「お仕事、大変だったの?」
隣の常連客が帰り、手が空いた女将さんが優しく尋ねてきた。
「はい。東京から出張で。今日、大きな仕事が終わったところで」
「あら、それは本当にお疲れ様」
「ありがとうございます」
「じゃあ、これサービスね」
そう言って出されたのは、自家製の蕪の千枚漬けだった。薄く切られた蕪は、白く透き通っている。1枚つまんで口に入れる。ほどよい酸味に、昆布の旨味。そして、少しだけ甘い。
さっきまで食べていた濃厚なガスエビとは対照的で、口の中がさっぱりする。
「美味しいです」
「箸休めにね」
「こういうの、嬉しいです」
女将さんは少しだけ目を細めた。
「みんな頑張ってるからね」
その言葉が、なぜか胸に残った。
「私、出張の時のひとりご飯って、すごく好きなんです」
「へえ」
「誰にも邪魔されない、私だけの特別な時間っていうか」
仕事中は、人の顔色を見る。
相手の話を聞く。
上司の予定を確認する。
後輩のフォローをする。
クライアントの要望を先回りする。
それが仕事だ。
だからこそ、ひとりになった時くらいは、自分のためだけに時間を使いたい。
「自分のためだけに時間を使うのは、1番の贅沢だからね」
女将さんはそう言った。
「そんな大切な時間に、この店を選んでくれたお礼に…」
厨房のほうへ振り返る。
「締めに、これ食べていって」
そう言って置かれたのは、のどぐろの炙り握りが二貫だった。
「えっ?」
「小さいけどね」
表面が軽く炙られたのどぐろ。皮目が香ばしく色づき、脂がふつふつと浮かんでいる。
私は一貫を箸でつまんだ。醤油をほんの少しだけつけ、口へ。最初に感じたのは、炙った皮の香ばしさ。次の瞬間、脂が舌の上で溶けた。濃い。なのに、くどくない。脂の甘みがシャリに絡み、口の中でほどけていく。
「…………」
言葉が出ない。
ただ、目を閉じる。
そして、二貫目を食べる。
今度はゆっくり味わう。シャリの酸味とのどぐろの脂、炙りの香りまでもが全部が一緒になって、喉の奥へ消えていく。幸福感が頭のてっぺんまで突き抜けた。
「美味しい……」
「よかった」
女将さんが笑う。
「これ、反則ですよ」
「何が?」
「こんなの食べたら、明日からまた頑張るしかないじゃないですか」
「あら。それなら、いいことじゃない」
女将さんは、それはそれは上品に笑う。
いつの間にか、ビールも日本酒もなくなっている。料理もほとんど食べ終えた。お腹はいっぱい。
でも、不思議と苦しくない。
心まで満たされたような気分だった。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「こちらこそ。東京に帰っても頑張ってね」
「ありがとうございます」
引き戸を開ける。
外へ出ると、夜の金沢の風が頬を撫でた。



