」
「叔母さんのいう通り、地方公務員の試験を受けるしかないのかなー」
と思った。

机の片隅に置いた進路資料の中から、河合先生が渡してくれた封筒を引き寄せた。
今まで中身を見る気にもなれなかった。
どうせ奨学金や授業料免除の詳細な説明資料だろうと思っていたからだ。
封筒を開く。
最初に目に入った文字に、思わず手が止まった。
「給与支給」
彩は読み返した。
見間違いではない。
授業料無料。
学生寮完備。
給与支給。
「えっ?」
小さな声が漏れた。
防衛医科大学校。
海上保安大学校。
気象大学校。
どれも聞いたことはある。
だが、大学のような学校に通いながら給料をもらえるとは知らなかった。
ページをめくる。
卒業後は、それぞれの機関で働くことが前提と書かれている。
自由な就職はない。
それでも彩には眩しく見えた。
借金をしなくていい。
母に負担をかけなくていい。
そして学ぶことをあきらめなくていい。

防衛医科大学校――
名前は知っている。
国立の医学部がどこも偏差値が高いのは知っている。
私立の医学部は学費が何千万円もかかると聞く。
その医学部で、学費が無料で給料も出るなら、
きっと全国からとんでもなく頭のいい人が集まるのだろう。
中高一貫の有名進学校出身でもない私には、到底無理だなー。

海上保安大学校――
海の警察というイメージかな。
でも私、乗り物酔いが酷いので、船上勤務は無理だなー。

防衛医科大学校は難しそう。
海上保安大学校は船に乗る。
どちらも
授業料無料。
学生寮完備。
給与支給。
との条件は魅力的だった。
けれど、どこか自分の進みたい道とは違う気がした。

彩の目を引いたのは一冊の青いパンフレットだった。
気象大学校――
空や雲の写真が表紙に並んでいる。
彩は気象大学校のパンフレットを開いた。
最初は少し戸惑った。
星を研究したいと思っていた自分が、なぜ気象なのだろう。
だがページを読み進めるうちに考えが変わった。
宇宙を見上げることも好きだった。
父と見ていたのは、星だけではない。
夕焼けの空だった。
流れていく雲だった。
明日の天気だった。
中学の理科で天気図を習った。
台風進路予想を見るのが好きだった。
天気予報アプリを毎日見ていた。
豪雨災害のニュースを見て気象予報の重要性を知った。
気づけば毎朝、登校前に空を見上げて天気予報を確かめるのが習慣になっていた。

父はよく言っていた。
「西の空が赤い日の翌日は、晴れることが多いんだ。」
彩は何度も父と空を見上げた。
翌朝、本当に晴れると二人で喜んだ。
星を好きになったのは父のおかげだった。
空を好きになったのも父のおかげだった。
「空が好き。」
という気持ちは、天文学も気象学も同じなのかもしれない。
彩はそう思った。

卒業後は気象庁勤務。
天気予報や防災に関わる仕事。
国立大学の理学部と同様、理学学士の学位も取得できる。
学びながら、学士もとれ、自分の力で生活できる。
最後のページを開いたときだった。
そこに書かれた一行が、不思議なくらい胸に残った。
「学びながら、自立する。」
気づくと、彩はもう何度もその言葉を読み返していた。

***

彩は台所で家事をしている母のところにいった。
彩は自分の部屋からノートを持ってきていた。
「お母さん。」
計算した数字を母に見せる。
「授業料は免除になると思う。でも生活費がかかるの。」
「下宿代。」
「食費。」
「光熱費。」
「教科書代。」
「合計で十二万円。」
「奨学金をもらっても七万円足りない。」
母はしばらくノートを見つめていた。
「大学って、そんなにお金がかかるのね。」
彩は小さくうなずく。
「バイトで何とかしようと思った。でも七十時間働くことになるみたい。」
母はノートを閉じた。
「勉強する時間がなくなるね。」
その言葉に、彩は返事ができなかった。

彩は気象大学校のパンフレットを差し出した。
「ここならね。」
母が表紙を見る。
青空と雲の写真。
「授業料がいらないの。」
ページを開く。
「寮もあるし、お給料も出るんだって。」
母は驚いたように彩を見た。
「そんな学校があるの?」
母は信じられないという顔をした。
「うん。私も今日初めて知った。」
「授業料もいらないの?」
「うん。」
「寮も?」
「あるみたい。」
「お給料まで?」
彩は笑った。
「私も何回も確認した。」
母も少し笑った。
久しぶりに二人で笑った気がした。

