西公園に行くべからず


 二〇二六年五月六日
 仙台市宮城野区

『だからさ、橋浦(はしうら)、こっちは本当に困ってんのよ!』
 橋浦(はしうら)(みなと)はスマホをスピーカーモードに変更した。ノートの脇にスマホを置いて、彼は数学の問題集を手に取った。パラパラとページをめくる。
『ねぇ、ちゃんと聞いてる?』
 声の主は、木村(きむら)若菜(わかな)だ。彼女は湊の幼馴染みでもある。
 義務教育の九年間、奇跡的に同じクラスで過ごした仲でもある。ただし、高校に進学する際に、その奇跡は終わりを告げた。
 「聞いてるよ……」
 湊は、県下トップの進学校でもある仙台青葉第一高等学校――通称「一高」に進学した。
 一方、若菜は、自宅近くの仙台若林第二高等学校――こちらは通称「二校」に通っている。
 『うそ、絶対聞いてなかったでしょ』
 「ちゃんと聞いてるけど」
 うそは言っていない。ただし話の内容にほとんど興味がないから、彼女の話が全く頭に入ってこないだけだ。
 湊は問題集を開いて、その上にペンケースを置く。今日のノルマはこのページから。就寝までに次のページの最後の問いまで終わらせよう、などと考えていると、
『ちょっとは真面目に聞いてよ! あたしの人生がかかってんの!』
 若菜の怒りに満ちた声が響き渡る。
「そんなに怒鳴らなくても……。もう夜も遅いし、隣の部屋の兄貴とかにも聞こえるから、なるべく声を抑えてほしいんだけど」
 隣室には三つ上の兄がいる。兄は二高に通っていたが、一高生に負けないくらい成績が優秀であり、東北大学の理工学部に進学した。そこで彼は量子化学を専攻している。最近は、バイトがない日は大学の次世代型放射光施設「ナノテラス」に入り浸っている。
『なんでお兄さんにあたしの声が聞こえるのよ。これ電話でしょ』
「スピーカーにしてるから、声が大きいと隣まで余裕で聞こえる」
『なんで勝手にスピーカーにしてんの!』と洒落にならないくらいの大音量で怒鳴られた。
 同時に、ドンッと隣室の兄が壁を叩いてくる。「次はない」と言う警告だろう。
 夕方に顔を合わせた時、兄はバイトで疲れきった顔をしていた。無理もない。お互いのためにも彼には早急にバイト代を貯めて、一人暮らしを実現してほしい。
「わかったよ……」湊は渋々スマホのスプーカー機能をオフにして、耳に当てる。「で、血胸なんの話だっけ?」
『やっぱなんも聞いてなかったじゃん!』
 耳元で叫ばれると、頭の中にキーンと高い音が響き渡る。「ご、ごめん……」と湊は言ったはずだが、耳がバカになっているから声がちゃんと出ていたのか覚束ない。
『――だから、こっちは応援部の三年の先輩に告白されそうになってんの。しかも明日の『二校戦』の行進の時にだよ。信じられる?』
 そうだった。そんな罰ゲームのようなイベントを若菜は延々と語っていたのだ。
「二校戦」とは、湊の一高と若菜の二高の野球部が、毎年五月の第二土曜日に実施する対抗戦のことである。両校とも歴史は古く、明治期に創立された尋常中学校が母体となっている。そして野球部も発足も同様に明治期まで遡る。最も古い記録にある二校どうしの試合は、明治三十三年――一九〇〇年とも言われており、その歴史は実に百年を超えている。
 そして、野球人気が最高潮に達した昭和期には、野球部以外の両校の生徒を巻き込んだ「二校戦行進」なる行事まで誕生した。二校戦行進とは、定期戦の数日前の平日の午後に、両校の生徒が商店街を練り歩き、最終的に一堂に会して応援歌を交換する儀式である。例年、地元紙やテレビ局がローカルニュースとして取り上げるため、地元の人たちにとっては初夏の風物詩のようにもなっている。
『ねぇ、橋浦、あたしどうしたらいい?』
 若菜は判断を湊に委ねてくる。
 湊にしてみれば「勝手にしてくれ」とも言いたくなるが、そう言ってしまうと彼女はますます機嫌を損ねるのだ。
『ねぇ、ねぇ、ねぇ』と催促する彼女の声音は、やけに艶めいている。
「なんか、木村、かなり嬉しそうなんだけど……」
『べ、別にぃ……』と彼女は慌てて打ち消す。
 図星か。
 昔から若菜はイベントが大好物だ。それに先輩のことはよく知らないが、告白されること自体は満更ではないのかもしれない。
「あのさ、木村は仙台市の青少年健全保護条例って読んだことある。特に第三十一条第一項」
『あるわけないでしょ、普通』
「何人も、青少年に対し、みだらな性行為又はわいせつな行為をしては――」
『バッカじゃないの!』
 若菜が再び大声で叫ぶ。鼓膜が破れるくらいの音量だった。
「……て、てかさ、木村、相談する相手を間違えてんじゃない……。僕じゃなくてさ、そもそも木村の学校の友だちとかに相談した方がいいと思うんだけど」
『二高の友だちは絶対に無理。みんなフラッシュ・モブの練習してるから』
「フラッシュ・モブ?」
『そう。先輩が告白するタイミングで二年の有志で歌いながら、ダンスするんだって。衣装も仮装って言うか、衣装の色を合わせて、祝福用の紙吹雪もクラスのみんなで用意してる』
 二校戦行進は、両校とも運動着で参加する生徒が多い。しかし、仮装――つまりコスプレでの参加も許可されており、毎年、思い思いの衣装に身を包んだ生徒も一定割合見かける。
 それにしても、コスプレにフラッシュ・モブとは。
 かつての一高は、「蛮殻」と呼ばれるほど硬派な校風で有名だったのだけど、変われば変わるものだ。
「だったら、木村は行進に参加しない方がいいんじゃない?」
 はぁ? と若菜は怪訝な声を出す。
「いや、こっちの二高だと学校も午前中で終わるから。そもそも行進に参加しない人も多いんだよ。僕も別に野球には興味ないし、参加しないけど」
『参加しないでなにするのよ』
「家に帰って勉強とか……。一高でもそろそろ中間考査とかあるでしょ」
『あんたバカなの?』
 プッ、と湊は電話を切る。
 語るに足らず。貴重な時間を浪費してしまった。
 携帯の画面に表示されている時刻は、二十三時半。問題集に取りかからねば――と思ったところで、スマホが鳴った。もちろん発信者は木村若菜。もはや居留守を決め込みたい。
『なんで切るの、信じられない!』
 スピーカーモードの絶叫が室内に響き渡る。
 ドン、と再び隣室の兄が壁を叩く。今度は、湊も壁を叩き返そうかと思って拳を固めたが、やめておいた。壁を叩くよりも、電話先の若菜に言い返すのが先だ。
「いや、バカって言われたら流石に切るでしょ……。てか、もう電話切ってもいい? こっちは木村の役に立てそうもないし、試験勉強に集中したいし……」
『もうあんたなんかに相談しない!』
 ブチッ、と嫌な音が出そうなくらいの勢いで電話が切られた。
 湊はため息を吐いてから、頭をガリガリと引っ掻いた。無造作に伸びた髪が、ガサガサと耳障りな音を立てた。