西公園に行くべからず

 二一五〇年三月上旬
 仙台市青葉区

 石鹸の匂いがする。
 一瞬だけそう思ったのだけど、やはり違う。気のせいか、と木村博士は鼻を鳴らす。
 むしろ吐きそうなほど臭い。自分の体臭が強烈だ。徹夜続きで、シャワーも浴びていないからだ。
 ここは、「ピコ(・・)テラス」――つい先日、稼働したばかりの超高速電子加速施設である。東北大学青葉山キャンパスにあるこの施設は、前世紀に存在した放射光施設「ナノテラス」の跡地に建設された。「ピコ」は一兆分の一を示す単位でもあり、もちろん前世紀の施設に因んだ名称である。所長の木村が満を辞して命名したのだが、発表時の会見で、記者たちは一様に国宝・慶長遣欧使節関係資料にある支倉常長のような顔になった後で、失笑した。
 ピコテラスは、観測者を巨大な速度で動く座標に擬似的に移動させる装置でもある。観測者のニュートロンに干渉して脳波を電子に変換し、超加速を行う。するとローレンツ収縮の影響を受け、脳波――すなわち変換後の電子は、時間の進み方が通常と異なるようになる。結果、電子はかつて存在した時空――過去に放つことができることが示された。
 過去に電子を放つ。
 それはなにを意味するのか。
 自身で設計し、途方もない税金を投入して完成に至った施設を前にして、木村は震えた。恐怖にうち震えたのだ。
 過去が未来から予言を受けるのなら、現実世界は不確実で不安定なものになってしまう。世界崩壊の恐れすら考えられる。この施設は、生まれてはならない禁忌のものだった。すぐに破壊せねばと木村は考えたが、どの時代でも税金を投入した施設には簡単に手出しできない。
 木村は次善の策を検討する。
 ならばこの施設を作った張本人――木村自身が生まれてこなければよいのではないか。
 ピコテラスを使って、木村の先祖にメッセージを送る。自分が生まれてこない時間軸を辿るように現実の世界を誘導するのだ。幸い木村の先祖たちには、一つの奇妙な逸話があった。先祖たちは皆、配偶者とこの町の「西公園」で出会ったと伝えられているのだ。木村家にとって、西公園は子孫を残すための聖地として伝承されている。まるで呪い、あるいは宿命のような伝承でもある。
 ピコテラスを操る木村にとって、この伝承は好都合だった。電子もしくは電磁波の受信機がある時代――ちょうど二百五十年前からあとの先祖たちなら、なんらかの形(・・・・・・)でメッセージを受信できるだろう。そのどこかの代の木村家の誰かが、呪いのような伝承に争い、自身自身の強い意志で本当の生涯の伴侶を見つければ良い。そうすれば、木村博士が生まれてくる世界線は消滅するだろう。ピコテラスも存在しないことになる。
 善は急げだ。
 木村はすぐに自身のニューロンを装置に接続して、ピコテラスのエンジンを稼働する。脳を活性化して、放つべき重要なメッセージ――「西公園に行くべからず」を強く念じる。
 そうして、ピコテラスが木村の脳波を電子に変換し、超加速を行った瞬間――。
 彼の意識がプツリと途切れた。

 (了)