母はパンフレットを胸に抱いた。
「学びながら、自立する、か。」
その声は少し震えていた。
「お父さんがいたら喜んだだろうね。」
彩はうなずいた。
「うん。」
窓の外には夜空が広がっていた。

奨学金を借りて大学へ行くことは間違いではない。
でも、借金以外の道があるなら、知ったうえで選びたい。
彩にとっての答えは、気象大学校だった。
でも天文学者の夢が消えた訳ではなかった。


第三章 アメリカからの電話
土曜日の朝。
母が言った。
「彩、お父さんのお姉さんと電話で話せる?」
彩は驚いた。
父方の薫叔母は筑波大学の生物学類の学部と大学院を修了した後、企業の研究職として数年勤務した後、非研究部門への異動を機に退職し、大学の任期付き研究職へ身を転じた。
その後も複数の大学で任期付きのポストを渡り歩き、パーマネントの准教授になれたのは四十代半ばだった。
八年前にアメリカに渡り、現在はUCLAの発生学教室で教授をやっている。
父が生きていた頃に何度か会ったことはある。
薫叔母が言う。
「彩、天文学者になりたいんだって?」
「はい。」
「それはいい夢ね。」
しかし次の言葉は厳しかった。
「でもね、研究者になるなら大学四年間だけじゃ足りないのよ。」
「え?」
「大学院まで行くのが普通。」
「修士、博士。」
彩は初めて知る。
大学合格がゴールではない。
そこがスタートなのだ。
さらに叔母は、
自分が昔住んでいた筑波大学の宿舎の話をする。
「私も学生時代はお金なんてなかったわ。」
「宿舎が一ヶ月、九千五百円で住めたからなんとか、学部、修士、博士と進学できたの。」
「宿舎は二十平方メートルのビニールの床に、ベッドと机と本棚とロッカー。」
「今考えると殺風景な部屋だったけれども、実家では妹と同じ部屋だったので、一人部屋だっただけで嬉しかった」
「宿舎には全国から集まった様々な専攻の学生がいた」
「隣は北海道」
「向かいは九州」
「入学したての頃は、夜中まで共用の台所で議論していたね。」

「エアコンもなかったので、夏は暑かったなー。でも実家にもエアコンがなかったので、当たり前だった。図書館でレポート書いたり、図書館が閉まった後は、窓を開けぱなしだったなー。」
「冬も図書館か、自分の部屋のこたつで勉強したの。」
「トイレも洗面台も台所も洗濯機も共同だったので気をつかったなー。」
「お風呂は、共通棟までいかなければならなかった。おまけに二十二時までしかやっていなかったので、実験が遅い日はお風呂に入れず、洗面台でぬらしたタオルで体をふいたの。」
「でも図書館を始め研究環境は素晴らしかった。」
「学生実験では培養した大腸菌から夢中でDNAを抽出し、制限酵素で切って、電気泳動で解析した最初の学生実験は今でも忘れないわ。」
「十九時ごろに班ごとで抜け出して、食堂で夕食たべたな。」
「そして、みんなで、二十三時頃宿舎まで自転車で帰ってたの。楽しかったよ。」
しかし最後に、
叔母はこう言った。
「彩。」
「本当に考えなくちゃいけないのは大学の四年間じゃない。」
「その先よ。」
「学部四年だけなら奨学金は二百四十万円くらいかもしれない。」
「でも大学院まで進めば話は別よ。」
「私の頃でも九年もらえば、約六百万円。今だと支給額が増えたので一千万円近くになるかなー。」
彩は、一千万円と聞いて、頭がくらくらした。
「研究者になるというのは、色々な覚悟をすることが必要なの。」
「それに、研究者になるには、お金だけじゃなく長い時間も必要なの。」

