二〇二六年五月七日
仙台市若林区
木村若菜が腰を屈めてスニーカーを履いていると、「あら」と背後から声が聞こえた。
見ると、母がリビングから顔を出してきた。
「制服のまま学校に行くの?」
かなりおかしな質問だが、今日に限ってはそうではない。
「午前中は普通に授業があるし。二校戦行進――てか、仮装行列は午後からだし。学校で衣装に着替えるから」
「そうなの」母はやや訝そうな顔になる。「若菜ちゃん、衣装とか持ってないじゃない」
若菜は通学用の黒のバックパックを肩に引っ掛けたままだ。教科書は教室の机の中に突っ込んだままだから、見た目通りバックパックは薄く軽い。
「衣装は友だちが用意してくれんの」
じゃあ、行くね、と若菜はスッと背筋を伸ばして、玄関のドアを開ける。
「ちょっと、若菜ちゃん」
再び母が声をかけてきた。
「なに」
「……ううん、やっぱり大したことじゃないから」と母はどこか奥歯にものが挟まったような言い方をする。「なんでもないわ」
なるほど、なんでもないのか。
そんな風に額面通り受け取るのは、母と喧嘩した時くらいだ。そう言えば、最近は母と全く喧嘩をしていない。
「いやいやいやいやいや、絶対なんかあるでしょ。はっきり言ってよ。気になる」
「本当に大したことじゃないんだけど」と母はくどいくらいに前置きする。「今日の行進って、最後はあそこに行くでしょ」
「あそこって、西公園のこと?」
二校戦行進は、一高、二高ともに応援団や参加者たち――仮装した生徒たちも含めて、高校生たちはそれぞれの学校のグラウンドから市内のアーケード街を練り歩く。そして、彼らの行き着く先は、広瀬川河岸に広がる西公園だった。そこは明治八年に開園した市内でも最古の都市公園でもある。その頃はまだ西公園ではなく、「桜ヶ岡公園」と呼ばれていた。
「そう。その西公園にね、若菜ちゃんは、今日は行かない方がいいんじゃないかと思ってね……」
「なんで?」
「なんでって、言われても……。なんとなく?」
なんだ、それは。意味がわからない。そう思ったことが顔に出てしまったようだ。
母は申し訳なさそうな表情になって、モゴモゴと言葉を続けた。
「さっきね、テレビで見たのよ」
だから、なにを、と若菜は思う。
目的語を省いたフレーズを先に口にするのは、最近の母の話術でもある。これは年齢のせいか。あるいは個性だろうか。
本人には面と向かって訊けないのだけど。
「若菜ちゃん、蟹座だったでしょ。テレビで言ってたけど、今日の蟹座の運勢は『まあまあ』なんだけど、アンラッキーアイテムは『西公園』だって。だから、危ないかもって思ってね」
これはツッコミどころ満載だ。流石にこの内容を「個性」で片づけるのは難しい。
「いやいやいやいやいや」と若菜は否定を続けてから、息を一気に吐き出した。「そもそも運勢が『まあまあ』ってなに? それにラッキーアイテムじゃなくて、『アンラッキーアイテム』ってなんの意味があるの? しかも『西公園』って普通に地名だし、アイテムじゃないし!」
「そうよね……。お母さんもなんかへんな感じがしたのよ」と母は困惑したように言ったあとで、「でも本当にテレビで見たの」と今日一番のドヤ顔を決めた。
若菜が教室の自席でぼんやりしていると、「行くなと言っても、結局行っちゃうのよね、若菜ちゃんは」と去り際に母が言っていたことを思い出した。「若菜ちゃんもあたしたちと一緒だから、やっぱり遺伝かしらね……」とも母はつけ加えた。
確かに、橋浦湊に「行進に参加しない方がいい」と言われた時にも、急に頭が熱くなってヘンなスイッチが入ってしまった。母の言う通り、木村家の遺伝子が体の中でなにか悪さをしているのかもしれない。
母の話によると、彼女も似たような経験をしたらしい。
