「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
カウンターの奥から声をかけてくれたのは、上品な割烹着姿の女将さんだった。店内は10席ほどのカウンターと、その奥に小さな座敷があるだけ。
派手さはない。
けれど、磨き込まれた木のカウンターと、壁に並んだ地酒の瓶がなんとも落ち着く。
そして何より、出汁の匂いがする。昆布と鰹節。そこに、焼いた魚の香ばしさと、醤油の甘い香りが混ざっている。
(最高…)
私はカウンターの端に腰を下ろした。
「お飲み物は?」
「生ビールをお願いします」
「はいよ」
ほどなくして、冷えたジョッキが目の前に置かれた。
琥珀色の液体
白い泡
ジョッキの表面には細かな水滴がびっしりと浮いている。
私は片手でジョッキを持ち上げた。
「いただきます」
ゴクッ
ゴクゴクッ
「はぁぁ……」
思わず、声が出てしまう。
この背徳的な冷たさとのど越しが、仕事が終わった身体に染みる。
今は全てがどうでもいい。
この1杯だけが、今の私の世界だった。
「お客さん、いい飲みっぷりねぇ」
女将さんが笑う。
「今日は頑張ったので」
「あら。じゃあ、ご褒美ね」
「はい」
私はメニューを開いた。
悩む。
ものすごく悩む。
だって、全部美味しそう。
ガスエビも食べたい。
のどぐろも食べたい。
加賀野菜も気になる。
でも、最初から飛ばしすぎると後半が苦しくなる。
ひとりメシにおいて、これは重要な問題だった。
誰かと一緒なら「これ美味しいね」と言いながら料理を分けられる。でも、ひとりなら全部自分の胃袋に入れるしかない。
つまり、注文には戦略が必要だ。
「すみません。まず金沢おでんをお願いします」
「何を入れようか?」
「車麩とバイ貝、それと……大根。あと、赤巻きもください」
「はいよ」
女将さんが鍋へ向かう。
私はその背中を眺めながら、ビールをもう一口飲んだ。
ほどなくして、湯気の立つ器が置かれた。
大きな車麩
つやつやした大根
赤い渦巻き模様の赤巻き
そして、殻付きのバイ貝
箸を伸ばし、まず車麩を割る。途端に、じゅわっと中から出汁が溢れた。熱いことを承知の上で、構わず口に入れる。
「んん~…」
昆布と鰹の旨味。そこに車麩そのものの香ばしさが重なる。
ふわふわなのに、噛むと出汁がさらに滲み出してくる。これはもう食べ物というより、出汁を食べているような感覚だ。
大根は箸を入れただけでほろりと崩れた。口に運んでから広がるのは、じっくり煮含められた出汁と大根の甘み。
「……美味しい」
今度は声に出してしまった。
バイ貝は、少し歯応えがある。噛むほどに貝の旨味がじわじわ出てきて、思わずビールを流し込む。これがまた合う。
(ああ、幸せ)
私は心の中で何度も頷いた。
仕事を頑張った日のご褒美として、これ以上のものがあるだろうか。
いや、まだある。
メニューを見る。
(決めた、次は刺身にしよう)