「彩、私は生物学者になったことを後悔していないよ。」
「大学だけなら二十二歳で社会に出て、就職して、稼げる。」
「でも研究者になるには、二十代後半まで学生。それでも定職がなくてポストドクや任期付き研究職で繋ぐ人がほとんど。」
「私もね、修士課程の頃は、博士を取れば職があると思っていた。」
「でも現実は違った。」
「最初の就職は企業だった。」
「でも好きなことが出来なくなって数年で辞めたの。」
「そして、恩師に頼んで大学の研究職を紹介してもらったの。」
「五年間の任期付きの研究職だったなー。」
「テーマを考えて。」
「実験して。」
「論文を書いて。」
「また次の大学へ。」
「私が任期付き研究員だった頃の仲間にも、今では教授になった人もいる。逆に今も任期付きのポストを渡り歩いている人もいる。でもね、不思議とみんな研究を嫌いになってはいないの。そんな仲間が言っていたわ。『好きなことをやるための代償だよ』って。」
「その人に比べれば、私は幸運だったのかもしれない。四十代半ばで准教授のポストに就くことがでたもの。でもそれは実力だけではないの。研究者には運もあるの。」
「そしてね、もう一つ。研究者を目指すなら、奨学金とも長い付き合いになるの。」
「二十年間、年額三十万の奨学金を返還するのは、特に若くて給与が少なかった頃は少し苦労したわ。でも後悔したことは一度もないの。あの奨学金があったから、私は学部、修士、博士まで進めたんだもの。今こうしてUCLAで研究できているのも、振り返ればあの奨学金のおかげよ。だから私は感謝しているわ。」
「彩、研究って、成果が全ての世界なの。成果が出て、論文を書いて、有名なジャーナルにアクセプトされて始めて認めてもらえるの。」
「研究者の一生は、仮説と企画と実践と論文の連続よ。」
「もちろん、研究費もとってこなくてはならないし、大学の雑務もある。」
「その覚悟も含めて考えないとね。」

叔母との電話が終わったあと、彩はネットで「天文学者」を調べた。
すると、
・博士号取得
・ポスドク
・海外留学
・任期付き研究職
などのセンテンスが踊る。
そこで、彩は
「私は、宇宙が好き!」
「でも研究者という仕事については何も知らなかった。」
と気付いた。

***

彩が押し入れを開ける。
父の遺品箱から、
・星座早見盤
・双眼鏡
・天文雑誌
が出てくる。
そして雑誌の付箋に、
「彩が高校生になったら一緒に天文台へ行く」
という父の字が見つかる。
父の懐かしい肉筆を見て涙がこぼれた。

***

その夜。
彩は天井を見つめていた。
大学。
大学院。
博士課程。
ポスドク。
任期付き研究職。
研究者への夢はある。
それは今も変わらない。
でも、自分自身に一千万円近い負担を背負う覚悟があるだろうか。
二十代後半まで学生として過ごす覚悟があるだろうか。
そして、なによりも、その先に安定した職が得られる保証もない世界で生きていく覚悟があるだろうか。
父と見上げた星空を思い出しながら、彩は初めて「研究者になる」という夢の重さを考えていた。
天文学者になりたい。
その気持ちは今も変わらない。
だが夢とは、憧れるだけでは届かない。
人生そのものを賭ける覚悟が必要なのだと、彩は初めて知った。


第四章 気象大学校への道
月曜日の放課後、彩は進路指導室へ向かった。
「河合先生、先日は資料をありがとうございました。」
河合先生は顔を上げた。
「どうだった?」
彩は迷わず答えた。
「天文学者になりたい気持ちは今もあります。」
「でもアメリカで研究を続けている叔母の話を聞いて、研究者になるということの現実を初めて知りました。」
「自分がその道を進むなら、修士や博士まで含めて考えなければならないと分かりました。」
「そのことを全て理解して、私は気象大学校を受験したいです。」
河合先生は少し驚いたように目を細めた。
「本当にいいのか?」
彩は、はっきりした声で答えた。
「逃げたわけではありません。」
「天文学は今も好きです。」
「でも研究者になるには、その先まで考える必要があると分かりました。」
「私は現実を直視した上で、気象大学校を受験したいと判断しました。」
彩は少し考えてから続けた。
「先生、私は最初、お金のことばかり考えていました。」
「でも気象大学校のことを調べるうちに、
気象の仕事は天気予報を出すだけではないと知りました。」
「大雨や台風が来る前に警報を発表する。」
「避難の判断を支える。」
「多くの人の命を守る。」
「そんな仕事に携われるなら誇りを持てると思ったんです。」
河合先生は黙って聞いていた。
「だから私は、単に学費の問題だけで選んだわけではありません。」
「空が好きだからです。」
「そして、その空の知識で人の役に立ちたいんです。」