母がまだ十代の頃、両親――つまり若菜の祖父母から、「西公園には絶対に行くな」と言われたことがあったらしい。どうして祖父母がそんなことを言ったのか。その時の母はなにも知らなかった。とは言え、行くなと言われると、どうしても行きたくなってしまった。そして、ある時、母は明け方にこっそり家を抜け出して、西公園に行ってみたのだ。運よく変質者とは遭遇しなかったが、そこで早朝のジョギングをしていた父と初めて出会ったと言う。
母によると、どうも木村家の先祖――祖母や曽祖母、それに明治期を駆け抜けた高祖母なども、似たような経験を持っているらしい。母方の祖母が、祖父と出会ったのも西公園だった。高祖母に至っては、まだ西公園と呼ばれる前の「桜ヶ岡公園」の梅の木の下で、高祖父と出会ったと聞いている。
もはや遺伝子レベルで木村家の人たちには西公園との不思議な因縁が刷り込まれているようだが、奇妙な話はこれだけではない。彼女たちは皆、事前に周囲から「西公園――桜ヶ岡公園に行くべからず」と忠告を受けていたらしいのだ。
「西公園には行くべからず」と言われたからこそ、そこへ行きたくなる。
そして女たちは、そこで必ず未来の伴侶――全て婿養子なのだけど――彼らに出会っている。
これは呪いか。あるいは宿命なのか。
そう思ったところで、若菜は背筋が寒くなった。
まさに今の自分には、その呪いであり、宿命のようなものが降りかかってきているのではないか。今さらながら怖くなってきた。
「どうしたの、若菜?」クラスの女子が声をかけてきた。「顔色悪いけど、体調悪いの?」
彼女は白いシャツに白のサマーセーターを合わせている。そこまでは違和感はないのだけど、履いているのはスカートではなく白袴である。剣道部から借りてきたようだが、見事に全身が白装束だ。手にしたビニール袋は紙吹雪でパンパンに膨らんでいる。
室内を見渡せば、男子も含めて、大半のクラスメイトは白袴の姿になっていた。アニメのキャラクターのコスプレや運動着の生徒もいるが、彼らは少数派だ。
白い連中は「フラッシュ・モブ」。これから始まる二校戦行進の行き着く先――西公園で応援部の三年生が、木村若菜に向かって告白する。その時に、白装束の一味は一斉に飛び出してきて、紙吹雪を舞い散らせながら歌って踊るのだ。
「大丈夫」と若菜は答える。笑顔を作ったつもりだが、引き攣っているのかもしれない。
「そろそろグラウンドに集合だけど……若菜は、別に着替えなくてもいいんだよね」
今日の主役だし、と彼女は含みのある笑みを浮かべる。
「うん、まあ、そうかな……」
若菜は学校指定のグレーのブレザーに白いシャツ、スカートを合わせた制服姿だ。
「じゃあ、みんな行くよー」とその女子は声を上げる。それが合図になって、クラスメイトたちはゾロゾロと教室を出ていく。
若菜も彼らに続こうと席を立つ。そして、ドアまで近づいた時、不意にうしろから手をギュッと掴まれた。
驚いて振り返ると、そこに運動着姿の同級生がいた。それも男子だ。
ドクンと、若菜の心臓が大きく跳ねた。
「西公園に行くな」
その男子――橋浦湊は、はっきりとそう言った。
「な、なんで……」若菜は、声を震わせる。「橋浦が、こんなとこににいるの……? だって学校違うし……」
そもそも彼は二校戦の行列には参加しないのではなかったか。
「い、いや……。一高だと行進に参加しない生徒は、午後は自宅学習で暇だから……。気になったから、告白の邪魔をしに来たって言うか……」
湊の声も震えている。
一高生の彼が、どう言う訳か二高の運動着を着てこの教室にいる。彼の運動着には掠れた文字で「橋浦」と書いた名札まで縫いつけてある。
「この運動着、二校に通ってた兄貴のやつだよ。ここだと違和感ないよな。まあ、なんつーか、仮装してるみたいだし……」
湊の顔は真っ赤になっていた。