河合先生は机の引き出しから一冊のファイルを取り出した。
「彩、気象大学校は共通テストじゃないぞ。」
「えっ?」
彩は思わず声を上げた。
「独自試験だ。数学、物理、英語、作文。それに面接もある。」
河合先生は一冊の問題集を彩の前に置いた。
「過去問だ。」
彩はページをめくる。
数学。
物理。
英語。
作文。
しばらく問題を追いながら考えた。
「数学と物理と英語は何とかなりそうです。」
河合先生がうなずく。
「だろうな。」
彩の理系科目と英語の成績は学年でも上位だった。
彩は作文のページを見つめた。
「問題は作文かな……」
「作文ってほとんど書いたことないし……」
その一言に河合先生は笑った。
「それなら来週から始まる山田先生の補習に出ろ。」
「作文特訓のですか?」
「あれを本気でやれば伸びるぞ。」
彩は再び問題冊子を見下ろした。
昨日まで自分の前には、奨学金と借金の数字しか見えていなかった。
けれど今は違う。
必要なのはお金ではない。
点数だ。
「そうですね。」
彩は顔を上げた。
「努力次第で届くかもしれません。」
窓の外では夕日が校舎を赤く染めていた。
気象大学校。
学びながら、自立する。
その言葉が、昨日よりもずっと近く感じられた。

彩が気象大学校への思いを巡らせていると、河合先生が言った。
「気象大学校は定員が少ない。万一に備えて国立大学も受けておけ。」
彩は迷った。
だが共通テスト対策まで手を広げれば、気象大学校対策がおろそかになる気がした。
「私は気象大学校に集中します。」
「なぜだ?」
「国立大学に進んでも、結局は生活費と奨学金の問題が残ります。」
「気象大学校は私が初めて見つけた、自分の力で学びながら自立できる道なんです。」
「だから中途半端な気持ちで受験したくありません。」
「この学校なら、学ぶことも、自立することも、どちらも諦めないて済むんです。」
「だから私は、この道を選びます。」
河合先生はしばらく考え、
「分かった。ただし覚悟して受けろ。」
と言った。
彩は気の引き締まる思いで、
「はい。」
と答えた。

第五章 勉強の日々
葵が言う。
「彩、A国立大学やめたの?」

「夢を諦めたわけじゃないよ。」

「ならどうして?」

「夢と現実は同じじゃないから。」
少し考えてから彩は続けた。
「夢は今も変わらないよ。」
「でも夢をかなえるために払う代償の大きさを知ったんだ。」

彩は放課後の時間を受験勉強に注ぎ込んだ。
月曜日は、山田先生の作文補習。
火曜日は、佐々木先生の英語補習。
水曜日は、山口先生の数学補習。
木曜日、は寺田先生の物理補習。
どれも受験を意識した特別授業だった。
補習のない日はもちろん、補習のある日も、彩は夕食を済ませると机に向かった。
土日は一日中机に向かった。
作文の過去問。
英語の問題集。
数学の問題集。
物理の問題集。
毎日少しずつでも前へ進む。
そんな生活が続いた。
正直に言えば、共通テスト対策より気楽だった。
苦手な社会も古文もない。
必要なのは数学、物理、英語と作文だ。
作文以外は自分の得意分野で勝負できる。
それが彩にはうれしかった。
「作文に集中しよう。」
ノートの端にそう書く。
「補習のない金曜日は家に帰ったら作文だ!」
作文は得意ではなかった。
だからこそ一番時間をかけた。
夏休みに入っても補習は続いた。
毎日のように学校へ通い、補習を受ける。
友人たちが遊びに出かける写真をSNSで見ることもあった。
それでも不思議とつらくはなかった。
むしろ、
「ありがたいな。」
と思った。
先生たちは彩の事情を知っていた。
それでも特別扱いすることなく、受験生として真剣に向き合ってくれる。
そのことがうれしかった。

彩は六月から二か月ごとに模擬試験を受けた。
最初の結果は総合ではB判定。
決して悪くはない。
しかし作文の偏差値が足をひっぱっていることが、気がかりだった。
数学や物理や英語なら答えがある。
けれど作文には答えがない。
彩はそれが苦手だった。
高校では作文を書く機会などほとんどなかった。
理系特進クラスでは数学や物理や英語の授業時間が多く、文章を書く訓練はほとんど無かった。
山田先生が、
「添削してやるから、作文は毎日やれ。」
彩は、
「山田先生、毎日添削してくださるんですか?」
「作文補習出席者は、彩を含めても三人だから毎日添削してやるよ!」
山田先生のありがたい申し出は嬉しかった。
「気象大学校の作文の時間は?」
「五十分です。」
「毎日五十分で書いててみろ。」
との山田先生からアドバイスがとんだ。

夏が終わり、秋が過ぎる。
過去問のテーマで作文を毎日書いて、山田先生に添削してもらった。
英語のイデオムの暗記と長文読解を続けた。
物理の公式を何度も書いた。
数学の問題集を何冊も解いた。
そして十月。
模擬試験の結果を見た彩は目を疑った。
気象大学校。
A判定。
思わず、結果の用紙を握りしめる。
翌日、その結果を見た佐々木先生が笑った。
「頑張ったな。」
河合先生もうなずいた。
「このまま気を抜くなよ。」
彩は大きくうなずいた。
気象大学校が、少しだけ近づいた気がした。


第六章 受験の日
十月二十四日と二十五日。
気象大学校、第一次試験。
まだ暗いうちに家を出る。
母がお弁当を渡す。
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
初日は英語と数学と物理の多肢式試験だった。
試験会場へ向かう電車の中で、英単語帳を開く。
しかし何も頭に入らない。

無我夢中で試験問題を解いた。
そして翌日の記述式の学科試験と作文が終わったあと、
「できた。」
という手応えと、
「見直す時間がほとんどなかったので、作文に誤字脱字が残っていたかもしれない。」
という不安を残して帰宅した。

十二月四日の一次試験の合格発表。
インターネットの専用サイトをどきどきしながら開くと、
彩は自分の受験番号を見つけた。
「やったー!」
と小さくガッツポーズをした。

十二月十一日
二次試験の面接。
会場には面接官が三人もいて、彩は緊張した。
彩は一度深呼吸した。
緊張で手のひらに汗がにじむ。
それでも逃げるわけにはいかなかった。

受験理由を主にきかれた。
「なぜ気象大学校ですか」
「給料が出るからですか」
という厳しい質問が飛んだ。

彩は少し迷った。
「はい。待遇面は大きな理由の一つです。」
正面の面接官が顔を上げた。
「正直ですね。」
「隠しても仕方がありません。」
彩は続けた。
「母子家庭の私にとって、授業料が無料で寮があり、給与もいただけることは大変ありがたいです。」
「ですが、それだけではありません。」

「昔から父と夕方の空を見て、明日の天気を予想するのが好きでした。」
「中学校で前線や天気図を学んでから、もっと興味を持つようになりました。」
「ラジオの気象通報を聞きながら、自分で天気図を書いて翌日の天気を予想することも続けてきました。」
「高校では物理を学び、気圧や温度、熱力学や放射などが気象現象と深く関係していることを知りました。」
「私は気象学を学びたいのです。」
「そして将来は、人々の安全や防災に役立つ仕事に携わりたいと思っています。」
「そのために、この学校で学ぶ機会をいただきたいのです。」
と彩は面接官一人一人の目をみながら訴えた。
右側の面接官が
「お父さんの影響ですか。」
と質問した。
「はい。」
「父が亡くなったあとも、空を見ると父を思い出します。」
もう一人の面接官が
「作文では防災について書きましたね。」
彩は
「はい。中学生の頃、豪雨災害の報道を見ました。避難が間に合わなかったという話を聞き、気象情報が人の命を左右することを知りました。それ以来、天気予報は生活情報ではなく、防災情報として見るようになりました。」
「私は、合格させていただいたら、いずれは気象庁職員として働くことになります。正確な気象情報を届けることで、人々の安全に貢献したいと思っています。」
「責任の重さはあると思いますが、その仕事に携わりたいです。」
と答えた。
面接官たちはうなずいた。
その様子を見て、彩は少しだけ肩の力が抜けた。
二次試験を終えると、空は夕焼けだった。
彩は校門の前で一度だけ空を見上げた。
西の空には細長い雲が流れている。
「明日は晴れかな。」
そうつぶやいてから、彩は家路についた。


第七章 最終合格発表の日
一月十四日。
最終合格発表の日。
受験票を鞄から取り出し、
インターネットの専用サイトをどきどきしながら開くと、
彩は自分の受験番号を見つけた。
もう一度見る。
さらにもう一度見る。
確かに、同じ番号だった。
胸の奥から何かが込み上げてくる。
「受かった……」
小さくつぶやいたあと、思わず窓から空を見上げた。
冬の空はどこまでも青かった。

彩は携帯電話を取り出した。
パートの母に電話をかける。
「お母さん。」
「どうだったの。」
受話器の向こうの声も少し震えていた。
彩は笑った。
「合格した。」
母はしばらく何も言わなかった。
そして、
「本当によかった……」
と小さな声で言った。
彩は続ける。
「四月から、学びながら自立するよ。」
電話の向こうで母が泣いているのがわかった。
父が亡くなったあの日から、
母はずっと一人で頑張ってきた。
彩は初めて気づいた。
自分がうれしいのは、
合格したからだけではない。
これ以上、母に負担をかけなくていい。
夢をあきらめなくていい。
学びながら、自分の力で生きていける。

***

彩は学校へ向かった。
進路指導室の扉を開く。
「河合先生。」
先生は顔を上げた。
「どうだった?」
彩は深く頭を下げた。
「合格しました。」
河合先生は嬉しそうに笑った。
「そうか。よく頑張ったな。」
彩は思わず涙ぐんだ。
「先生が気象大学校を教えてくださらなかったら、
私はこの道を知りませんでした。」
河合先生は首を振った。
「道を選んだのはお前だ。」
「そして努力したのもな。」

職員室へ行くと、
山田先生がいた。
「先生、合格しました。」
山田先生は微笑んだ。
「そうか。」
そして、
「これで毎日作文を書かなくて済むな。」
と言った。
彩も笑った。
「先生、本当にありがとうございました。」
山田先生は照れくさそうに手を振った。
「礼を言うのは、気象大学校を卒業して一人前になってからにしろ。」
彩は笑った。

そのあと、補習でお世話になった他の先生たちにも合格を報告した。
どの先生も自分のことのように喜んでくれた。

彩は職員室を出る前に、もう一度だけ深く頭を下げた。


エピローグ
その夜、薫叔母さんから電話がかかってきた。
「彩、合格おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「彩の頑張り、お母さんから聞いたわ。」
彩は少し迷ってから言った。
「薫叔母さん、私、研究者になる道は選びませんでした。」
電話の向こうで叔母は笑った。
「誰がそんなこと言ったの?」
「え?」
「彩、学び続ける人はどこへ行っても研究者よ。」
彩は黙った。
薫叔母は続けた。
「気象大学校へ行くんでしょう?」
「はい。」
「そこで気象学を学ぶ。」
「空を観察する。」
「現象の理由を考える。」
「データを集める。」
「予測する。」
「それも立派な科学よ。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて叔母が静かに言った。
「ねえ、彩。」
「お父さんが生きていたら、今日なんて言ったと思う?」
彩は思わず笑った。
「たぶん、『よくやったな。』かな。」
「そうね。」
叔母も笑った。
「きっと自慢していたと思うわ。」
彩の胸の奥が熱くなった。
幼い頃。
父と見上げたオリオン座。
流星群を待ちながら飲んだ温かいココア。
星座早見盤を手に夜空を見上げた日々。
その一つ一つが思い出された。
「彩。」
叔母は最後に言った。
「星を見ることをやめないでね。」
「たとえ天文学者にならなくても。」
「空を好きだった気持ちは、あなたの人生から消えないから。」
「はい。」
彩は小さく答えた。
電話が切れたあと、彩は部屋の窓を開けた。
冬の夜空にはオリオン座が輝いていた。
父が初めて教えてくれた星座だった。
彩はそっとつぶやく。
「お父さん、約束とは少し違う道になったけど。」
「私、頑張るよ。」
夜空の星は何も答えなかった。
それでも、不思議と父が笑っている気がした。
彩はもう一度オリオン座を見上げた。
そして静かに窓を閉めた。
春から始まる新しい人生が、すぐそこまで来ていた。
机の上には、父が買ってくれた星座早見盤が置かれていた。
幼い頃には使い方も分からなかったその道具を、今は迷わず扱うことができる。
天文学者になるという約束は果たせなかったかもしれない。
けれど、父が彩に伝えたかったのは職業の名前ではなかった。
学ぶことをあきらめないこと。
好きなことを追い続けること。
そして、自分の力で未来を切り開くこと。
彩は星座早見盤をそっと閉じた。
父との約束は、形を変えて今も続いているのだと思えた。